第七話 カシオペア・レールウェイ
綺麗なものをみたら、綺麗だと思う心は、わたしにもある。春のまだ少し冷たい風と桜の花の色。夏の透き通った青空と蝉の声。秋の少し切ない紅葉と同じ色をした夕暮れ。冬の真っ白な雪と空に輝く星。そういうものが好きで、そういうものばかり眺めていられたら、どんなに素敵なことだろうと思う。
だけど、人の生きる社会は、そんなものに目を向けてばかりいたら、すぐにおいていかれてしまう。もっと現実的で、もっと未来のことをちゃんと見据えていなければいけない。その現実的なことというのは、人とちゃんとお話できたり、思ってること、伝えたいことを、ちゃんと相手に伝えることが出来る、と言うこと。それは、ちゃんと大人になると言うこと。見た目や体だけじゃなくて、ちゃんと心が大人になると言うこと。
「風が止んだね……」
こと座のベガを通り過ぎ、カシオペア・レールウェイの窓辺から、はくちょう座が見えてくる頃、アキラが言った。開け放たれた車窓からは、あの甘い匂いのする風が吹き込んでこなくなった。そういうのを、空の海の凪と呼ぶらしい。
ふと、はくちょう座のほとりに、黒い靄のようなものが見えた。その中心が、風を吸い取っているのだと気づいたとき、わたしはふと「石炭袋」と言う言葉を思い出していた。
「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、あの暗黒星雲を石炭袋と呼んでいるよね。俺も中学生のころに読んだよ」
アキラはそう言うと、腰を上げて窓を閉めた。
「あれは、宮沢賢治の創作だけど、あながち間違っていないんだ。暗黒星雲は、あたりの風とともに、カシオペア・レールウェイを吸い込み、天の川の対岸へとつながるトンネルになるんだ」
「それって……」
「ブラックホール。あの星雲の中心にはブラックホールがある」
指差すアキラとは違って、わたしは星の海に浮かぶ真っ黒な雲に、言い知れない不安を感じた。何もかもを吸い取ってしまう。カシオペア・レールウェイも、アキラも、わたしも……。なかったことになってしまう。
それが、どれだけ恐ろしいことなのか、言葉足らずのわたしには言い表せないけれど、ただ、墨で塗りつぶしたような真っ黒な景色に、ただ一言「死」という言葉を連想させられて、わたしは漠然とした不安を掻き立てられた。
「大丈夫。ブラックホールには出口がある。だからトンネルなんだ。それに、星が好きなら、こんなお話をしっているでしょ?」
まるで、わたしの不安を顔色から読み取ったのか、それとも、アキラも不安に感じていたのか、それを振り払うように、アキラは柔らかな言葉で話しはじめた。
「昔々、天の神様の娘、織姫と、働き者の牛追いの青年、夏彦が恋に落ちた。二人は、天の神様に認められて結婚したんだけれど、あまりにその生活が楽しくて、織姫は、はたを織らなくなり、夏彦は、牛を追わなくなってしまった。天の神様はとても怒って、二人を川の西と東に引き裂いたんだ。二人はそれからずっと泣いて、お互いの名前を川の両側で呼び続けた。その姿が、あまりにも悲しかったため、天の神様は、一年に一度だけ、七月七日の夜に、カササギの橋を川に渡し、二人が会うことを許したんだ」
それは、わたしもよく知っている七夕のお話だった。幼稚園のころ、先生が紙芝居で教えてくれた。一年に一度しか会えないなんて、かわいそうだと思った。天の神様は、ひどい人だと思った。だけど、彼らがちゃんと働かなかったら、たくさんの人たちが困る。だから、神様は怒ったんじゃないかと、気づいたのは、アキラがその話をしてくれたからだった。
「織姫星は、こと座のベガのこと。夏彦星は、わし座アルタイルのこと。そして、その真ん中に横たわる、はくちょう座は……」
「カササギの橋」
わたしが答えると、アキラは頷いて、でもちょっとだけ悪戯っぽく笑うと、
「やっぱり、君は星が好きなんだね。嘘は苦手なんだって、顔に書いてある」
と、わたしに言った。
「だから、暗黒星雲を抜けた向こうには、わし座があって、その先に君の目指す、いて座があるんだ。何も、ひどいことはない」
アキラの言葉にわたしは、こくんと頷いた。
列車は、がたんがたんと揺れながら、少しずつ石炭袋に近づいていく。わたしはその刻一刻をじっと待ち続けた。だけど不思議と、アキラの横顔を見ていると、少しだけ落ち着くような気がした。誰もが、あのブルーの瞳の男の子のように、金平糖のお婆さんのように、博士のように、宇宙飛行士のお姉さんのように、アキラのように……わたしの顔色だけで、わたしの思いが分かってくれたら、とても素敵だと思う。たけど、わたしは相手の顔をみただけで、彼が何を考えているのか、分からない。
そんな彼を見て、安心するだとか、それはわたしの勝手な思いで、それがアキラに伝われば、彼はわたしのことを気持ち悪いと思うかもしれない。それをわたしは恐れた。
カシオペア・レールウェイが石炭袋に入ると、車両は強く揺さぶられたけれど、すぐにその揺れは収まり、その代わりに、耳に痛いほど静かになった。窓の外は、何も見えない漆黒の闇。それは、わたしが出発した、おおぐま座のドゥーベ駅によく似ていた。
「黒いものは悲しみに似てる。誰かがそんなことを言ってた。でも、暗闇は始まりの場所。いつか人は、暗闇に戻り、再び暗闇から出発するんだ」
アキラが何を言っているのか、わたしにはよく分からなかった。
「でも、君は暗闇が怖いと思っている。俺も暗闇が怖い。だって、その先に何があるのか分からないから。十年後、二十年後、そのもっと先に、自分はどんな風になっているのか、どんな風に生きていくのか。それが分からないから、暗闇が怖いと思う。そうでしょ?」
わたしは、アキラの問いかけに答えなかった。答えずにただじっとして、窓の外を見つめた。アキラもわたしに聞こえないように、溜息を吐くと、窓辺に頬杖をついて、外を眺めた。
沈黙が走るのは、もうこれで何度目か。今度の沈黙は、今迄で一番ギクシャクしているような気がした。外は、光のない世界。墨で何度も塗りつぶしたような真っ黒け。その真っ黒けは、何もかもを吸い込んでけしてしまいそうに見えた。
もしも、今この窓を開ければ、真っ黒けはそのすべてを吸い込んでしまうのだろうか。わたしは、薄ぼんやりとしたランプの明かりに反射して、ガラスに映る自分の顔を見つめながら思った。とても情けない顔。頼りない顔。惨めな顔。それを、この暗闇は吸い取ってくれるだろうか。
そう思いながらも、わたしはじっとして、窓を開けることはなかった。それっぽっちのどうでもいいような勇気すら、わたしにはなかった。わたしは、心が重くて、弱い。
「だから、そうやって踏み出さない。どこに行っても、ずっと立ち止まってばかり」
不意に、声がした。窓ガラスに、もう一人のわたしが映る。もう一人のわたしは、わたしの隣に座って、強く睨み付けてきた。
「怖いもんね。人と話して失敗するのが。人に冷たい目で見られるのが。だから、そうやって、逃げ出すの。何もない安穏とした時間をすごして、ただ時が過ぎるのを待ち続けるの。それを願ったんでしょ?」
もう一人のわたしはペラペラと喋るけれど、向かいに座るアキラは、もうひとりのわたしに気づくことなく、ぼんやりとしていた。
「人が怖い。人と話すのが怖い。心が傷つくのが怖い。プライドを傷つけられるのが怖い。そんな自分が大嫌い。だから、いっぱい、いっぱい心に鍵をかけてきた。いろんなことを思い出さないようにしてきた。あなたは、また、心に鍵をかけるの? この先にそんなもの必要なの?」
その言葉は、宇宙飛行士のお姉さんが言った言葉にそっくりだった。
「だって、この先にそんなもの必要ないって分かってるのは、あなた自身じゃない。そうでしょ? そのために、カシオペア・レールウェイで旅をしてきたんだから」
もう一人のわたしはそう言うと、悪戯っぽく笑った。わたしはその笑みに引きつった。
「願ったのよね。社会になじめずに、心に鍵をかけ続け、どんどん重たくなってしまう。そんな自分がちゃんと大人になれるのか分からなくて、このまま大人にならずに、時間がとまってしまえばいいって願ったのよね。そして、あなたは、あの朝、駅のホームで、時間を止める方法を思いついた」
「やめてっ、聞きたくない!」
わたしは両耳を押さえて、いやいやをするように頭を振った。だけど、もう一人のわたしはお構いなしに続ける。
「キラキラした明るい未来に進む人たちを羨んで、ぼんやりと電光掲示板を見つめてたあなたは、時間を止める方法を思いついて、重たい体を引きずりながら、ふらふらとホームの淵に立ったの……」
消えろ、もう一人のわたしよ消えろ。祈るような気持ちで、わたしはうずくまった。
「独りぼっちになりたい。永遠に未来が来ない世界で、誰にも触れなくて、誰にも触れられないまま生きて生きたい。いて座に着けば、そういう世界があると思ってるの? でもね、あなたは独りぼっちになりたいのに、独りぼっちになったら寂しくてまた怖くなる。そんな矛盾を抱えたまま、死んでしまったのよ、あなたは」
くすくす。もう独りのわたしは、かみ殺したような笑い声を立てた。
「お父さんもお母さんも、あなたを愛してくれた人は、そんな風にあなたを育てたつもりはないって、彼らは長い悲しみに捉われつづけるのよ。それは罪。あなたは、罪を背負って、独りぼっちで永遠に来ない未来を過ごすの。天国はそんなに素晴らしい場所じゃない」
いつの間にか、わたしは泣いていた。胸の奥が気持ち悪くて、吐きそうで、わたしは小さく震えながらう「うう、うう」とうめき声を上げた。こんなみじめな姿、誰にも見られたくない。このうめき声がアキラに届かなければいいのに、と思った矢先、
「どうしたの? 大丈夫?」
アキラは、わたしのうめき声に気づき、驚いたような声をして、震えるわたしの肩を揺さぶった。心配そうな優しい声が、なおさらわたしの胸を締め付ける。
わたしが、我侭を言ったり、困らせたり、怪我をしたり、病気になった時、お父さんもお母さんも、いつもわたしのことを心配してくれた。わたしは、そんな両親のことが大好きだったのに、そんな風に思えなくなったのはいつの頃からだろう。きっと、心が重くなり始めて、わたしは誰の優しさも、ありがたいとさえ思えなくなった仕舞ったんだ。
それは、もうひとりのわたしが言うとおり、罪だと思う。
「わたしは……わたしは、死にたくなかった。本当は、みんなと同じように笑ったり泣いたりして、生きていたかった!」
わたしは吐き出すように言った。嗚咽の所為で、ちゃんと言葉になっていたかどうかも怪しいけれど、その言葉は、アキラに言ったのではなくて、わたしに言った言葉だった。
「でも、出来なかった。そうなりたいと思っても、わたしは自分でなりたい自分を見つけることが出来なかった。心が重くなったのも、全部他人の所為にして、みんなと同じように歩くことが出来なかった。ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!!」
ぽたぽたと落ちる涙が、灰色の金平糖になって砕け散っていく。それは、初めて心から言った「ごめんなさい」だったのかもしれない。でも、もうその言葉が誰かに届くことはない。わたしは、あの朝、電車に飛び込んで、死んだんだ。
「どうして、そんなこと……?」
アキラはわたしの隣に座り、悲しそうな顔でわたしの顔を覗き込んだ。
「わたし、ずっと願ってたの。独りぼっちになれる世界に行きたい。プライドも詰まらない思いも全部なくて、誰かを羨んだり、自分を嫌いになったりしない世界に行きたいって。死ねば、そういう世界にいけると思ったの」
それがわたしの旅の理由。その言葉は、金色のイオンになってさらさらと、窓ガラスを通り抜けて、暗闇へと吸い込まれて消えていく。わたしはその光景を見つめながら、ブルーの瞳の男の子が言っていた言葉を思い出した。
『トンネルはブラックホールで出来てる。話した言葉は、車掌さんに届く前に、シュバルツシルトに吸い込まれて消えるんだ』
「そんな世界、どこにもないよ……」
アキラは、目を伏せて静かに言った。
「君は、カシオペア・レールウェイに乗って、いろんな人と出会ったよね。大事なものを君にくれた男の子。遠い昔に罪を背負ったお婆さん。見つけるとの出来ない答えを探し続ける博士。明るく他人のために自分を投げ出せる宇宙飛行士。人は、それぞれにそれぞれの思いを持ってることを知った。辛いことや苦しいこと、楽しいことや嬉しいこと。でも、それは君には分からないかもしれない。でも、君が思っていること、感じていることも、誰にも分からない」
それでも、みんな日々の犠牲の上に、苦しみや悲しみを乗り越えて生きている。いつか、幸せになるため、努力している。と、アキラは言った。
わたしは、その努力を怠ったのだ。それは分かってる。自分の足でしっかり立つことを拒否したのはわたし自身なんだ。
「でもね、俺は君の全部を間違いだったとは言わないよ。だってそうでしょ? 傷つくのは誰だって怖い。だから君も悩んだり苦しんだりした。たとえ、その先に、未来を見つけることが出来なかったとしても、それを間違いだったと言ってしまったら、君は二度と一歩を踏み出せない」
「もう、踏み出す場所なんて……」
どこにもないじゃない、と言いかけたわたしの口を、アキラは言葉で塞いだ。
「あるよ。きっとある、じゃなくて、ちゃんと君も踏み出す勇気と、踏み出す場所がある。それが、いて座にあるんだ」
アキラがそう言ったその時だった。車内が激しく揺れて、天井からつるされたガラスのランプが、ガタガタと音を立てた。
「もう直、トンネルを抜けるみたいだ。窓の外を見てて。世界はこんなに綺麗だってことが分かるから」
アキラに促されて、わたしは窓の外に目をやった。真っ黒だった窓の外が徐々に明るくなっていく。にわかに、ふわっ、とした不思議な感覚があって、暗闇が一瞬で消えていく。そして、わたしは思わず目の前の光景に、声を上げてしまった。
「綺麗……」
それは、何千何万、ううん、もっと多くの星がきらめく運河のような場所。とてもまぶしいのに、目を瞑らなくても、平気だった。それらが、ゆっくりと動いていくように見えるのは、わたしたちの列車が、次の目的地を目指しているから。だけど、手を伸ばせば、星捕りのように、その星をすくいとることが出来るような気がした。星はきっと、五色の金平糖のように美しいもののように思え、涙でにじんだ瞳で、わたしは天の川銀河を見つめた。
その天の川の先に、六つの星がキラキラしている。まるで、わたしを呼んでいるかのようだ。そう、そこがわたしの降りる駅、いて座の南斗六星だった。
「いて座の南斗六星はね、おおぐま座の北斗七星と同じひしゃく星なんだ。でもね、北斗は死んだ魂をすくい上げるひしゃく。南斗は、生まれ変わる命を撒くひしゃくって言われてる」
わたしと同じように、窓外の天の川といて座の南斗六星を瞳に映して、アキラは言った。
「君は、いつかまた、新しい君を生きるんだ。その時、今度は勇気をだして、踏み出せばいい。それまで、少しだけ羽を休めたらいいと思う」
「新しいわたし? でも、わたしは変わらない。ずっとわたしはわたしのまま」
「変わらなくたっていいんだ。人と話すのが怖くて、独りぼっちが怖くて、他人の人生や未来を羨んだって、いつか、なんどでも君は生まれ変わって、新しい勇気と一歩を踏み出すことが出来るんだ。だって、そうじゃなきゃ、この世界を見て、こんなに綺麗だなんて思わない」
「わたし、勇気を出せるかな? 一歩を踏み出せるかな?」
「できる。自分のことをちょっとだけ好きになれば、自分を見つけることなんて、そんなに難しいことじゃないんだ。それが今は分からなくても、いつか絶対分かる」
アキラの言葉は、まるで、自分に言い聞かせるようだった。思えば、アキラは何故、カシオペア・レールウェイに乗っているんだろう。それをここで聞くことは出来ない。もう、はくちょう座のトンネルは越えたんだ。
「そう、なのかな?」
「うん。そうなんだよ。今はわからなくてもいいよ。でも、もしも、その時が来たら、俺と友達になろう。そうしたら、きっと寂しくなんかないから……」
ちょっと照れくさそうに言うアキラの言葉に、わたしはちょっとだけ驚いて、でも確かに頷いた。そして、アキラはわたしの手をそっと握った。つながれた手から、本当は体温が伝わるはずもないのに、わたしの心は少しだけ温かくなるような気がした。
わたしたちは、それからしばらくの間、お互いに口をきかず、ただじっと星の海を見つめていた。それは、嫌な沈黙じゃなかった。
わたしは沈黙の中で、ずっとアキラの言葉を繰り返したどった。いつか分かる……。その日が来て、わたしは踏み出すことが出来るだろうか。自分に自信がない。たとえ、新しいわたしに生まれ変わっても、きっとわたしは立ち止まる。
でも、アキラは「それでもいい」って言ってくれるような気がした。それだけで、不思議と心が軽くなる。
「この度は、銀河鉄道『カシオペア・レールウェイ』をご利用ありがとうございます。次は、いて座のカウス・ボレアリス駅、カウス・ボレアリス駅。お降りのお客様は忘れ物などないよう、お気をつけください」
聞きなれたアナウンスが、わたしたちの沈黙を破り、列車はゆっくりと速度を落としながら、プリズムでできたホームに停車した。アキラはわたしの手をつないだときと同じく優しく離して、「行って」と、アキラの瞳が言っている。
「アキラは降りないの?」
「人はね、みんな降りる駅が違うんだ、俺が降りる駅は、もっとずっと先の方」
にっこりと笑うアキラに、ふと振り返り、わたしはポケットから、星の絹のハンカチを取り出して、それをアキラに手渡す。
「わたしには、多分必要ない……ううん。少しだけ、頑張ってみる。アキラと友達になった時に恥ずかしくないように」
わたしは、初めて自分から、アキラに話しかけたような気がした。アキラは、嬉しそうに「ありがとう」と言った。
「アキラは、きっとカムパネルラだったんだね。ありがとう」
と、言うと少しアキラは驚いてきょとんとする。わたしは、そんなアキラの顔が少しだけおかしくて、ちょっとだけ笑うと、ブルーの瞳の男の子や金平糖のお婆さん、博士、宇宙飛行士のお姉さんのように、「よい旅を」と言い残し、カシオペア・レールウェイを降りた。
(おしまい)