ありったけのありふれたとびきりを君に 【3カ月】
マンションの通路にひと気はなく、どこかの赤子が夜泣きする声とともに、生ぬるい風がびゅうとドアを打ちつける。
長い秋の夜。それも、随分と真夜中だ。
自宅の前に立つわたしは、辺りを飛び交う羽蟻達を横目に、スーツの左ポケットから家の鍵を探る。
冷たく、固い感触が指に触れて、わたしはそれを取り出した。
鍵穴に差し込むため鍵を上に反せば、まくれた袖から腕時計が覗き、わたしに時を知らせてくれる。
「…1時か」
誰とはなしに呟いて、そっと溜息。
ここ最近、仕事の忙しさがピークを迎え、日常生活は多忙を極めている。
9月の中間決算月は、どの企業も売り込みに力を入れるため、仕方ないといえば仕方がない。
特に営業職を生業とする者は、9月中に販売登録を上げておかないと販売店の売上実績に反映されないため、誰しもが躍起になって顧客獲得に努めている。
その結果、新婚3か月目にして、気が付けば13時間勤務、週休0.5日が当たり前という有様だ。
一人暮らしをしていたころ、わたしの生活は実に単調だった。
仕事終わり、終電前の電車に飛び乗り、アパートに戻ってくれば倒れるようにして眠りこけ、朝5時にセットした目覚ましで起床するとシャワーを浴び、ろくに朝食も取らずしてまた仕事に舞い戻る。
これを、たまに取れる休日以外はほぼ毎日繰り返していた。
正月に一度だけ顔を合わせた両親には、ひどく身体を心配された。
頬がこけ、顔色が悪いと指摘された。
知らず知らずの内、学生時代より7キロも体重が落ちていた。
一人暮らしをしていた当時のわたしは、誰に遠慮する必要も、文句を言われる筋合いもないと思っていた。
両親の言葉など右から左で、その次の日、わたしは同じように仕事に戻った。
同期に就職をした仲間が仕事を辞めたと聞くたびに、わたしは自らを誇らしく思った。
何よりも仕事を優先させるのが、一番だと考えていた。
…だが、今は。
「ただいま」
わたしは小声で帰宅の挨拶をし、極力音を出さぬよう、そっとドアを閉め、靴を脱ぐ。
明りの無い廊下を真っ直ぐ、突き当たりまで進めば、左のドアはダイニングキッチンに通ずる。
やはり遠慮がちにドアノブを引いて、手探りで照明のコントローラーを手にしたなら、電球に向かって「弱」のボタンを押す。
明るいとは程遠いぼんやりした光だったが、疲れた目にはこのくらいの照度が丁度よかった。
わたしはスーツを脱いで椅子にかけ、ネクタイを緩めてシャツのボタンを解く。
4人掛けテーブルの上には、ラップをかけたおかずと共に、茶碗と汁椀が下にして置いてある。
どうやら嫁は、先に寝てしまったようだ。
最初の数週間は、寝ぼけ眼を擦り擦り、わたしが帰ってくるまで律儀にテーブルについて待っていた。
わたしが帰宅したことに気付かず、声をかけるまで舟を漕いでいたこともある。
しかしそれも、そろそろ限界なのだろう。
わたしはテーブルを挟んで向かい側の、嫁の席を見詰めて、少し笑う。
主不在のそこに向かって、それでいいよと頷いてやる。
玄関のドアを開け、ダイニングキッチンに灯る光を確認するたび、わたしの気持ちは重たくなった。
残業をして遅くなったのだから、後ろ暗い気持ちなど無くて良いはずなのに、心は申し訳なさでいっぱいだった。
その気持ちは、何故か、嫁が「おかえり」といって笑顔でわたしを迎えるたび増した。
いっそテレビドラマの如く、「仕事とあたしのどっちが大切なの?!」と問い詰めてくれる方が、余程分かり易い。
嫌な顔一つでもしてくれれば、謝るなり言い訳するなり、諭すなりできるのに。
急な残業や休日出勤を喰らっても、それが例え映画館やレストランの中でも、嫁は「うん、分かった」と二つ返事で頷いて、仕舞いには「いってらっしゃい」と笑顔をくれる。
その度に、「おまえ、嫌じゃないのか?」と、思わず問いかけたくなるわたしは、おそらく嫉妬深いのだ。
わたしは茶碗と汁椀を手にとって、炊飯器と鍋の中からそれぞれ自分の好きな量をつぐ。
おかずは温めようかと思ったのだが、突くたび非常に甲高い電子音を鳴らせる、我家の電子レンジに尻ごみしてやめておいた。
箸を手に取り合掌して、「いただきます」と視線を下にやったとき、コースターの下に敷かれた、メモのような存在に気が付いた。
摘まみあげて、つい声に出し読んでしまう。
「お疲れ様です。帰ったら起こしてください。ごめんなさい。…」
読み上げたと同時に、様々な考えが逡巡する。
「お疲れさま」は、まぁ意味の通りだろう。「帰ったら起こして下さい」というのは、食事の相手をするから、ということで、最後の「ごめんなさい」は先に寝てしまったことを謝っているのだと思う。
わたしは、摘まんだ手紙を引っ繰り返し、テーブルの上に伏せた。
「誰が起こすか」
呟いて、色の薄い味噌汁を啜る。
いつもながらのその味は疲れた舌にちょうどよく、寝る前にもう一度火を通しておいたのだろうか、まだ十分に温かかった。
風呂に入り、床につくころには午前2時を回っている。
隣で眠りこける嫁に注意を払いつつ、足音を忍ばせてそっと布団に入った。
天井を向き身体を落ち着かせ、静かに瞼を閉じる。
…が、仕事疲れしているからか、目が冴えて一向に寝られない。
一度体勢を変えようと思って、横を向く。
すると、暗闇に慣れた目が、間近で横を向き眠りこける嫁の姿を映した。
すやすやと安らかな寝息を立てるその顔は、とても穏やかだ。
嫁の左手は毛布からはみ出て外に投げ出された挙句、わたしの布団にまで侵入しかけていた。
思わずくすりと笑って、やわく握られた5本の指を見る。
白く、華奢な指が、何だかとても愛らしい。
そっと触れてみたくなって、手を差し出した。
瞬間、薬指に嵌められた指輪に目が留まり、ビクリと手を竦ませる。
後頭部をガツンと殴られたような衝撃。
宙で硬直した腕は、暫く動かすことができない。
…休日出勤は嫌だろう。残業も寂しいだろう。
もしかすると嫁は、本当に何の気なしに指輪をしたまま眠ってしまっただけかもしれない。
深い意味もなく、単に外し忘れただけかもしれない。
しかしそれが、問い詰められるより痛く、非難されるよりも苦しい。
硬直した腕を勢い伸ばし、嫁の手を強く握った。
起きてしまっても構わないと思ったが、嫁が起きる気配は全くなかった。
わたしは彼女の薬指から指輪を外す。
握った手は一回りも小さく、細かったが、発する熱はわたしより数倍も高い。
その温かさに、無条件の安心感と、形容しがたい複雑な心境とを覚えつつ、わたしは再度目を瞑る。
仕事が全てだと思っていた。
守るものなど無かったし、仕事のためなら身を捨てられると信じて疑わなかった。
その価値観が、今ゆっくりと変わりつつある。
秋の夜風が一際大きく吹き荒れて、ガタガタと力強く窓ガラスを打ちつけた。
台風が近づいていると、ニュースで報じていた。この地区は、明日午後に暴風域となるらしい。
…いっそのこと、電車もバスも全部止まって、家から出られなくなってしまえばいいのに。
そう願ってしまった後で、しかし自家用車を運転してでも仕事に来いと言われる我が身を思い、皮肉にも少し笑った。
嫁の手は握ったまま、体を天井に向け仰向けの体勢になった。
間もなく、壁掛け時計が鈴の音を3度鳴らし、午前3時をわたしに告げた。
夜明けを迎えるまで、あと2時間足らずだ。