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猫ストーム!  作者: ルト
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2: なんで走る

 鹿沢が一方的なデッドヒートを演じているとき。

 始業前に人間の集まることが極めてまれな教室を押し込めた、実習教室棟と呼ばれる場所において、その「人間の集まることが極めてまれな教室」筆頭候補である物理室。

 八つある六人掛けの大テーブルの真ん中に、保科(ほしな)(まなぶ)(はら)素子(もとこ)が二人きりで座っていた。

 原素子が英語の対訳をノートに書き進める手を、ピタリと止める。


「先輩。私たち科学部ですよね」

「イエース」


 隣の椅子に足を乗せながら漫画を読む保科学が、どうでもよさげに答えた。

 英語の教科書とノートを閉じて重ね、ペンをそのうえに横たえる。


「それがどうして、朝に集まる必要があるんですか?」


 保科学も、おもむろに漫画を閉じて、机の上に置いた。

 椅子に座り直し、膝を楽にして背筋を伸ばし、両手は力を抜いて漫画の両脇に手のひらをつける。

 深呼吸し、おごそかに口を開いた。


「科学部が、朝練をしちゃいけない理由があるのか!?」

「ありませんよ。ありませんけど」


 原素子は唇を尖らせて、二人きりには広すぎる物理室を見渡す。


「誰も来てないし、何もやってないじゃないですか。何をするつもりで呼んだんですか?」

「朝練」

「そうじゃなくて」


 原はそこで、あっと声をあげた。


「もしかして、ただ朝に集まりたかっただけですか?! そんなことのために、わざわざ!?」

「なんだよっ! 朝練に何かしなきゃいけない決まりでもあるのかよっ!」

「朝の時間を使って活動するから、朝練なんでしょう!」


 一気に脱力して、原はがっくりとうなだれる。

 保科は不満そうに顔をしかめ、表情と裏腹に楽しそうな声を出した。


「なんだ、そんなに俺と朝練するの嫌か」

「変な言い方やめてください。まあ、嫌とまでは言いませんけど。早起きするの久々で気持ちよかったですし」

「そうかそうか、それはなにより」


 保科は今しがたの表情をすっぱり消して、朗らかに笑う。

 原はその極楽な面を恨めしげに見て、英語セットをカバンにしまった。


「はあ。……せっかく、(いわお)部長と会えるかもって、期待してたのに……」

「ん、なんか言ったか?」

「なーんにも」


 仕舞い終えたカバンを立てて、ふと原は保科に尋ねた。


「保科先輩、他の人はサボりなんですか? 渡会(わたらい)くんなんかは、ちゃんと声かけたら来そうですけど」

「ああ。一通りみんな誘ったんだけど、やること決まってないって言ったら『誰が行くかボケ』って」

「え……ちょっ、私それ聞いても教えてくれなかったじゃないですか!」

「おう。学習して言わない方がいいと悟った」

「よりによって私に実践しないでくださいよっ」

「いやまあ、(いわお)は誘わなかったけどな。あいつ生徒会で朝忙しいって聞いてたから」

「ガーンですよなにそれ! 私来た意味初めから一ミリもなかったんじゃないですか!」

「なんだどういう意味だ」


 即応しようとした原は、あっと目を見開いて、顔を赤くして両手を振る。


「どどどどういうって、いや違くてつまり、だから、やることがないうえに誰も来てないなら、来る必要なかったって意味です!」

「俺が来てるじゃないか!」

「元凶は別です!」


 からん、とアルミサッシを叩くような音がした。

 物理室内の二人は、毒気の抜かれた顔で窓を見る。そこに世にも奇妙な光景を目の当たりにした。

 視線を浴びる薄汚れた窓の向こうで、五十嵐芽依が駆け抜けていく。

 次に、取り殺してやろうとしているような形相で、芽依を追う鹿沢歩が現れて去った。

 最後に綺麗なフォームで走る馬木翔が、物理室の二人に気づいて軽く手を挙げて、また窓枠の向こうに消える。

 何事もなかったかのように、日の当たらない裏庭は雑草を揺らす。


「……なんですか、今の」

「さあ」


 呆然とつぶやいた原に答え、保科は原を振り返る。

 原も保科を見返した。合った視線の先で、保科の表情が笑みを形作っている。


「とりあえず、解散するか。遅刻しそうだ」


 原はその言葉に不服そうな表情を見せかけたが、時計を見て、窓を見て、似たような笑顔を浮かべた。


「そうですね。遅刻はまずいですからね」

「ああ。それじゃあ、また放課後に」

「はい」


 二人の中では、なかったことにされたらしい。




 物理室でひとつの事実がひっそりと闇に葬られたころ。

 陶生(とうせい)優奈は、保健室のソファに足を投げ出してくつろいでいた。


「あーもー、なんで養護教諭にばっかり事務仕事が回されんのよー。世の中狂ってるわー」


 おかしいわーマジ歪んでるわー、とぼやきながら、デスクを視界に入れないように寝転がる。

 開け放たれたグラウンド側の戸は、涼風を取り入れることもなく、わずかに吹く風もカーテンが柔らかく膨らむために濫用(らんよう)している。まだ強くない日差しに暖められた空気が、いずれ訪れる夏を勿体つけるように蒸し暑く漂っている。

 はた、と滝のように流されていた愚痴が止まった。

 墓から這い上がるゾンビのように、ソファの背もたれを手繰って体を起き上がらせる陶生優奈は、備え付けられた冷蔵庫に目を向ける。

 そして始業寸前を指す時計を見上げる。立ち上がり、扉を引いて、廊下の端から端まで見渡した。目を伏せて息を沈め、耳を澄ます。

 怪我人病人が出るような時間ではない。遠くから(うな)るような、扉を引いた音の残響が残るだけだ。

 何かに気が済んだ陶生は、扉をしっかりと閉めて、いそいそと冷蔵庫に向かった。


「ご開帳ぉー」


 心なしか声も抑えて、冷蔵庫の扉を開ける。

 庫内には小さな冷凍室が(しつら)えてあり、大量の氷と、アイスクリームのミニカップが収められていた。


「へへ」


 にやりと笑った陶生は、一度首を伸ばして左右を見回す。

 そして、満を持してミニカップを取り出した。


「ラクトとは違うのだよ、ラクトとは! へっへー」


 声の質を微妙に変えてつぶやき、木のスプーンを構えて(ふた)に指を添える。


「いざ」


 札束を満載したアタッシュケースを開けるような表情を一人で浮かべ、蓋をゆっくりと引き剥がす。

 かさり。

 ズパンと手のひらでミニカップを押し隠し懐に抱え込む。

 手負いの獣のような目で、窓の外をねめつけた。


 ひと気のないグラウンドが見えるばかりで、何者かの影は見受けられない。


「気のせいか……」


 歴戦の兵士でも浮かべない険しい表情を少しずつ緩め、手の中のアイスに目を落とす。

 瞬間。

 ざり、と砂を噛む音。


「ダイナモー!」


 五十嵐芽依が、保健室の前に飛び出した。

 唖然する暇もあればこそ。

 カーテンがいっそう膨らんだかと思えば、いっぱいに膨らんで(ひるがえ)ったカーテンの裾めがけて、芽依が興奮した猫のように飛び掛かった。

 ばたん、と床を踏みしめる音。やめて板抜けちゃうと声にならない言葉を漏らす陶生は、さらなる驚愕に見舞われる。


「待ちなさーい!」


 鹿沢が鬼気迫る形相で、窓の向こうに現れたのである。彼女は首を巡らせて保健室に目を留めると、開けられた戸から暴れ馬のように駆け込んでくる。

 来ないで、と声にならない声で叫ぶ陶生の願いなど知るはずもなく、鹿沢は保健室に押し入る。

 鹿沢の視線の先で、保健室の扉が破られんばかりに引き開けられた。割れるような破裂音。

 見れば、いつの間にか砂まみれの上靴を脱いだ靴下の足で、芽依が廊下に消えていく。

 鹿沢は土足のまま続く。


「失礼しまーす」


 最後に馬木が、一礼し靴を脱いで保健室に入ってきた。

 呆然としている陶生は馬木が入った現実もうまく認識できず、一声も発しない。

 そんな陶生に馬木はお辞儀をして、保健室を通り抜けようとする。


「あ、待ちなさい」


 びくり、と馬木の無駄にたくましい肩が固まった。


「これはどういうことか、説明しなさい」

「あのですね、先生」


 馬木は振り返る。

 険しい顔をする陶生に、指を突きつけて、告げた。


「それ大丈夫ですか?」


 陶生は示された手元に目を落とす。

 カップを押し潰していて、アイスが手から溢れて滴っている。

 絹を裂くような悲鳴が上がった。

 馬木は逃げた。




 カップアイスのスプラッタが繰り広げられているころ。

 社会科準備室という名の倉庫から、丹波(たんば)(すず)が廊下に歩み出た。


「香山さん、大丈夫だったかしら」


 いくらやるって言っていても、やっぱり女の子一人にプリントを任せたのは失敗だったわね、と口の中でつぶやいて、資料を抱え直す。

 せめてと丹波は急ぎ足で廊下を歩き、階段に差し掛かって、それと出会った。


 ふと顔を向けた実習教室棟に向かう廊下に、上靴をぱんぱか打ち合わせながら、ものすごい速さで駆け抜ける一年生。

 すぐ後ろ、ちょうど手をピンと指先まで伸ばして触れるくらいの、至近距離を追いかける土足の三年生。

 丹波はぽかりと口を開けて、見送るしかできない。

 最後に、ひょいひょいと跳び跳ねるような走りをするゴリマッチョを見て、我に返った。


「……あ。ああ、あぁあ! こらあんたたち! 待ちなさい!」


 叫んで、走り出す。

 丹波の現役時代を彷彿(ほうふつ)とさせる好スタートだ。

 馬木は丹波に気づくと、慌てたように足を早めた。


「元陸上部インターハイ経験者を()めるんじゃないわよ」


 呼気の合間に声に出さずにつぶやいて、丹波は走る。

 掲示板を過ぎ、角を曲がり、驚いてドン引きしている生徒二人とすれ違って、階段を駆け上がる。


「待ちなさい!」


 踊り場でターンすると、馬木の背中は階段の上に消えるところだった。丹波は歯を噛み締める。

 彼らは実習教室棟からまた廊下を渡り、三年棟に向かったらしい。

 丹波は走る、走る。

 三年棟の廊下を駆け抜け、驚いた顔の男子生徒を追い抜いて、階段を駆け降りて、

 がつんと(カカト)


「んぎっ!」


 足が蹴躓(けつまず)いた。手を振り回す。指先が触れる。手すりをつかむ。突っ張った左足が段をとらえた。

 ばさん、と今まで抱え持っていた資料と名簿が、踊り場の床を(したた)かに叩く。その音は階段中に上下に反響し、実際以上に大きく響いた。廊下の電灯が手垢で()びた手すりを照らしている。尾を引く残響が少しずつ暗がりに消えていく。

 表情を凍らせる丹波は、その持ちこたえた姿勢のまま固まっていた。手すりをつかむ右手が白く、筋が赤らんで浮かび上がっている。


「大丈夫ですか?」


 先ほどすれ違った男子生徒が、不思議そうに声を掛けてくる。丹波も知っている顔だ。


(たもつ)くん」

「何事です?」

「さあ、よく、分からないけど。こんな時間に、校内を全力疾走していたから、止めようと」

「なるほど」


 生徒会書記長の(たもつ)茂男(しげお)は、その線の細い整った容貌(ようぼう)を、笑みの形にした。


「僕たちがやりましょう。なに、すぐに収められますよ」


 はは、と保は爽やかに笑った。早速彼らの後を追って歩いていく。

 丹波は、去っていく背を見送って、


「全然追い付けなかった。……もう、歳かな」


 人知れず、悄然(しょうぜん)と肩を落とした。




 丹波が教導に捧げた人生を(かえり)みているころ。

 佐坂剛志は下駄箱にへたりこんでいた。手紙を芽依に蹴散らされた衝撃が、欠片が歯車に滑り込んで食い込むように、見事にクリティカルなダメージになったらしい。


「もう俺、静香と付き合おうとするなって、お告げかなんかかな……」


 よく分からないネガ思考さえ併発していた。


「ダイナモー!」


 ドタバタ走る騒音も気にならない。

 騒音は二年棟に向かって消えた。




 剛志の心が(くじ)けて、立ち上がる力を失っているころ。

 渡会(わたらい)拓真(たくま)は便所から戻るところだった。世の真理を思い悩むような難しい顔で、濡れたままの手を握ったり開いたりさせている。


「エキセントリックかつエキサイティングな用の足し方はないものか。逆立ち……誤爆が怖すぎる。ジャンピング……飛び散るだけか」


 小学生並の発想力をフル回転させていた渡会は、そこでガックシと肩を落とした。


「あんま面白くねーな。あぁあ、なんか面白いことねーかなあ」


 空気を蹴りあげるように廊下を歩く渡会は、向かいから歩いてくる志藤真人を見つけた。お互い同時に手を挙げる。


「よう」

「はよっす。向こうに何か用でもあったのか?」

「まあ、後輩に食事のお誘いをな」


 誤解を招きかねない冗談を笑顔でのたまいながら、志藤と渡会は廊下を歩く。二人の所属する二年四組教室は、階段に一番近い。


「なんか面白いことあったか?」

「プリントが階段の踊り場から廊下まで水平飛行した」

「地味にスゲェ! けどスゲェ地味!」


 いかにも頭の悪そうな会話をする二人は、ばたばたという足音に足を止めた。向こうの階段を駆け上がっている。


「ダイナモー!」


 謎の掛け声もする。

 何事かと野次馬根性丸出しで階段を覗き込み、五十嵐芽依が階段を一段飛ばしで駆け上がる後ろ姿を目の当たりにした。

 少し手前の踊り場で鹿沢歩が鋭いターンで芽依を追い掛け、馬木翔がひとつ下の踊り場から見上げている。

 三連星は暴風のように階段を駆け上がっていく。馬木の筋肉質な肉体が目の前に迫り、また離れていったのを見送って、渡会は叫んだ。


「意味わかんねー!!」


 満面の笑みで彼らを追い掛ける。

 志藤も続いた。


「って、なんで追い掛けるんだ!?」

「あんな面白すぎる怪現象はそうそうねーよ! こりゃ食い付くしかないだろ! こっちだ!」


 階段を上がって、すぐに廊下に行った馬木の背筋を見つけて、渡会は走る。

 狐につままれたような顔で見ている女子にも構わず、興奮のままに叫んだ。


「ひゅう、こんなワクワクした気持ちで走るのは久し振りだ!」


 無言で続く志藤は、絡み付く奇異の視線を振り払いながら、一回だけ現実を疑うような顔をして、離されそうになり足を早めた。




 渡会と志藤がワケも分からず競争に参加し、事態は混迷を深めつつある。

 しかしそれは、職員室の、特に一時間目に授業のない教師には知る(よし)もない話であり、なかでも生徒指導担当体育教師、五里田(ごりだ)力也(りきや)は今日の平和を信じて疑わなかった。

 見た目こそ馬木翔を大きく上回る筋肉人間だが、その心は澄んだ海のように優しく、青い空のように広いのだ。


「ああ、茶がうまい……」


 熱い煎茶(せんちゃ)が大好物というこの男は、職員室のデスクを窮屈(きゅうくつ)そうに座り直す。職員会議を終えてより、めっきりひと気のなくなった職員室をぐるりと見渡した。

 生徒には脳まで筋肉とまことしやかにささやかれる彼にも、片付けるべきデスクワークがないではない。

 しかし今は、まだ、始業前だ。

 あくまで今現在はまだチャイムが鳴っていないだけ程度の「始業前」だが、生徒にとっては自分達の時間であると言い張れる、貴重な時間である。

 あと三分だけ、のんびりしよう。五里田力也は、そう決めて、煎茶を(すす)った。


「あぁ……うまい」

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