第五話 宇宙飛行士のタマゴ
赤経十一度。赤緯プラス十五度。しし座の前足、ズブラ駅を出発したカシオペア・レールウェイは、降る、雨のような流星群の中を駆け抜けていく。しし座には、いくつもの銀河の海岸が見えた。わたしは、博士にもらった宇宙服の切れ端をポケットに仕舞いこんで、しばらくの間、その美しい風景を眺めていた。列車の中は静かだったけれど、その幻想的に星が重なり合う風景を見つめているだけで、退屈することはなかった。
しばらく経って、前の車両から誰かがやってくる。その刹那だけ、わたしはお婆さんや博士のことを思い浮かべたけれど、それは、ちょっとおかしな恰好をした、女の人だった。
「隣、いいかしら」
女の人は、優しそうな笑顔を浮かべて、わたしに尋ねた。わたしは小さな声で「はい」と答えた。女の人は、すこし窮屈そうに足をのけぞらせて、ブルーの瞳の男の子が、お婆さんが、博士が座っていた、わたしの向かいの席に腰を下ろした。
「すっかり乗客も減ってしまって、話し相手が欲しかったの」
見れば見るほど、不思議な恰好をしてる。ほっそりとした女の人の顔には似合わない、ぶかぶかの銀色の服。いくつもの金具が取り付けられていて胸の辺りには、外国の国旗が縫い付けてある。そして、グローブもブーツも銀色。でも、特に不思議なのは、金魚鉢をさかさまにしたような、ガラスのボールを持っていることだ。
「ああ、わたしはコスモノート……宇宙飛行士なのよ。だから、こんな恰好しているの」
わたしの思っていることは、すぐに顔に出てしまうみたい。宇宙飛行士のお姉さんは、そう言うと、ガラスのボールと思っていたヘルメットを被って、そのガラス越しに、また優しそうな微笑をわたしにくれた。
「と言っても、その『タマゴ』なんだけどね」
くすり、として宇宙飛行士のお姉さんは再びヘルメットを脱いで、傍らに置いた。
「切符以外に何も持たないで、カシオペア・レールウェイに乗ってしまったから、これを脱ぎ捨ててしまったら、わたしはわたしではなくなってしまうんじゃないかって、思うの。それに……わたしにとっては、あなたが着ている制服と同じようなものだし、脱いでしまうと、寒いからちょうどいいのかもしれないわね」
聞いてもいないのに、宇宙飛行士のお姉さんはぺらぺらといろんなことを口にする。わたしは、少しだけ戸惑いながらも、何も言わないで、宇宙飛行士のお姉さんの話をずっと聞いていた。
宇宙飛行士なんて、わたしにとっては、雲の上の職業だ。頭が良くて、体力があって、何事にもくじけない強い精神力と、仲間を想う協調性に優れた人たちの、ほんの一握りしかなることが出来ない職業だった。もっとも、お姉さんの言葉を借りるなら、お姉さんは「宇宙飛行士」ではなくて、「宇宙飛行士のタマゴ」ということになる。
「あなたぐらいの年頃の青春時代も棒に振って、ひたすら勉強したわ。聞いてよ! こう見えても、わたし、クラスでは『ガリ勉のガリ子』なんて呼ばれたんだから。失礼しちゃうわよね? でも……ずっと、宇宙飛行士になるのが夢だった。幼いころにね、父に怒られながら夜更かしして見上げた天体観測が、わたしの出発点なの。今でも忘れられない。夜空に輝く、満天の星。手を伸ばせば、簡単に届くんじゃないかって思った。まあ、実際は簡単には届いたりしなかったわけだけど」
思い出を語る、宇宙飛行士のお姉さんの瞳はキラキラと輝いていた。まるで、それは明るい未来に洋々と歩き出す、同級生たちを思い出させて、わたしは胸が苦しくなった。あの、気持ち悪くなるような感覚。
「でも、宇宙飛行士になれば、ロケットで星のそばまで行ける。いつか、その夢はかなうって信じていた。信じることは力なりって、よく言うじゃない? だから、厳しい訓練も楽しかったわ」
話を聞きながら、わたしは宇宙飛行士のお姉さんが、わたしとはまったく違う世界にいる人だと言うことを、思い知らされた。
夢も希望もない。そういうものを無価値だとは思ったりしないけれど、わたしには何が出来て、何がしたいのか分からないまま、生きてきた。理想はあっても、現実のわたしは、どこまでもちっぽけで、下らない人間だと言うことを、自分が一番よく知っている。だから、一歩も踏み出せないまま、立ち止まってしまった。諦めと言うラインを自分で引きながら。
そうやって空虚な時間をすごしてきたわたしと、夢に向かって、満たされた時間を精一杯走り抜けることが出来る人は、同じ人間でも、まったく別種の生き物なんだと思う。
だから、宇宙飛行士のお姉さんの話を聞くたび、その一言一言が、わたしを惨めにさせる。いっそこのまま、小さくなって消えてしまえばいいのにと、体を強張らせていると、不意に、宇宙飛行士のお姉さんは、話を途切れさせた。そして、少しだけ声のトーンを落として、
「あなたは、静かな子なのね」
と言った。わたしは、何も答えることが出来ず、黙って自分の足元を見つめた。
「迷惑だったかしら?」
「い、いえ、そんなことはありません……。その、わたし、あんまりお喋りが上手じゃなくて」
わたしは泣きたくなってきた。どんどん、惨めさに拍車がかかって、自分って何なんだろうって思う。博士のように、自分を客観的に研究したり出来ない、それが怖いと思うわたしにとって、わたしは惨めな生き物だった。
宇宙飛行士のお姉さんは、立ち去ると思っていた。こんなわたしとお話したって面白くもないし、なんだか薄気味悪いだけだ。だから、別の席へ行ってしまうと思った。
だけど、宇宙飛行士のお姉さんは、わたしの向かいに座ったまま、少しだけふうっ、と息を漏らして、窓の外に視線を映した。ちょっとだけ、気まずい雰囲気がわたしと宇宙飛行士のお姉さんの間に流れたような気がした。
「わたし、昔からうるさいってよく言われるのよね。お前は、口から生まれてきたんだって。わたしもそうじゃないのかなって、思ったことがあるわ」
宇宙飛行士のお姉さんはなんだか冗談めかしてそう言うと、気まずい雰囲気を払いのけるように、窓の外を指差した。
「だけど、そんなに塞ぎこんでいて、楽しい? 下ばかり見ていても何もないでしょう? ほら、見て。あれは、M65とM66の双子星雲の海岸よ。しし座流星群がたくさん流れる今の季節は、星捕りが星くずを集めているはず」
しし座にある銀河のなかでも一際、雲のようにたくさんの星がきらめく、二つの海岸。そのほとりに、山高帽を被った人影が見えた。それが、星捕りと呼ばれる人らしい。星捕りは、シリウスの伴星で働く犬と同じく、扁平な顔立ちと、長い髭、つんとした耳は、猫のそれにそっくりな人影は、まるで魚を取るかのように、海岸に流れてくる流星を、投網で集めていく。
ひと度、星捕りが網を投げると、たくさんの流れ星が網にすくわれていった。その拍子に、しゅるりと糸のような光が、網の隙間にからまっていく。
「あの糸みたいな残光を、星くずの絹と呼んでいるのよ。星くず自体は、アルギエバの工場に運ばれて、星の砂糖になるの。そして、残ったカスは、もう一度星の海に返される。それがいつか新しい流星に生まれ変わるって言われているわ」
星捕りの様子を眺めながら、宇宙飛行士のお姉さんは「生まれ変わる、なんて、素敵だと思わない?」とわたしに同調を求めた。わたしは、「そうですね」とたった五文字の答えを返したけれど、心の奥で「素敵だなんて思わない」と答えていた。
生まれ変わったっていいことなんか何もない。たとえ、生まれ変わって、たとえば猫とか犬とか、人間以外の魂になっても、何もいいことなんてあるわけない。結局は、社会という枠組みの中で、他の誰かと関わり合いながら生きていかなければならない。
生きると言うことは、苦しみと同じ。昔々、どこかの国の王子さまが言った言葉。わたしは信心深くないから、彼の言葉は心に響かないけれど、それでも、生きることが苦しみだと言うことだけは、共感できるような気がする。
でも、その苦しみから解放されることはない。いつまでも、自分に進歩の価値がないと、見切りをつけた時点で、その方法を二度と手に入れることは出来なくなってしまった。自分で自分の首を絞めて、苦しんで、立ち止まる。その繰り返しの先に、生まれ変わったとしても、わたしはまた同じ道をひた走るだけだと思う。
わたしは、宇宙飛行士のお姉さんのように、明るい未来を歩む人にはなれない。わたしはわたしだって、分かっているから……。
宇宙飛行士のお姉さんはわたしの内心を感じ取ったのか少し悲しそう顔をする。わたしは何も答えられず、じっと、双子星雲の海岸を見つめていた。
「おおーい!」
星捕りが、カシオペア・レールウェイに気づき、仕事の手を休めて、わたしたちに手を振る。猫の手だから、開いているのか閉じているのかよく分からないけれど、その顔はにっこりと笑っていた。宇宙飛行士のお姉さんは、窓から顔をだすと、金色の髪を風になびかせながら、「おおーい!」と手を振り替えした。
そして、わたしの手を引っ張り、「君も、手を振り返しなよ。星捕りに失礼だよ」と言った。わたしはおずおずと、手を振る。すると、星捕りはわたしの事にも気づいてくれて、「よい旅を」とにこやかに手を振った。
「宇宙へは、独りじゃ行けないの。たしかに、一人乗りのロケットもあったけれど、それでも、地球には大勢の仲間がいた。宇宙ではね、たくさんの仲間と一緒なの。一人が困れば、みんなが一丸となって助ける。そのとき、わたしが困っている立場なのか、それともあなたが困っている立場なのか、それは分からない。だけど、予想も出来ない危険と隣り合わせの宇宙では、手を取り合うしか、生きていく方法がない。今のあなたみたいに、誰とも関わり合いを持ちたくない、なんて思っていたら、宇宙へは行けない」
星捕りの姿が小さくなると、宇宙飛行士のお姉さんはわたしの方に向いていった。それは、大人がお説教をするみたいな口ぶりで、わたしは耳をふさぎたくなって、また俯いた。
列車はいつのまにか、しし座を離れて、おとめ座の中を走っていた。だけど、わたしは車窓から見えるおとめ座の景色なんて見ようともせず、心の中で「わたしは宇宙なんか行かない」とヒネクレた反論を口にしていた。
「いつか、人は一人ぼっちになる日が来る。でもそれまでの長い人生を、一人で生きていくことは難しい。それは、宇宙に行くとか行かないとか、そういうことではなくて、もっと現実的なこと。あなたが、他人を見て怖いと思う。話しかけようと思ったら足がすくむ。だけど、その人はあなたが思うほど、あなたのことを気にしていない。怖いと思う心を振り切って、話しかければ、その人と親しくなれるかもしれないという希望を持って、一歩を踏み出すことが、勇気じゃないのかな?」
「そうですね」
わたしはまた、適当な返事を返してしまう。分からないんだ。明るい未来を歩める人には、それが出来ないわたしのような人間の、下らなさしか目に映らないんだ。だから、わたしが怖いと思うことも、泣きたくなる気持ちも、分かりっこない。
「そうやって、心に鍵をいくつかけてきた? もうこの先は、そんなものが必要なの?」
宇宙飛行士のお姉さんが、すこしだけ強い口調でそう言った瞬間だった。列車が急にぐんっと、前のめりになる。聞こえてくるわけじゃないけれど、座席から伝わってくる振動で、カシオペア・レールウェイがブレーキをかけているのだと分かった。
「大丈夫?」
宇宙飛行士のお姉さんが、わたしに尋ねた。わたしは頷いたが、座席の肘掛を必死に持っているのがやっとだった。
「大変、大変、大変だわ!」
乱暴に受け放たれた前の車両の通路から、誰かが足音を立てて走ってくる。それは、シリウス駅で切符の検札をしていた、女の子の車掌さんだった。
「どうかしたの? トラブル!?」
車掌さんがわたしたちの脇をすり抜けようとした時、宇宙飛行士のお姉さんが、車掌さんを呼び止めた。車掌さんは、真っ青な顔で、
「お客様は席を立たないで! どうしたもこうしたもないわ! この先にある、おとめ座の『スピカ』は知っているわよね?」
と問いかけた。宇宙飛行士のお姉さんは「ええ、もちろん」と答えた。
「スピカには、路線連結の切り替えポイントがあるのよ。それが、切り替えポイントの係が、居眠りしちゃってて、このままじゃ、春の大曲線に入ってしまうわ! 一大事よっ」
それがどうして一大事になるのか、いまいちわたしには分からなかった。すると、車掌さんは説明するのが面倒だ、とわたしをにらみつけて、そのまま走り去ってしまう。そんな車掌さんに代わって、宇宙飛行士のお姉さんは、車窓から遠くに見える、スピカを見つめて、わたしに説明をしてくれた。
「カシオペア・レールウェイが次に目指すのは、ヘラクレス座のコルネフォロス駅。わたしが降りる駅もそこなんだけど、このままだと春の大曲線に乗って、うしかい座のアルクトゥールスへ行ってしまうわ。その先にあるのは……」
あるのは? わたしが小首を傾げると、宇宙飛行士のお姉さんは神妙な顔つきで、
「おおぐま座よ」
と言った。