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(Chapter,20)~(Chapter,22)

(Chapter,20)


アンナ・ビューロには8歳以前の記憶が無い。


アンナの母親エリナは前大戦で敵機12機を撃墜した、プラウダ連邦でも数少ない空軍の女性エースパイロットだった。


彼女は大戦の最中、自分を撃墜し、同時に自分の命を救った敵軍パイロットのアルター・ビューロと結婚し、リトパーグと言う姓をビューロと変えながらも故郷に新居を構えた。


「空で君に一目惚れした、何が何でも結婚してもらう」


そう嘯いたヴァシュリスク共和国のエースパイロット、アルター・ビューロ は、自分は国家も故郷も捨てられないと固辞するエリナに対し

「それじゃあ俺が国を捨てたら結婚してくれるんだな?」

と言い放ち実行する豪胆な情熱家でもあった。


「君が手に入るならば俺は、操縦桿を握る手で生涯鍬を握り続けても悔いはない」


当惑するエリナを尻目にアルターは、祖国もエースパイロットとしての地位や名誉も、それらがもたらす恩恵の全てをも捨てて彼女の故郷に現れた。


やがて二人は郊外にそれなりの土地を購入して農場を構え、4年後には愛娘のアンナが誕生した。


アルターは「有事には軍籍に移り軍務によって国に報いる」と言う条件と、彼の「血筋」を考慮される形で、神聖パルト公国の国籍を取得した。


空軍の英雄であるエリナは、戦後まもなく上級平民への昇格を果たしていた。もっとも、最後の出撃でアルターに撃墜された記録が無ければ、彼女は下級貴族の末席に名を連ねる事が出来たはずであったが。


夫婦は平民としては比較的高い地位と権利を有し、恩賞などに起因する控除税率も高い裕福な家庭と言える環境に位置していた。


さらに彼らは名声と話題性において、地元貴族を遥かに凌駕していた。雑誌や研究、ラジオなどの取材が訪れることもあったが、夫婦はそれらを表向き最低限の礼節で迎えながらも、あまり快くは思っていなかった。

夫婦は平凡な農場の主として、以後の生涯をまっとうしたかったのである。


2人は戦時の栄光を自らの口で語る事は無く、勤めて地元の人々と打ち解けるよう、ひた向きに労働に打ち込み、地元の祭事や共同作業には、誰よりも多くの尽力と寄付を行い、戦時が過去となるほどの時が流れた頃には、人々は彼ら夫婦を「同郷の身内」と認めるに至っていた。


 数年後、上級貴族ゾロトフ家の画策した民主化騒動が勃発した。

同時に、家族の住む郊外の小さな家は、保守系貴族の尖兵となった農奴兵にとって、格好の標的と認識された。目的は、金庫の中身ではなかった。


 平時、民主化の必要性と農奴制の非人道性を憚る事なく口にしていたエリナと元敵国のエースパイロットの夫と言う二つの首級が並ぶ民家、それらはもう農奴兵にとって、飼い主に捧げる供物以外の何者でもなかったからである。


 彼ら夫婦の名声を妬む地元貴族は少なくなかった事を、召使であり奴隷であった彼らは、誰よりも熟知していたのである。


 エリナはアルターの留守中に自宅を襲った農奴達に殺害された。

彼女は自分の命と引き換えに、娘アンナの命を守ったのだ。


「おお神よ!なぜこんな仕打ちを!なぜエリナを奪いたもうた何故私の妻を奪いたもうた」


自分の命を救った両親の親友に抱きかかえられながら、アンナは妻エリナの傍に蹲って嗚咽する父アルターの姿を眺めていた。それが、彼女の生涯を通して最も古い記憶となった。


「私が愚かだった!民衆におもねる貴族に耳を貸した、貧困に喘ぐ農奴に心を許した、変わるはずの無い世界を変えられると夢想した、全てが間違いだった!」


 激昂する父に、幼いアンナは恐怖と不安を覚えた。


「すまないアルター…エリナを救えなかった、しかしアンナはここに…」


「おじさんが助けに来てくれたの、でもパパ…ママ…ママが…」


 アンナは恐る恐るアルターに声をかけた。


「おお娘よ!今日と言う日を覚えておきなさい!貴族どもの欲望と傲慢が、虐げられた者達の醜い心が、私たちかけがえのないものを奪った今日と言う日を!」


 振り向いた父は、娘の無事を喜ぶ事も無く、ただ怨念の言葉を吐いていた。


「私はパルトの空へ帰る、そして再び黒い悪魔として蘇り、この空をお前たち貴族の血で染め上げる事をここに誓う!」


 相当の戦闘を繰り返したのであろうアルターの右側頭部からは、大量の出血が認められ、衣服も血塗れだった。

だがそれ以上に、陽気で温厚だった父の激高に、アンナは恐怖していた。


「立ち塞がる者は平民だろうが農奴だろうが、女だろうが子供だろうが容赦はせぬ!友であった者よ!最も憎むべき貴族の末席に侍る悪魔よ!貴様は屍となって我が意思をゾロトフに伝えよ!」


 耳を劈く銃声と同時に、男の体に1発の銃弾が吸い込まれた。男は弧を描くように倒れ、抱きかかえられていたアンナは床に放り出された。アルターは妻エリナを救出するべく駈け付けた親友の左胸を撃ったのだ。

何故父が家族ぐるみで付き合いのあった親友を撃ったのか、アンナには全く理解が出来なかった。

彼がいなければ、アンナもまた、農奴に殺されていただろう。


「何故だアルター…私は…ゾロトフは民衆を…自由を」


 アルターは瀕死の男を一瞥すると、弾の切れた弾倉を機関銃から外し、腰に下げた袋に入った無数の弾倉の1つを装てんした。

次の瞬間、連続した無数の銃声と共に、男の頭部が四散した。


「いやああっ!」


目前に落下した男の頭蓋骨の破片に、アンナは悲鳴を上げた。そんな娘の恐怖を解する事もなく、アルターはアンナの小さな身体を担ぎ上げて背負うと、紐で縛り付けた。


「パパ?」


「アンナ良く見るんだ!ママを殺した人間を、国を、醜い争いを!そして貴族たちを!」


 アルターは村に存在する武装した全ての人間に銃口を向けた。

農奴もその指揮を取る貴族の指揮官も、革命貴族も平民も全てを標的にした。


 声をかけてきた知人にも、驚愕した者にも、命乞いをした者にも、気付かぬ者にも、圧倒的な火力で襲って来た者にも、アルターは銃口を向け、その全てを血祭りにあげた。


 アンナはアルターの背中にあって、様々な断末魔を目撃した。

眼球を銃剣で串刺しにされた兵士、胸を赤く染めて絶命する農奴、吹き飛ぶ敵の手足、破壊された頭部からぶら下がる貴族の眼球、いつしかアンナは、恐怖のあまり白目をむいて気絶していた。


 それ以降、アンナの記憶は4日分以上が消失している。


 アンナが受けた精神的ショックは、アルターと行動した逃避行の記憶までをも、完全に失わせ、その断片に至るまで、生涯取り戻す事は叶わなかった。


 後世、数少ない証言によって、その後のアンナの様子は、大きく目を見開いたまま、全くの無表情で父親の命令通り機敏に動く、人形のような少女として断片的な記録が残るのみとなっている。


 アンナが次に記憶しているのは、信じ難いほど高い天井と、豪華なベットに横たわる自分と、満面の笑みで自分を覗き込む父方の祖父母の顔であった。






(Chapter,21)


 アルターは自宅を出ると40人近くを殺傷し、軍用車両で近隣の飛行場へ向かった。


 アルターはここでは、無駄な殺傷は行わなかった。

軽飛行機を強奪して逃走することに主眼を置いて行動したからである。


 アルターは、隠匿と消音効果のために機関銃を布のカバンの中に入れて持ち、やや広い施設内を用心深く進むと、離陸準備を急ぐ軽飛行機のある、格納庫に繋がる通路に辿り着いた。


 アルターはここで、貴族の護衛についていた近衛兵二人と整備係の二人、そしてパイロットの二人だけを射殺した。幸い、エンジンや様々な機械音に紛れて、アルターの射撃音に気付くものはいなかった。 


 アルターは逃走を図る貴族たちが談笑する待合室を認め一瞥したが、殺意を押し留め、格納庫と内部施設とを隔てるドアを閉鎖し、容易な開閉が出来ないように航空機用の巨大なタイヤを転がして倒し、それを蓋とした。


 奪った軽飛行機は、保守系貴族が逃走用に準備していたものに違いなく、充分な燃料が給油された直後であり、エンジンも温まっていた。


 アルターは最低限の機体確認を行うと、格納庫から直接加速して機体を走らせ、そのまま 離陸を行った。


 幸運な事に、軽飛行機はやや大型のフラップを装備した離陸距離のかなり短い機体であった為、現場には少々の動揺はあったものの、離陸に大きな影響の出るような障害はなく、飛行場はあっという間に眼下の塵と化した。


 その後アルターは低空飛行に徹し、600キロ弱を飛行した。

やがてパルト国境近辺に差し掛かると、アルターは自らの出自と騒乱における被害者であると言う立場と、難民としての受け入れ要請をパルト公国軍施設に通信した。


 施設はアルターの親族が多く管理職として勤務していた為、事態は即座にアルターの兄ヴァルデマール・フォン・ビューロへと報告された。


 報告を受けた中堅貴族、ビューロ家の判断と手配は迅速かつ手厚いものであった。アルターの亡命は即座に受け入れられ、特例的にピューロ家が所有する飛行場への着地が許可された。


 こうしてアルターは約十年振りの帰郷を果たしたのである。

本家三男の帰還を喜ぶ一族は、あらゆる手段を講じてアルターの国籍変更とアンナの新規国籍取得のために尽力した。


 権力と名声を背景にしたアルターたちの帰国は、法的にも順調に進み、

親子がその手続き等で不快な思いをする事は最後まで無かった。


 またアルターの行った虐殺が国際手配される事も無かった。

ピューロ家にしてみれば、僅かな出費でそれらを騒乱の闇に紛らわせる事は容易く、彼ら一族にとって、騒乱は息子の帰還を促す良い契機であったと歓迎さえしていたからである。






(Chapter,22)


 その後アルターは、家柄や身分、前大戦での戦歴から軍内の人脈に至るまで、持てる全ての繋がりと名声を駆使して、軍務に復帰しようと力を尽くした。


 事実上の敵国への国籍変更、敵国エースパイロットとの婚姻、敵国空軍への非常勤軍籍、パルト公国での軍務に再起するには、到底無理の在る経歴を背負いながらも、アルターはあらゆる努力を惜しまずに、空軍への復帰に向けた努力を続けた。


2年と数ヶ月の歳月を掛けた後、アルターはついに念願の軍籍の取得を果たし、教官職を拒否してパイロットとしての地位に返り咲いたが、彼の野望は、2年後の身体検査で霧散した。騒乱の日、頭部に受けた傷が元で、アルターの視神経は絶望的な障害を負っていたのだ。


 症状の進行は、確実に失明に繋がるものであると告知されたアルターは、再び絶望した。


「パパはもうすぐ目が見えなくなってしまう、ママの仇が討てなくなってしまった。ゴメンよアンナ、パパはもう生きる望みを全て失ってしまったんだ…」


 アルターはアンナを抱きしめて嗚咽した。

13歳になったアンナは、崩れ泣く父親を抱きしめて、頬ずりした。


「可哀想なパパ…大丈夫よパパ、私パパにお願いがあるの、そして聞いて欲しい話もあるの、来週の日曜日に一緒に協会に行きましょう、お爺様やお婆様もきっとお喜びになるわ」


 アルターはアンナの言葉に驚きを隠せなかった。気が付かない間に、アンナの瞳には強い意志が感じられるようになっていた。


 アンナの望みは、父娘二人で街外れの教会に赴き「パルト正教」の洗礼を受けようと言うものであった。


 思えばアルターは、アンナがあの騒乱で母親を失い、一時無言症になった事や、祖父母と屋敷の面々の献身的な愛情でそれが回復した経緯の詳細なども知らなかった。


 復讐の念に囚われて、娘の心を意に介さなかった自分に、アルターは初めて気付いた。


 アルターは信心の持ち合わせが少なく、敬虔なパルト信者である両親もそれを危惧していた。敵国の女性パイロットと結婚し、敵国への国籍移動までもを躊躇なく行った息子の、文化的な共同意識の低さも、そうした道徳観の欠如が原因であるとアルターの両親は日々嘆息していたのである。


 日曜日になって、アルターはアンナと共に教会へ赴いた。

アンナに対し心や時間を尽くさなかったここ数年間の贖罪意識が、アルターを敬虔な気持ちにさせてもいた。


「パパ!こっちよ!」


 アンナに引きずられるように、アルターは教会の門をくぐった。

神父をはじめ、教会の一同は、親子を熱烈に歓迎した。三日前、息子が洗礼を決意した事を喜ぶ両親が、多額の寄付を教会に行ったからである。


 洗礼は簡素かつ厳かに進み、アルターとアンナは洗礼名をそれぞれ「バート」「マリー」として拝受した。その後、アルターはアンナの強い希望で妻エリナの墓へと赴いた。


 アルターは独立した墓石を、ピューロ家の敷地の外れに設えた。 

そこにエリナの身体が眠っているわけではない。

しかし、残された父娘には祈りを捧げる場所が必要だった。


「ここは静かだわ、私たちの話は、神様以外の誰にも聞こえない」


 アンナは不思議な雰囲気を持つようになった。アルターは初めてそれに気が付いた。


「お父様」


 アンナが初めて自分を「お父様」と呼んだ。

13才の娘だ、自分を「パパ」と呼ぶ事に、少々の違和感を感じてはいた。

しかし眼前の少女が放つこの威容はなんだ?


「お父様、私たちは本日洗礼を受けました。これからは敬虔な信徒として教義を守り教義に背く者を正しく導かなければならないのです」


「アンナ…」


娘は自分に何を言おうとしているのだ?アルターには全く予想が付かなかった。それよりも目の前の少女は本当にアンナなのか?言いようの無い不安がアルターの胸に去来した。


「お父様、教義は教えています、人は神の元に全て平等であると。でもこの世界には平等がありません、言い換えれば貴族が存在します。そしてお父様も私も、その恩恵によって豊かな生活をしています。汚らわしい事です」


アルターは驚愕した。幼いと思っていた娘の胸中には、既に確たる思想が芽生えていたのだ。


「全ての病は罪によって訪れるのです。お父様の罪は復讐の為に貴族の力を使ったからに他なりません、でもお父様、私だけはお父様の罪を許します」


「アンナ…」


 アルターは言い様の無い不安にな襲われた。

娘が何を自分に伝えようとしているのか、予想は出来なかったが、何か大きな、日常を大きく逸脱する何かが、自分に迫っている様な恐怖が、胸に去来し始めていた。


「何故ならば、私はお母様を失った悲しみが、どれ程深くお父様を傷つけたかを知っている唯一人の人間だからです」


 アルターは完全に言葉を失った。

アンナは自分に何を伝えようとしているのか、見当も付かなかった。


「お父様はもうすぐ光を失います、でも安心してください、私がお父様に代わって空を飛びます。そして全ての貴族をこの空から滅ぼします」


「何だと?何を言い出すんだアンナ!」


「お父様は仰いました。この日を忘れるなと、貴族の傲慢が、民衆や更に虐げられた人々をさらに醜く変えると言う事を」


「アンナ…それは」


「それがこの世にさらなる地獄を呼び覚ますと言う事を。その有様を見ろと!その全てを憎めと!確かにそう仰いました!」


「アンナ、おお神よ、救いたまえ!どうか我が娘の魂を救いたまえ!」


 アルターは信仰に帰依し洗礼を受けたこの日、初めて知ったのだ。

戦渦に母を失い、故郷を失い、記憶をも失った娘が、小さな胸を痛め、それでも父の魂の救済をと苦悩した末に、ついに狂気に飲み込まれた事を。


「お父様の書庫にある航空機関係の書籍は半分以上読破しました。お父様が光を失う前に、教えて貰いたい事が、私には沢山あります」


 アンナは父の狼狽に眉1つ動かさなかった。

自分の決意と判断を、アルターに告白する事を最優先に振舞っていた。


「お父様の日誌やメモも読みました。私はお父様の目となり手足となりましょう。そしてお父様がなさろうとする事の悉くを私が成せば、お父様の夢は叶います、そして私の夢も叶います」


「いけないアンナ、私は命にかかわる事ばかりを夢想した、それが叶わぬと言う罰を!その罰を私が受ければ良いだけの話なのだアンナ、お前が関わる必要はない!」


「キルヒアイゼン閣下が全権を掌握する前に、私は閣下の目前で同盟国を代表する人間として、お披露目の飛行をする必要があります。党の国民運動大会は2年後、それまでに私は、天才パイロットと呼ばれるに相応しい技能と知識を取得する必要があります」


 それは、全てアルターが自分で実行するはずの計画だった。


 自分が娘を省みずに妄執に囚われていた間、娘はこんなにも自分の心に寄り添ってくれていたのか、自らの心を狂気に晒してまで、自分を思ってくれていたのか、それとも、いや、しかし…


 アルターの心に悪魔が寄り添い始めていた。

考えてはならない事を考え始めている。

アルターは自分の浅はかさに戦慄した。


「それには、政権の中枢に関わる様々な人脈との接触と、その為の資金が必要です。ご先祖様やお爺様が蓄えた財産の一部はお父様にもご自由に出来るはず、その全て使い切ってでも私をヴァシュリスク共和国新政権の空軍に送り込んでください、お願いしますお父様」


 なんと美しい声なのか。


「パルト公国からの、同盟国からの英雄を、時期ヴァシュリスク政権は欲するはずです」


 なんと甘い言葉なのか。


「私を大三シューレに留学させて下さいお父様」


 そして、眼前の愛娘は、何故にかくも美しく成長していたのか!

金髪も碧眼も、思えば妻に瓜二つだった。整った鼻筋は自分に似ている、やや厚みのある唇はまるで聖母のそれだ。


 聖女のごとく微笑む娘はしかし、恐るべき悪魔の野望を口にしている。

神は、いや悪魔は、妻への想いを果たす為に、娘の命を生贄に選んだのか?


「お父様、可哀想なお父様…」


 膝を突き悪魔の誘いに抗うアルターの身体を、アンナは追うようにして膝を落とし、母親のように抱きしめた。


「ああ…エリナ…」


 アルターは懐かしい香りに咽び泣いた。それは、世界の全てと引き換えにしてでも守りたかった女の体臭だった。


 泥まみれで働いても、どんなに貧しくても、一日の労働を終え、寝所でその香りに包まれれば、アルターは幸せだった。


 そうした日々が死ぬまで続くと信じていた日々の生々しい記憶を、アルターは娘の身体から嗅ぎ取った。


 赤子のように大人しくなったアルターの耳元で、アンナはさらに囁いた。


「私はまず、五機の敵機を撃墜して、エースパイロットになります。そうして私は、自分の機体を赤く塗り替えて、プラウダの空を同じ色に染めましょう」


「ダメだ…アンナ…止めてくれ…後生だ…」


「あの日、何度も私の身体を男たちの血と脳漿で汚したこの世界を、私は決して許しません、全ての貴族が滅びるまで、私は飛び続けます。それを妨げる全ての者もまた、私は許しません」


「アンナ…」


 アルターはもう、心に去来する欲望を抑える事が出来なかった。どうしようもなくこみ上げる邪悪な笑いを抑えられなかった。



「神よ感謝します!我が復讐の矛を授けてくださった事を! 退けるべき試練を使わせていただきます!我ら親子を地獄に落とすが良い!是非無き神よ!貴方を許しません!」


 アルターの顔が、あの日と同じ様に変化していた。怒りに我を忘れ、全てを敵視する狂った戦士の目だった。しかしその姿に、アンナは言いようの無い興奮を覚えた。


「お父様、こっちを向いてお父様っお父様っお父様っ!アルターッ!」


 アンナは神を罵って叫ぶアルターの頭部を両手で押さえつけ、、狂ったように何かを叫ぶアルターの口を、未だ穢れを知らぬ唇で強引に塞いでみせた。


「アンナッ!何をっ」


 アルターは一瞬、驚愕してアンナの体を突き放そうとした。アンナは渾身の力を込めてアルターを組み伏せながら、目を見開いて抵抗するアルターの唇や舌に自分の舌を激しく這わせた。


「アルター…アルター…」


 アンナは飢えた獣のように、アルターの口中に自らの唾液を流し込み、アルターのそれを、一心不乱に貪った。


 アルターは、大きく目を見開き、恐れるような表情でアンナの行為に抗っていたが、その力はやがて、見る見る内に弱まっていった。


 アルターは力無く両腕でアンナの体を抱きしめ、その唇を貪り始め、静かに、母親の胸に飛び込む様に、アンナの身体に覆い被さった。


 しかし、最後の理性がアルターの身体に歯止めをかけた。アルターは正気を取り戻したようにアンナから唇を離し、眼下に横たわる娘の姿に怯えた。


「ダメだ…エリナじゃない…これはエリナじゃない…これは娘だ…娘のアンナじゃないか…私は…」


 自分に覆いかぶさるアルターに、アンナは冥い悦びを感じていた。それを最後まで満足させる為に何をしなければいけないかは、アンナの体に宿る本能がまた、熟知していた。


「良いのよパパ…ほら…私は…」


 アンナは自ら上着をはだけさせ、アルターに裸体を差し出した。


「エリナ…ああエリナ…」


 アルターは最後に残された理性を失った。


 再びアンナに覆いかぶさったアルターは、少女の身体に残された、最後の小さな布切れを引きちぎり、その肢体を乱暴に貪り始めた。


 汚らわしい宴の果てに、アンナはこの日再び、その清らかな身体を赤く染め上げた。


 それが後世、「悪魔の契約」と呼ばれる事になる「宴」の第一幕であった。


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