1: 芽衣ちゃん走る
五十嵐芽依は走っていた。
春も終わりかけ、二日前に訪れた真夏のような暑さは、まるでなかったかのように落ち着いた日差しの中で。
創立四十二年を数える大山田高校の誇り高きボロ校舎を。
おおまかに四棟に分けられるところの、彼女の所属する学年である第一学年棟の二階を。
時刻は八時二十六分という、八時三十分始業の大山田高校における登校ピーク時。さりとて始業前ゆえに誰も慌てることのない廊下を、生徒の流れを逆らうように、五十嵐芽依は走っていた。
「なんでダイナモが」
なにか言い訳のように呟きながら、芽依は生徒たちの不審そうな視線をかき分けて廊下を駆け抜ける。
芽依の教室にて、ほんの十八秒前まで話し相手であった音無静香は、眼鏡の向こうに映る教室の出入り口に芽依の姿が現れる気配がないことを悟った。かくりと小首をかしげる。
芽依の代わりに、静香と同じような表情をして教室に入ってきた桂木梢は、手を振りながら歩み寄る。
「ねぇ静香、芽依どうしたの? なんか今、すごい勢いで走ってったんだけど」
「分かんない。普通に朝食べるお好み焼きは美味しいって話をしてたら、急に走っていっちゃったの」
「おこ、あんた、え? 朝から粉モノ食べんの?」
「うん。あ、でも窓のほう見て、なんか大声出してたかなあ」
「いや、今もうそれはいいから。あんたそれ、お好み焼きの食べ方間違ってるから!」
「芽依ちゃんもそう言ってた」
「そうでしょうそうでしょう」
「朝お好みより、朝もんじゃだって。それで怒って出ていっちゃったのかなあ」
梢は立ち止まっていたのに、まるで足を引っ掛けたかのように、つんのめってこけかけた。
梢が魂のこもったリアクション芸を磨いているとき。
三組の日直である香村直美が、顎まで積み上げられたプリントの山を抱えて、そろそろと階段を上っていた。
踊り場にたどり着き、ひとまず立ち止まる。
「ふぅ、ふぅ。やっぱり、誰かに手伝ってもらえばよかったかなあ……」
気弱に震える語尾には、そうと分かっていても頼む勇気がなかったことをにじませる。
プリントの角をつかむ指をパタパタと動かし、慎重に抱え直した。
「よし、もうちょっと」
直美がつぶやいて見上げたとき、
「ダイナモー!」
奇態な掛け声と共に、五十嵐芽依が空から降ってきた。
階段を中ほどで踏み切って、大跳躍したのだ。
驚いて一歩下がる直美の、十歩ほど向こうに芽依は落下する。
だきゅん、と靴を鳴らし、膝を屈曲させながら華麗に着地した。手すりに手をかけながら素早くターンして、
「ゴメンね」
一歩下がる動きに取り残されたプリント一枚を、さすっと直美が抱える天辺に押し戻す。そしてすぐに、階段を飛ぶような勢いで駆け降りていった。
「えぇえー……?」
芽依が通り過ぎた残響の残る階段に取り残されて、直美は困ったように階段を見下ろす。
覗き込むような体勢がまずかった。抱えたプリントの山が滑り落ちるようにぶち撒かれる。
焦って掴もうと動かした腕が、手に残ったプリントを高くばらまく。
グライダーのようにすっ飛んで、インメルマンターンをし損なって垂直に墜落。ぐしゃりという音が廊下に響く。
「あ、ああぁ」
まるで半年ダイエットで我慢し続けたケーキを、一個だけ、と自分に許した最初の一口を取り落とし、つかもうとした手が本体を蹴散らして、ケーキが床に三点倒立する様を見せつけられたような、絶望の声を漏らした。
疲れたようにしゃがみこみ、肩を落とす。
「派手にばらまいたな、大丈夫か?」
男の声。廊下に吹っ飛んだプリントを拾った男を見て、直美は目を剥いた。
「志藤先輩っ?!」
「よ。お前一人か? いやこの量は無茶だろ」
志藤真人が階段に溜まった紙を拾い始める。直美は慌てて手を振った。
「いいいえ大丈夫です先輩!」
「そう言うなって。にしても一人で行く香村も香村だけど、渡すほうも渡すほうだよな。あ、これ丹波先生じゃん。なにやってんの丹波さんー」
一人で笑って、志藤はプリントを集めて揃えた。口の中であうあう言いながら、直美も周りのプリントをかき集める。
だいたい三対二の分量に分かれたプリントを見て、志藤は直美を見た。目が合って、直美は追い詰められた小動物のような表情で顔を赤くする。
「お前確か、三組だったよな」
「は、はい。そうですけど」
確認して、志藤はプリントを抱えたまま階段を上る。
「えっ、先輩ちょっと」
「香村一人じゃ無理だろ、この量」
「い、いえ、大丈夫ですからっ」
志藤は振り返って、直美のプリントのうえに束を置く。ストンと五センチは下がった直美の腕を見て、すぐに手元に戻した。
「やっぱ無理だろ」
「ごめんなさい……」
「おう、俺の助力は高くつくぜ。今度奢れ。某イタリアンのドリア風ミラノがいいな」
「あべこべになってますよ……」
直美は首を縮めて目を泳がせる。
それって、まさか、ふた、二人で食事……? という言葉は、呼吸にしかなっていなかった。
香村直美が体よくたかられている頃。
昇降口に佐坂剛志が駆け込んでいた。
「遅刻ちこくー、っと」
二組の下駄箱に手を掛けて、向かい合わせにある三組の下駄箱前に敷かれたスノコに目が吸い寄せられた。
そこには一枚の洋封筒が落ちていたからだ。宛名に小さく強い筆圧で、「桂木梢様」と書いてある。
「これは、まさか?」
三組の下駄箱に目をやるが、もちろんスノコに置かれた洋封筒のミステリーに関するヒントは転がっていない。
「うーん、よく分からんなあ」
近寄って見ればいいものを、二組の下駄箱に手をついてスノコにも上がらないまま、剛志は手紙をにらんでいた。
「桂木梢、って、どこかで聞いたことがある気がするんだよなあ」
時間のことも忘れ、ひと気のない昇降口で一人、物思いに耽る。
「あ、桂木梢って確か、陸上部の! 静香の友達だったな」
そうかそうかと剛志は満足げにうなずいて、満足げに靴を脱ぎ、満足げに上履きに履き替える。
そこでふと、振り返った。
三組のスノコにある手紙。
「さ、最近静香ともろくに話してないし、じゃない、届け物のついでだ、ついで」
うんうん、とうなずいて、ささやかな野望の第一歩の第一段階として、手紙に向かって歩き出そうとした瞬間。
だばん、と廊下の床を、薄い上履きがぶっ叩く音が響く。
「ダイナモぉ!」
え、と硬直した剛志の視界にフェードインした五十嵐芽依は、わざわざ一階の廊下と昇降口間の三段階段を、幅跳びよろしく大跳躍してスキップしたらしかった。
綺麗に空中で前屈して飛距離を稼ぐ芽依の右足は、風に吹かれてはたりと動いた手紙をきっちり踏みにじった。
「ぎゃあ!」
ずべりと滑った芽依は体を伸ばして膝を振り、腕を鋭く切るように回して、高らかにスノコを打つ。その動きは、惚れ惚れするほど受け身だった。
「いてて。こんにゃろ!」
芽依は苛立ち紛れに、破れた紙くずを蹴る。紙幅を四分の一まで圧縮し、飛び上がるように立ち上がった。
「あっ、ダイナモ! ダイナモー!」
芽依はスノコを飛び降りて、スタコラサッサと走り去る。
後にはボロクズになった手紙と剛志が残された。
剛志の心が千々に散る少し前。
陸上部部長を己に任ずる馬木翔と副部長を拝する鹿沢歩が、朝練を終えてグラウンド脇の体育用具倉庫から出てきていた。トタン屋根の渡り廊下を歩き、教室に向かう。
馬木翔は高校生とは思えない筋骨隆々の、剛の者だった。走らない競技を集中的にやっているに違いない。
「さすがに他の部員が片付けるときに、バーベル百回をやり始めたのはまずかったな」
「うん」
鹿沢歩は対照的に細身で、よくしなる枝のようなスラリとした体をしている。
「でもバーベルのタイムとしては新記録だったよ」
「そうか? だったらよかったな」
バーベルにタイムがどう関係するかはさておき、馬木は泰然とうなずいた。
鹿沢は朝練程度では足りないとばかりに、もどかしそうに歩きながら腿上げをして、腰をひねる。
「私も大会に向けて絞らないと。新入生たちも初大会なんだから、そろそろ特別メニューで追い込みかけないとね」
「そうだな。仮メニュー組んでメールする」
「おっけ」
カラッとした爽やかな笑顔でやり取りをする二人は、だずぱん、という騒音に動きを止めた。
渡り廊下からも見える。中庭を挟んだ向こうに口を開ける昇降口だ。日々強まる日差しを受けたその庇は、濃密に影を下ろし、昇降口のなかを押し隠す。
二人は顔を見合わせて、疑問そのままの表情をお互いに発見した。
「なんだ?」
「さあ?」
再び昇降口に目をやった二人は、そこに五十嵐芽依の姿を見る。
「ダイナモー!」
昇降口を上履きのまま飛び出した彼女は、水切りで小石が水面を跳ねるように、凄まじい身軽さで校舎を回り込み、裏手に消えていった。
二人は目を丸くして、お互いの驚愕の表情を知る。
「き、」
その声が揃った瞬間、二人は自分たちの見たものが現実であり、お互いの認識が同じであることを確信し、声も雄々しく吼えた。
「期待の新人だぁー!」
部活馬鹿がスカウトすべく、陸上人生の結実とも言うべきスタートダッシュを決めたとき。
校舎の裏にある日の当たらない湿った場所で、白鵠重は強張った顔で深呼吸をしていた。
「初めて見たときから好きでした……僕と付き合ってください……ふう」
胸に手を当てながら、ぶつぶつとつぶやいている。
顔色はたいへん悪い。上気した頬と血の気を失った目の回りのコントラストは、オカメのような表情を形作っている。
「それにしても、遅いな。やっぱり朝を指定したのは不味かったかな。でも梢さん、放課後はダッシュで部活に向かっちゃうから、呼び出すの悪いし……」
白鵠重は居心地悪そうに、背後の校舎を見上げる。
「もしかして来てくれないのかな……いや、そもそも受け取ってもらえたのかどうかも……たぶん、遅刻しちゃっただけだよね。ああ、もしかしたら風邪を引いたとかで学校に来ていないのかも」
そのとき、ガサリと近くの茂みが音を立てた。
肩をバギュンと跳ね上げて全身で振り返る。
陰気な日陰に雑草が生え放題になっているだけで、ひとの姿はない。
たっぷり数秒身を固めていたが、やがて表情を内気に沈めると、切なそうなため息をついた。
「会いたいなぁ、梢さ……」
「ダイナモぉー!」
「んんんぐっほおおぇあああああ!?」
非言語的絶叫を張り上げた重の脇をすり抜けて、五十嵐芽依は校舎裏に飛び込んだ。
夫の浮気相手の部屋に忍び込んだ妻のような目で、辺りを見渡す。
その鷹の目よりも鋭い双眸が目につけたのは、木の根からわずかばかり離れて密生した、雑草の茂みだった。
茂みを蹴り立てて踏み荒らすと、何かに満足したのか、向こうに走り去っていった。
芽依の背中が見えなくなって、ようやく重は自我を取り戻す。
「な、なんだったんだ……?」
気味悪そうに顎を引いた。踵を返して、校舎裏の日陰空間から日の光の下に向かう、その瞬間。
マッスルゴリラが目の前に滑り込んできた。
「んぎゃあああああ!?」
「おっとすまない」
馬木翔は紳士的に謝罪し、白鵠重の肩越しに五十嵐芽依の姿を認めると、振り返って叫んだ。
「いたぞ、こっちだ!」
「ほいきた!」
打てば響く掛け声で、鹿沢歩が馬木の背後から飛び出す。
ビヨーンとしか形容できない、一歩いっぽに迫力のある走力で、鹿沢が芽依を追い掛けて疾走する。
「それじゃ、失礼」
筋肉お化けが紳士的に一礼し、見るからに二人に劣る、しかし十分な俊足で、あとを追いかけていった。
白鵠重は無言のまま、金魚のように口を動かしてあえぎながら、彼らの背を見送っている。
番組の最後に、豪華商品がべつに当たるわけではないクイズが用意されています! お見逃しなく!