【1】フィリアスと散髪
「ねぇ、フィーさん。そろそろ……人間に戻ろっか?」
私はそっと、呼びかけてみる。
銀灰色のふわふわカールに覆われた犬の耳が、ぴくりと揺れた。
さっきから私の膝の上でくつろいでいるのは、ふわふわもじゃもじゃの小型犬だ。
私の発言にふんっと小さく鼻を鳴らしたきり、ちっとも動く気配がない。心地良さそうにだらりと脱力しきって、目まで閉じている。
でも、呼びかけられた言葉の意味が分からないはずないのだ。だって、フィリアスさんが魔術で変身しているだけなのだから。
「犬の姿のままでお仕事してるの、ほんとすごいと思うんだけど」
ここは王宮の魔術師研究棟。
フィリアス・テナント第2魔術師団長閣下の執務室のデスクの上では、ひっきりなしに書類が勝手に浮かび上がり、空飛ぶ魔術ペンがサラサラと自動筆記を続けている。
ペンに連動するように、犬のフィーさんのしっぽが小刻みにゆらゆらと動いている。たぶん、しっぽで魔術をコントロールしているのだ。……しっぽで!
「フィーさん、せめて自分の机に行こう? 私も仕事があるし」
手にしていた筆耕用のペンを自分のデスクに置いて、困ったふうに眉を寄せて言ってみた。
——本当は、小ぶりなワンコフィーさんを膝に乗せていても、業務に支障はないのだけれど。
私は今日から新たに魔術書の複写作業に取り掛かっている。すばらしくボロボロで、すばらしく希少な本だ。
一文字だって書き写しミスは許されないからいつもに増して気を張るし、そもそも一度ペンを動かして集中して書き始めたら、一切の音や感覚が体から遮断されてしまう。
それこそ、犬のフィーさんが膝で何をしようが、人間のフィリアス閣下がそばに寄ってこようが、全然気づかない自信がある。
そんなことを考えながら、ついついワンコフィーさんの頭を撫でてしまう。
うっわぁ、ふわふわで気持ちいい。指が沈んであったかい!このまま頭に顔をうずめて思いっきり吸い込みたい!!
とんでもない衝動が走って、思わずおもいっきり頭をブンブン横に振ってしまった。
ダメだダメだ吸っちゃダメ!これはフィリアス・テナントさん!本当だったら25歳成人男性!!
……最近のフィリアスさんだったら、頭を吸われても嫌がらない、というかむしろ喜んじゃいそうなところが怖いな……。
懸案だった大園遊会がなんとか終わったのが先週のこと。
魔力欠乏で高熱を出したフィリアスさんは、結局5日ほど寝込んだ。
うとうとと眠りに落ちては、目を覚ましてじっと私の顔を眺めて。手を伸ばして、私の左手の薬指に収まっている美しい指輪をすりすりと親指で確かめて。安心したみたいに口元を少し緩めて、
「うん、寿命が伸びる」
そう言って、また、うとうとと眠る。
指輪ひとつで寿命が伸びるって、一体何ごと?!と思わないこともないのだけれど。
昔のフィリアスさんが魔術にのめり込んで生き急いでいたことを、今の私は知っている。この指輪ひとつで長生きしてくれるんだったら、もう、それでいいのかもしれない。
そんなこんなでフィリアスさんが完全に復調したのが、ようやく昨日のこと。
明日から通常通りに王宮に仕事に行かなきゃね、というタイミングで、うっかり私が口走ってしまったのだ。
「フィリアスさん、髪、伸びてきたね。そろそろ切ったほうがいいかも?」
「君が切ってくれるのか?」
フィリアスさんは手にしていた薬草の束をポイっとテーブルに放り出して、思いっっっきり身を乗り出した。
普段は静かなアイスブルーの目が、みるからに輝いている。
向かいに座っていた私はとっさにのけぞった。期待のまなざしの圧が……圧が強い!
「で、でも、私、人間の髪の毛は切ったことないし」
「人間はない?なら他では?」
「えっと、子どもの頃、アレクの毛を刈ったことならあって」
「アレク」
私が子どもの頃に大好きだったオオカミ犬の名前を出した瞬間、フィリアスさんの声が地を這った。
「あ、あの、夏の盛りにアレクがすっごく暑そうだったから、ジョキジョキって全身切ってあげたらすっごく喜んで」
「全身」
「だから毎年カットしてあげてたんだけど……」
「毎年」
私が言えばいうほど、返ってくる声が低くなる。そして何だか目までどんどん据わってくる……?
もはや地底の大魔王のような声で、フィリアスさんは言った。
「アレクの毛は切れるのに、俺の毛は切れないの?」
「だって、アレクは犬だもん!」
「そうか、よくわかった」
完全に据わり切った目つきで、フィリアスさんはうなった。
「俺が犬になればいいんだろ」
次の瞬間、目の前が青い光でいっぱいになって——そして、ワンコのフィーさんが私の膝の上で、かわいらしく「わんっ!」と得意そうに吠えた。
……そしてそのまま今に至る、のだ。
でも、犬になっても、さすがはフィリアスさん。出勤の移動魔術を使えるのがすごいし、普通に書類仕事を進めているのも信じられない。
もしかして、私が全身トリミングするまで、ずーっと犬のままなのかな……?
でも、今日の午後はオフィスフロアに降りて、団員の技術指導をする予定がある。まさか、指導も犬のままでやるんだろうか。え、どうやって?!すごく見たいかもしれない!
「面白いことになってんな」
その時、急に声がして、私は文字通り飛び上がった。
執務室のドアが開いた気配もなかったのに、いつの間にか、目の前に人が立っている。
王宮魔術師ローブを着込み、金茶色の髪の毛をきっちり整えたその若い男性は、猫のように目を細めた。
「それ、テナントだろ」
珍獣を眺める目つきで、私の膝の上の犬を見ている。
ワンコのフィリアス・テナントさんは目をつぶったまま、全くの無反応だ。完全に寝たふりを決め込むことにしたらしい。
フィリアスさんを抱き上げて立ち上がるのも憚られ、私は慌てて座ったまま頭を下げた。
「このような形で不調法で申し訳ありません。マーガレット・レーン業務補佐官と申します。あの、恐れ入りますが、お名前をお伺いしても……?」
魔術師団のメンバーは第1、第2、第3とも、全員顔と名前を覚えている。
でも、この人にはまったく見覚えがない。ということは……?
「第4、ロニー・ボージェス」
簡潔に名乗りが返ってくる。やっぱり、と思う。
第4魔術師団の担当業務は、情報分析。早い話が諜報活動だ。メイン業務にスパイ行為が含まれるため、メンバーの顔や名前は基本的には公にされていない。
とはいえ、団長や副団長は諸々の会議にも出席するし、名乗りもする。
第4で、フィリアスさんと同じぐらいの年頃の男性で、ボージェスさんと言えば……
「第4副団長閣下でいらっしゃいますね。大変失礼いたしました」
「いい。そういう堅苦しいの無し。めんどくせぇ」
気だるげに肩をすくめる様子も、何だか猫みたいだ。いや、猫というより、隙のない豹みたいにするりとこちらに近寄ってくる。
「こいつ、犬でも人間の言葉話せんの?」
「おそらく今は無理かと……」
「へぇ。ま、人間でも犬でも大差ないだろ。昔からほとんどしゃべらない」
「昔から?」
「テナントとは学院で同級」
なんと!この人、フィリアスさんの同級生!?
私はまじまじと目の前の男性を見た。
そういえば、フィリアスさんは私と同じ王立学院出身なんだった。その頃のフィリアスさんって、どんなふうだったんだろう。うわぁ、気になる。
「もじゃもじゃしてましたか?」
「もじゃもじゃしてたな、今よりずっと」
「今より……?! え、フィリアスさん、黒板ちゃんと見えてたの?!」
出会った頃のフィリアスさんは、目までもっさもさの癖っ毛で隠れていた。あれよりすごいって、どれだけもじゃもじゃしてたんだろう。フィーさんの後ろに座った人は、はたして黒板見えたんだろうか。
あれこれ妄想してしまう私の膝の上、犬のフィーさんは死んだように寝たふりをキメ続けるので、ボージェス副団長閣下は用件だけを言い置くことにしたらしい。
「半年前に申し入れしていた件。やはり9月からひとまず1カ月、休暇を取得する。不在の間のフォローよろしく。日が近くなったら、また来る」
それだけ言うと、さっさと身を翻す。
音も立てずに分厚い扉をわずかに開いて、隙間からするりと出ていった。さすが第4魔術師団。隠密行動のプロフェッショナルだ。
「フィーさん、わかった?聞いてた?大丈夫? ねぇ、フィリアスさん?」
ちらり、と犬が薄目をひらく。アイスブルーの瞳がのぞく。あ、何だかとっても不満そうだ。
フィリアスさんのデスクから、紙とペンが飛んできて、空中でするすると文字を描いた。
——大丈夫じゃない。
「大丈夫じゃないの?」
——1カ月、休むあいつの業務を肩代わりしないといけないとか。
「半年前から約束してたんでしょ?」
——そのころは、君がいなかった。
「そりゃそうだけど」
——君との時間が減るのが嫌だ。
「そうなの?」
——そりゃそうだろ。
完全にふてくされたワンコフィーさんは、たぶんフンっと鼻を鳴らしたかったんだと思う。なのに勢い余って、クゥーンと悲しそうに小さく喉が鳴った。
「えっ、かわいい。むり」
私は思わず犬を持ち上げて、ぎゅうと抱きしめた。そのままどさくさに紛れて、思いっきり頭も吸った。ハーブみたいなレモンみたいなフィーさんのいつもの香りがする。落ち着くし、しかもかわいいとか、もうもう最高!
「わかった! じゃぁ、フィリアスさんがボージェス閣下のフォロー業務をするごほうびに……」
犬とばっちり目が合った。フィーさんの目が、らんらんと輝いている。言いたいことがビシバシと伝わってきて、私はとうとう白旗を上げた。
「ごほうびに、髪の毛をトリミングしてあげよう!」
とたんに目の前に青い光が広がって——人間に戻ったフィリアス・テナント閣下が、執務室の椅子に座っていた。
いつもの魔術師ローブ姿で。なぜか膝上に私を抱っこして。
さっきまで私が犬のフィーさんをぎゅうぎゅうに抱っこしていたはずなのに、今は私が人間のフィリアスさんにぎゅうぎゅうに抱っこされている。……何だこれ。
「ありがとう。マギー。とてもうれしい」
でも、フィリアスさんが幸せそうだから、まぁ、いいか。言葉の終わりにすかさず頭を吸われた気がするけれど。
「でもね、本当にヘアカットなんてしたことないから、ちょっと時間ちょうだい? 次の休みにニーナさんにやり方を聞いて、美容師の友だちにも話を聞いてみる」
「うん。何年でも待つ」
「いやいや、そんなに待ったらフィーさん、もじゃもじゃの極みになっちゃうでしょ」
私の頭にぐりぐりとほっぺたを押し付けて、フィリアスさんはかすかに息を吐き出した。
そのまま小さく言葉を紡ぐ。
「本当のことを言うと」
「うん?」
「ハーフォードは昔、髪の毛が長くて」
突然、お兄さんの名前を口にしたフィリアスさんは、むすっと続けた。
「それが、ニーナに短く切ってもらったって、毎月やたら自慢してくるようになって」
ぼそぼそと、頭の上から正直な言葉が降ってくる。
「毎月とてもイラッとした」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。だって、
「うらやましかったんだ?」
「イラッとしただけ」
「うらやましかったんだね」
フィリアスさんは、黙って私の首すじにおでこを埋めた。
しばらくして、ささやくような声が聞こえた。
「今は君がいるから、うらやましくなんか、ない」
「ふふっ」
私は手を伸ばして、フィリアスさんの頭をよしよしと撫でた。
「はりきってカットのやり方覚えるから。きれいにカットできたら、ハーフォードさんに自慢しよ」
「……する。毎月する」
「毎月かぁ。私、ヘアカットのプロになっちゃうね」
「……他のやつにはやらないで」
「しないしない。私の腕は、フィーさん専用」
「……他の犬にもしないで」
「ふふっ。しないって。まかせて!」
「うん」
ふぅっと、長い長い息を吐いて、それからフィリアスさんは言った。にじむように、うれしそうな声で。
「うん」
それだけで、たったそれだけの言葉で、私はなんだかひどく幸せになってしまって、ひたすらわしゃわしゃと、フィリアスさんの頭を撫で続けた。
お読みいただきありがとうございました!
ご無沙汰しています。2部の最後の投稿からかなり時間があいてしまってすみません!
3部を書いているうちに、入れたかったフィリアスの散髪のエピソードが入らなそうだなぁ、と言うことで、
今回、こぼれ話で投稿させていただきました。
そして、3部に新たに出てくる人たちの人生をあれこれ考えているうちに、
別のお話を並行して書き始めてしまって……(汗)
『速記のディアナと金魚の魔術師』
https://ncode.syosetu.com/n0921jr/
先行して第1章公開中。ロニー・ボージェスと相棒のディアナの物語です。
よろしければ、こちらも合わせてお楽しみいただけるとうれしいです!
マギーたちの物語は、続きの投稿までもう少しお時間いただければ幸いです。
引き続き、どうぞよろしくお願いします!!




