第三話 自分を研究する博士
言葉が足りないのは、わたしも同じ。誰かがこんなことを言っていた気がする。
『人間は、とても不出来な生き物で、想いを伝えて、分かり合うことが出来なかった。だから、わたしたちのご先祖さまは、言葉を覚えた。拙い想いを言葉に乗せて、相手に伝える。それが、人間と言う生き物だ』
だとしたら、言葉が足りないわたしは、不出来な人間の一番出来の悪い子だということになる。だから、お母さんとわたしの間にも、言葉はほとんどなかった。
いつも、学校に行くと気分が悪くなる。授業の所為じゃない。勉強は苦手だけど、そんなことで気分が悪くなるわけじゃない。ただ、教室の隅っこで、ぽつんとしていると、明るい未来に、わたしは中てられる。すると、気分が悪くなる。ちょうど、あの時みたいに、胸とお腹の中間辺りが、ぐいっと下に引っ張られたような感覚を覚える。すると、動悸が激しくなって、吐き気がして、全身が重力に負けそうなくらい重たくなってしまう。
保健の先生は「疲れてるのよ」って、わたしに早退届けをくれた。半ば、事務処理みたいなもので、わたしが顔を出すたびに、保健の先生の眉がびくりとするのを、わたしは知っている。だけど、先生は影の薄いわたしの名前も知らなければ、本当にそんな風に思っていたのか、よく分からない。
だけど、早退届けを出して、家路に就くと、お母さんはいつもわたしを叱った。
「ズルすることばかり覚えて、この先、生きていけるの? ちゃんとしなきゃダメじゃない。お母さんが口を酸っぱくはして言っていること、いい加減、分かってちょうだい」
友達が出来ないのも、心が重いのも、気分が悪くなるのも、全部わたしの所為。一歩を踏み出そうとしない、消極的なわたしの所為。お母さんは、何度もわたしにそう言った。
だけど、一歩を踏み出すにはどうしたらいいの? 踏み出そうとするたびに、どんどん心が重くなって、怖くて怖くて泣きたくなるのは、どうしたらいいの。ねえ、教えて。
わたしは、お母さんに問いかける言葉が足りなかった。だから、お母さんのお説教を、「はい」「はい」と短い返事をする。そうして、分かっている風を装って、また誰かを落胆させることの繰り返し。世の中には、デフレ・スパイラルと言う言葉があるけれど、わたしの場合は、はいはい・スパイラルだ。そうやって、自分の首を絞めていることに気づいているのに、どうしたらいいのか分からない。
『それは簡単なこと。勇気を出して、一歩踏み出せばいい』
きっとみんなそういうに決まっている。だけど、わたしには、その一歩をどうやって踏み出したらいいのかが分からない。そこに、「勇気」などという漠然としていて、捉えどころのない曖昧な言葉で諭されても、わたしのバカな頭では、全然理解なんか出来っこなかった。
欲しいのは、精神論じゃなくて、具体的な教えなんです!
そう言って、誰かに教えを請うことは、我侭が過ぎるのかもしれない。だけど、わたしは教えを請うための言葉さえ足りなかった。
だから、誰にも思いは伝わらない。そうして、わたしはいつの間にか、伝わらないことの方がいいんだと、思うようになっていた。
お婆さんが降りた駅は、とても小さな駅だった。名前は、おうし座のエルナト駅。すっかり足の具合も良くなったのか、お婆さんはわたしに、もう一つまみの金平糖をくれると、「よい旅を……」と言い残して、列車を後にした。
駅のホームで、誰かがお婆さんを待っている。顔はよく見えなかったけれど、その顔を確かめる必要はなかった。わたしは、苦手なハッカの金平糖だけさっさと口に放り込んで、残りの金平糖を星くずの絹のハンカチに包んで、ポケットに仕舞った。
口と鼻が、すーすーする。
お婆さんの娘さんは、このハッカの金平糖が一番好きだったらしい。わたしは、たぶん一番きらい。やっぱり、わたしと彼女は全然違うのかも知れない、と思いながら、わたしは開け放した車窓がら吹き込んでくる、星の海を渡る風に当たった。すると、少しだけ爽やかな気がしてくる。
「おや、ハッカの匂いがする」
突然、何の前触れもなく声がして驚いてしまったわたしは、溶けかけの金平糖をごくん、と飲み込んでしまった。
「しかも、この香りは、L-メントール。和種薄荷だな」
優しいチェロのような声。何処から聞こえてくるのかはっきりせず、わたしは窓を閉めて、周囲を見回した。
「近頃は、合成ハッカが多くて、この香りを楽しむことは出来ん。そもそも、この香りには、古い歴史があって……」
なぜか、唐突なハッカの講義が始まってしまう。日本におけるハッカの歴史に始まって、ハッカ脳の精製方法に到るまで。どこか、学校の授業のような気がしたけれど、学校じゃそんなことは教えてくれない。
そんな講義の隙間で、カツカツと、足音が聞こえてくる。歩幅は大きくて、それが大人の男の人の足音だと気づいたわたしの前に、後部車両から現れたのは、背が高くて、面長で、背広のよく似合う、ちょっと不健康な顔色をした、神経質そうなおじさんだった。
「おじさんはないだろう。こう見えても、まだ四十になっていない」
そう言われて、またしてもわたしは驚いてしまう。すると、おじさんは、少しばかりニヤリとして、「顔に書いてある」と言った。そんなに、わたしの顔は分かりやすいのかな?
「それに、おじさんという表現は正しくない。私は博士と呼ばれることを好む」
おじさん、改め博士は、どかりとわたしの向かいの席に腰を下ろして、再びニヤリと笑った。わたしは、そんな博士から視線を泳がせながら、何の「博士」なんだろ、と思った。ハッカのことに詳しいから、植物の博士? それともハッカ博士?
「もうじき、ふたご座と、オリオン座の間を抜ける」
何の前触れもなく、博士は窓の彼方を指差した。
「この列車は、オリオン座のベテルギウス駅には停車しないから、そのまま、おおいぬ座のシリウス駅へと針路をとる。星の海でも、一番大きな駅舎だ。カシオペア・レールウェイは、その駅に乗り付けられる、数少ない銀河鉄道と言っても過言ではない」
鉄道博士なのかな? 世の中には、電車が好きで、とっても詳しい人がいる。極めればなんとやらで、その道に詳しい人を博士と呼んでも、間違いじゃないと思う。ただ、博士はわたしの心の中を読み取ったかのように、頭を左右に振ると、
「私は、ハッカ博士でも、鉄道博士でもない。私は何を隠そう『自分博士』だ」
胸を逸らして、どうだエッヘン、と言わんばかり。だけど、聞き慣れない言葉に、わたしはきょとんとしてしまう。すると、博士は「ハッハッハッ」と軽快に笑った。
「自分とは何者で、何を学び、何を知り、何処へ行き、何をするのか。それを研究するために必要な知識を集めれば、自ずからハッカのことにも詳しくなる」
何処をどうしたら、ハッカに詳しくなるのか、よく分からないけれど、博士の言う「自分博士」が私の思っているような「博士」ではないことは、よく分かった。
「知るということは、人間本来の欲求でもある。分からないことは、すべてが不安につながり、明日を生きる力を削いでいく。不安とは、それだけに人の心を縛り付けて重たくしてしまうものなのだ。そう、さも船の錨のようにね」
「心を重たくする……」
わたしの呟きが聞こえたのか、博士はうんうんと頷いて続けた。
「だから、人は知りたいと願う。知ることが、生きること。知りたくもない、分かりたくもない、それでいいんだと思えば、それは死んでいるのと同じこと。明日は永遠にやってこない。だが、人間にはもっとも不可解なものがある。それは何だと思うかね?」
博士の突然の質問に、わたしは飛び跳ねそうになった。学校の授業中に、突然答えを求められた時のような気分。しばらく考えて「わかりません」と、答えると博士は、短く溜息を吐いた。それは、わたしに対して呆れているかのような溜息で、わたしは胸の中が苦しくなってしまった。言葉足らずなわたしは、たった一言で相手を落胆させてしまうことが出来る。それは、特技といってもいいのかもしれない。他人の期待を裏切ることは、わたしにとって不可抗力。
「いや、君に落胆などしていない。君とは出会ってまだ、間もないではないか。私が君の何を知っているというんだ? そのように考えるのは、芳しくはない。人は、誰でも相手に落胆する。だからと言って、その相手のことを嫌いになるわけではない。そうして、だんだんと相手のことを理解していくんだ」
またもや博士は、私の心の中を読んだかのように言った。多分、わたしがそんな顔をしていたのだ。顔に書いてある、というのはまんざら嘘ではないみたい。
「答えを言っていなかったね……。人にとって、最も不可解なものは、自分だ。自分は他人ではないから、自分のことを見ることは出来ない。鏡に映してみても、それは単に『自分という殻』を外側から見ているに過ぎない。それで、何を知ることが出来るのか」
「自分という殻?」
「自分の顔、自分の髪、自分の手足、自分の服。外見と呼ばれるそれらのことを、わたしは研究の過程でそう呼んでいる。外見とは、相手に与える第一印象の要。だが、内面は他人に与える本当の理解の要。だが、人は自分という殻を見ることは出来ても、その中に潜むものまでは見ることが出来ない。そうして、分からないことは不安になって、不安はやがて明日を奪う。それをそのままにしておくわけにはいかない。だから、私は自分博士になった」
どうして、そのままにしておいてはいけないのか、聞きたいことはあったけれど、口にするのが怖かった。博士に、どんな風に思われてしまうのか、それを知るのが怖くて、わたしは俯いてしまった。
「心とは偽ることの出来るもの。本心を自分でも分からないように、隠してしまえる。たとえば、星の輝きを覆い隠す、眩い満月があれば、それは安易に可能なことだ。それ故に、複雑に入り組んだものをひとつずつ紐解いていくことは難しい。だが、自分とは何者なのか、それを知れば、恐怖は自ずとなくなっていく」
黙りこくったわたしに、博士は先生のような口調で語りかけてくる。だけど、博士の言っていることの真意が、わたしにはよく分からなかった。だけど、分かる必要はないと思う。だって……。
「カシオペア・レールウェイに乗る人は、誰もが旅の目的を持っている。君も、私も。その先に何があるのか、知っているから、もうそれ以外は知りたくないと思うのならそれでもいい。もう、知る必要もないのだから」
博士はそう言うと、わたしと同じ沈黙に浸る代わりに、窓をそっと開けた。星の海の風が、わたしの髪をそよそよとなびかせる。時折、金色の光が砕け散って、イオンに変わり、それが風に乗って、車内に吹き込んできた。わたしたちは、会話もなく、ただぼんやりとそのイオンを見つめていた。
博士の言ったとおり、カシオペア・レールウェイは、ふたご座とオリオン座の間を通り抜けていく。オリオン座には、いくつもの星雲の浜辺があった。そのひとつに、赤い大きなプリズムが浮かんでいる。それが、カシオペア・レールウェイの通過予定である、ベテルギウス駅だった。駅舎の中で、何か白いものがうごめいている。それは、車窓から見ると砂粒ほどしにしか見えなくて、何なのかはっきりと分かったのは、、駅舎に滑り込んだとき、泣き声が聞こえたからだ。
「羊……!」
駅舎の中で、白い帯のように列をなすのは、ふわふわの毛をした羊だった。それらが何頭も折り重なるようにして、つぶらな瞳を通り過ぎる列車の中の、わたしたちに向ける。
「そうか、羊飼いの季節か。ベテルギウス駅には、オリオンの浜辺で育った羊を他所の星座に運ぶために、時折ああして、羊が集められるんだ。ベテルギウスの羊の毛は、星くずの絹と同じで、繊維として重宝されている。もっとも、星くずの絹は、星捕りが星を集めたくずだがね」
「何でも知っているんですね」
わたしが言うと、博士は弦をはじいたようにまた軽快に笑って、
「いや、知らないことだらけだ。特に、自分という人間については、結局分からないままだ。お粗末な話さ」
と、やや自嘲するかのように頭をかいた。
ベテルギウス駅を通過した、カシオペア・レールウェイはそのまま、再び星の海を駆けていく。目指すのはおおいぬ座のシリウス駅だった。どうやら、シリウス駅には少しの間停車するらしい。
「次の駅では、検札が待っている。そろそろ、切符を用意しておかなくては」
博士は、遠くに見える青白い光に目を細め、ポケットから切符を取り出した。