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第一話 星くずの絹のハンカチ

 赤緯プラス六十度。車窓から見上げる星の海に、Wの形をしたカシオペアが輝いていた。

 わたしは、その瞬きに、そっと頬を涙が伝い落ちた。

 希望を抱くには、未来の路はあまりにも不透明で、地面を踏みしめて歩き続けるには、現実の路はあまりにもでこぼこしすぎている。その所為で、涙がこぼれたのか、それとも、ただカシオペアが綺麗だったから、涙がこぼれたのか、わたしにはよく分からなかった。

 ただ、交わらない理想と現実というものは、なにも広い視野で見つめた先にあるものではなくて、どこにでも平然と転がっているもので、それは、たった十五年の人生しか歩んでいない、わたしの足元にも転がっていた。

 きっと、窓辺から見える、宝石のような星の海にもそれは転がっているんだと、わたしは思う。

「涙……何か悲しいことでもあったの?」

 わたしと向かい合わせの座席に座る、小さな外国の男の子が心配そうに、わたしの顔を覗き込む。彼のブルーの瞳はとても大きくて、「別に泣いてなんかいない」と嘘を吐くことは出来そうにもなかった。

 男の子は、ジーンズのポケットから、小さなハンカチを取り出すと、それをわたしの手に乗せてくれた。車内のランプにかざすと、それはキラキラと輝いて見える、不思議な白いハンカチだった。

「星くずの絹で縫ったハンカチなんだ。お母さんがぼくにくれた最後の形見。どんな涙も吸い取ってくれる、魔法のハンカチだよ。もっとも……アテにならない迷信だけどね」

 おどけて笑うブルーの瞳に、わたしはハンカチを受け取って、涙を吸い取った。

「旅は楽しくなくちゃダメなんだ。ほら、観て」

 男の子は車窓の外、星の海に輝くカシオペアを指差した。

「もうじき、カシオペアのカフが子午線と重なる。恒星ゼロ時になれば、この列車は次の駅に着く。ぼくはそこで降りなければならないんだ。だけど、いて座までの長い道のり、お姉ちゃんの旅はまだまだ続くんだ。だから、旅を楽しんで」

「君は、何故旅をしているの?」

 わたしはハンカチを返しながら、男の子に問いかけた。すると、男の子は目を細めて、口許に人差し指を当てる。

「旅の理由は誰にも話しちゃはいけない。それが、カシオペア・レールウェイの決まりなんだ。そうしないと、ぼくたちは列車から降ろされてしまう。一度カシオペア・レールウェイを降りたら、もう二度と乗ることは出来なくなっちゃう。目的地へ辿り着けない旅は、旅じゃなくなってしまうんだ」

「そう……残念」

 わたしは出来る限りの作り笑顔で答えた。他人の旅の目的に興味があるわけじゃない。ただ、この星の鉄道で乗り合わせた、ちょっとお節介な男の子のことを少しだけ知りたかった。

 カシオペア・レールウェイと呼ばれる、星の海を渡る列車に乗り込み、孤独がわたしには一番似合っていると気どっていたのが嘘のように、本当はさびしいのは苦手だと言う矛盾が、わたしの心にあることに気づいてしまったんだ。

 男の子は、わたしが心底残念がっているように見えたのか、そっと顔を近づけてきて、小さな声で囁いた。

「はくちょう座にある、トンネルの中なら、旅の理由を話しても大丈夫なんだ」

「どうして?」

「トンネルはブラックホールで出来てる。話した言葉は、車掌さんに届く前に、シュバルツシルトに吸い込まれて消えるんだ」

 まるで内緒話でもするかのように、顔を離すと男の子はそばかす顔いっぱいに笑顔を浮かべた。わたしは、そんな男の子の笑顔を横目に、車内を見渡した。

 レトロという言葉が似合うかのような、木目調の車内には、わたしたち以外の乗客はなく、ただガラスのランプが列車のゆれに合わせて、ゆらゆらとしている。

 だけど、不思議なことに、この列車はレールの上を走っていないのだ。静かに、ただ静かに、星のきらめく海を渡っていくのだ。そこがどこなのか、どこへ行くのか、わたしは知らない。

 わたしが知っているのは、この列車の名が……。

「この度は、おおぐま座発、はくちょう座経由、いて座行き、銀河鉄道『カシオペア・レールウェイ』をご利用ありがとうございます。次は、うしかい座のアルクトゥールス駅、アルクトゥールス駅。お降りのお客様は忘れ物などないよう、お気をつけください」

 車内に設けられたスピーカーから、篭ったような車掌さんの声が聞こえてきて、わたしと男の子はそろって、ドキリとした。しかし、それは、次の駅への到着を知らせるアナウンスで、別に、わたしたちの内緒話を車掌さんが聞いていたわけではなかった。

「行っちゃうんだね」

 わたしが男の子に言うと、彼はブルーの瞳でわたしの顔をじっと見てから、前歯の抜けた口をにんまりと弓なりに曲げて、わたしに手を出すように促した。なんだろ? わたしは少しだけ小首をかしげながら、男の子の前に両手を差し出した。すると、男の子はわたしの名を呼んで、手のひらの上にハンカチを載せた。

「あげる。また涙がこぼれたら、これで拭いて」

 餞別だよ、と笑う男の子に、わたしは戸惑ってしまった。

「これ、お母さんの形見なんでしょ? いいの?」

「うん。アンドロメダのアルフェラッツで降りれば、ぼくにはもう必要ない。だって、お母さんに会えるから」

 徐々に窓の外を流れる景色がゆっくりとなり、やがて星の海に浮かぶ、プリズムのような形をした大きくて透明の箱に、列車は入っていく。そこが、アンドロメダ座のアルフェラッツ駅と呼ばれる場所だった。

「よい旅を」

 別れの微笑みとともにそう言って、男の子はくるりとわたしに背をむけると、乗降口が開くのを待って、アルフェラッツ駅に姿を消した。わたしは、ただその後姿を何も言わずに見送った。

 男の子を降ろした列車は再び、ゆるやかに揺れながら、プリズムの駅を発車し、星の海へと駆け出す。

「よい旅を……」

 わたしは男の子にもらった、星くずの絹で縫われたという、ハンカチを、制服のポケットに仕舞い込んだ。


 体中にかかる重力は、誰でも同じはずなのに、わたしの体はとても重い。別に太っているわけじゃない。どちらかと言えば、わたしは背も低いし、やせっぽちな女の子だ。わたしが重く感じるのは、きっと重力や体重なんかじゃなくて、心の問題だった。

 高校生になれば、何かが変わると思っていた。何かが変われば、心も軽くなると思っていた。だけど、未来を明るく生き、青春の中を走れ抜けていく同級生たちの姿を見ていると、体が強張って、心が重くなっていくことに、何の変わりもなかった。

 キラキラしてる未来は、誰の前にも用意されている、なんて、流行の歌の歌詞にあるけれど、キラキラした未来が、どんなものなのかよく分からない。輝かしい前途と言う言葉は、あまりにも軽はずみで、輝かしい前途を知っている大人にしか言えなくて、少なくとも、わたしみたいなみじめな子どもには、そんな前途は用意されていないんだと思う。

 だから、ヒネクレもののわたしの体は重い。

 なんで、わたしは重くなってしまったんだろ……。

 わたしには友達がいない。悩みを話したり、ともに喜びをや悲しみを分かち合う友達がいない。それも原因のひとつかもしれない。人付き合いは得意じゃない。話しかけられても、何を話したらいいのか分からない。どんな話をしたら、受け入れてもらえるのか分からない。どんな言葉を口にしたら、わたしのことを好きになってくれるのか分からない。

 分からないことだらけで、頭がぐるぐるしてくる。

 ぐるぐるした頭で、授業を聞いても、教科書を見つめても、なにも得るものなんてなくて、成績は下がる一方。頭の悪い子、要領の悪い子、根暗な子というレッテルを貼られることは、もうとっくに慣れてしまっている。それなのに、他人からいいように見られたいという願望だけは立派に持っていて、矛盾の中で、わたしはいつでも一人ぼっちだった。

 親は、そんなわたしに、愛想を尽かして、もうずっと口もきいていない。

 わたしは、そんな毎日を、星の見えない夜空を見上げながら、「明日が来なければいいのに」と願いながら生きてきた。なんて詰まらない子なのか、自分でもよく分かっている。だって、悪いのはわたし。わたしが悪いから、心が重くなって、悪循環を繰り返し、何も変わることが出来ない。

 ううん、ちがう。本当は、変わることが怖い、臆病者なんだ。

 明日がこなければいいのに……。願いは、星に届くわけもなく、ただ単調に、ただ無意味に毎日は過ぎていき、気が付くと十五歳になっていた。取り柄もない、友達もいない、詰まらない十五歳になっていた。

 そんなある日、わたしはひとつの逆転的な発想に辿り着いた。その日は、学校に行く前から気分が悪かった。胸とお腹の中間の辺りが、下に引っ張られたみたいに重たくて、誰にも気づかれることなく、ずっと青い顔をしていた。朝ごはんを食べない所為かな、って思ったけど、どうやら違うみたい。学校へ行きたくないと、心が言っている。

 毎朝変わらない駅のプラットホーム。灰色のスーツに身を包んだ会社員の人たちや、黒い鞄を背負った大学生たちが電車を待つホームのベンチで、わたしは一人苦しんでいた。発着時刻を知らせる電光掲示板を見つめながら。そうして、ふと思いついた。明日が来なくなる方法を。

 何で思いついたのかはよく分からない。分からないことにも、もう慣れっこだ。

 わたしは、鞄をベンチに置いたまま立ち上がり、フラフラとした足取りで、通勤の会社員や大学生たちをかき分けて、ホームの淵に立った。誰ももわたしの事なんて気にも留めていなかった。

 わたしの目の前に丸くて大きな二つの目が光る。

 その後、何が起きたのかわたしにもよく分からなかった。ホームの人たちの声も、冷たい風の音も、電線の上に止まったカラスの声も、とりとめもない街のざわめきも、何もかもが消え去った。その代わり、わたしは夜の中に、ぽつんと立っていた。ここは何処だろう? まだ少し気分の悪い胸元を押さえながら、わたしはあたりを見回してみたのだけど、なにも見えない。

 と、その時だった。

『おおぐま座ドゥーべ駅の二番ホームに、列車が入ります。白線の内側にお下がり下さい』

 という聞き慣れた、アナウンスが聞こえ、突然わたしの足元を、真っ白な光のラインが走った。それが白線だと気づいたわたしは、こんな暗闇じゃどちらが内側か分からない、と思いながらも、片方に飛びのいた。

 やがて、警笛の音を響かせながら、二つのヘッドライトを光らせて、蒸気の音とともに、機関車がわたしの目の前に到着する。あっけにとられているわたしの前に、車内から男の人が降りてきた。真っ黒な詰襟と笛を首から下げた、初老の車掌さんだった。

「このたびは、銀河鉄道『カシオペア・レールウェイ』をご利用ありがとうございます。切符を拝見」

 と、車掌さんは手を伸ばしてくる。

 銀河鉄道って、宮沢賢治の? いったいこの人は何を言っているんだろ、と思いながらも、わたしは制服のスカートのポケットを探った。すると、指先に何かがこつんと当たる。取り出してみると、それはオレンジ色の小さな紙切れだった。紙切れは「おおぐま座→いて座」と書かれた、銀河鉄道の切符だった。

 こんなもの何処で手に入れたのか、全然心当たりがなかった。だけど、車掌さんはシワのめだつ顔でにっこり微笑むと、わたしの手から紙切れをとると、小さなハサミみたいなもので、パチンと切符を切った。

「段差がございます。お気をつけてご乗車下さい」

 穴の開いた切符をわたしに返すと、車掌さんはわたしの手をとって、銀河鉄道『カシオペア・レールウェイ』のタラップに乗せる。

「しゅっぱーつ!!」

 車掌さんの声に合わせて、列車が揺れ、タラップを昇りきったわたしの視界は光で満たされた。そして、わたしは意識を失った。

 たぶん、暗闇から、明るい車内に入って、光に目がくらんだんだと思う。だけど、次の瞬間目を覚ましたわたしは、座席に座っていた。そして、窓の外には無数の星がきらめく、星の海。わたしはその星の美しさに見とれてしまった。毎日、星のない空を見上げていた、わたしにとって、星の海の光景は憧れといってもよかった。

「やっと目を覚ましたんだね、お姉ちゃん」

 星の海に見とれていたわたしは、向かい合わせの座席に、見知らぬ外国の男の子が座っていることに気づいていなかった。

「君は……?」

「ぼくも乗客だよ。ようこそ、星の旅へ」

 そう言って、あらためて車窓から広がる不思議な景色と、星の旅という言葉に戸惑ってしまったわたしに、ブルーの瞳をもつ男の子は、そばかすの散りばめられた顔でにっこりと微笑んだ。

 それが、ハンカチをくれた男の子だった。

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