(17-2)兄弟のカーテンコール②
アレク少年はふらふらとハーフォードさんに顔を向け、目が合った瞬間、弾かれるように俯いた。小さな声が、揺らぎながらこぼれ落ちる。
「でも、でも……この力は要らない。人の心なんて、もう、いじりたくない。このまま魔法陣が崩れ切ったら、中に流した力は消える。そうしたい」
「そうか。わかった」
あっさりうなずくと、ハーフォードさんは、アシル殿下に向き直る。
「それで、殿下はどうします?」
「私にそれを聞いてどうする」
苦しい息の中から、諦めた静かな答えが返ってくる。
「私がいなければ、一族は失脚する。兄の皇帝一派だけが相手ならば、民衆の革命も成しやすい。それで腐った皇族がようやく消えて、新しい国が立つ。ならば、私はここで消えるべきだ」
ハーフォードさんは、思わずといった様子で天を仰ぎ見て、自分の額にペチンと手のひらを当てた。はぁぁぁぁぁぁぁ、と派手にため息をつく。
「だからさぁ、あんたも真面目すぎるんだって。せっかくここで内緒話ができるようにしたんだからさ。もうちょっと楽に生きなさいよ」
ぼやきながら、ガリガリガリと頭をかく。それからよどんだ空気を断ち切るようにニヤリと笑って、高らかに宣言した。
「ま、じゃぁ、君たちいっぺん死んどきますか! フィリアス!お前が徹夜で作った傑作の出番だよ」
呼ばれたフィリアスさんが、静かに立ち上がる。指先ひとつ小さく動かして、身の回りの結界を解いた。
そのくちびるがおもむろに何かを静かにつぶやき始める。
フィリアスさんは魔術を使うとき、めったに正式な詠唱をしない。そうしなくてもたいていの魔術は発動できてしまうからだ。その彼が、呪文を詠唱している。どれだけ高度な術なのか。
指先から、青白い光の円が生まれる。あっという間に大きく広がって、横たわるアシム殿下の体をすっぽり囲む。床から柔らかい光が丸くにじんだ。
白くしなやかな魔術師の指が、詠唱のリズムに合わせ、なめらかに宙を泳ぎはじめる。
そのたびに、魔術文字が空中ではじけるように生まれ、気まぐれに弾む。あつまり、離れて、煌めきながらくるくる回り、やがて軽やかに群れながら床に舞い降りていく。
言葉の意味をしっかり読み取れないけれど、きっと何かの魔法陣だ。それもとんでもなく緻密な。フィリアスさんが創り出した、たぶんフィリアスさんにしかできない魔法。
とうとう長い詠唱が止まる。
光の環から外れるように、そっと数歩、長い足が後ろに下がる。中心にいるアシム殿下に向かって、右手を伸ばす。
すばやく空気を切るように大きく手首を翻し、何かをつかむような、招き寄せるような身振りをひとつ。
その瞬間、空中に、大きな黒いシルエットが現れた。
まるで、横たわる人のような——?
フィリアスさんは片手のひらをくちびるに寄せ、ふうっと長い息をそこに乗せた。
呼吸に乗って、青白い光の粉がいっせいに舞い上がる。そのままふんわり軽やかに広がって、空中のシルエットの上に降り注ぐ。まるで命を吹き込むように。
黒かったそれが、じわりと色を帯び始める。ゆっくり下降しながら、変わっていく。黒髪に、浅黒い肌に——マルタ帝国皇弟殿下とうりふたつの姿に。
そしてとうとう、アシル殿下の隣に、それは横たわった。
思い出す。以前、私そっくりの人形を作って捜査に使ったという。これはたぶん、その魔術人形と同じもの。鳥肌が立つほど精巧で、生き写し以外の何ものでもない。
「……これは私、ですか」
動かない隣の人形を凝視したまま、動けないアシル殿下の狼狽した声が問いかける。
「これは、あなたの望む、あなただ」
フィリアスさんは、静かに言った。
「暗殺者に殺された、アシル・エルデム・マルタ。この体をマルタ帝国に送れば、皇帝は満足し、あなたの一族は終わる。カンティフラス王国は望む利益を手にできる」
フィリアスさんは殿下の返事を待たず、踵を返した。そのまま流れるように、アレク少年を見据える。
手と肩をハーフォードさんに押さえ込まれた少年の顔は、何かに耐えるように歪んでいた。
気力を振り絞るように、フィリアスさんに一歩踏み込もうとした体がふらついた。ぐらりと頭が揺れる。アレク少年の禁忌の魔法陣は、もうすでに大きく崩れている。
ハーフォードさんは苦笑いしながら、少年の体を引っ張るようにして、床にどしんと座り込んだ。よろめきながらつられて座った少年の頭を、脇の下にぎゅうぎゅう挟みこむ。
「やせ我慢すんな。すげえ汗じゃねぇか。ほんとは全身どこもかしこも激痛だろ。ほら、寄りかかっとけ」
返事はない。フィリアスさんは、そんなふたりをまっすぐ見下ろした。
「ハーフォード。こいつは何の力を捨てた?魔法陣に流し込んだ量は?」
「精神操作系の能力を全部。それから、火属性の能力をごっそりと。それで陣の許容量いっぱいになった。俺が感じる限りでは」
「わかった」
軽くうなずくと、フィリアスさんは、再び詠唱を始める。少年とハーフォードさんの周りに光の円ができる。
ハーフォードさんはその様子をしっかり確認してしてから、抱えていた少年の頭をおもむろに解放した。
支えを失いそのまま傾く細い体を、そっと床に寝かせる。肩で荒い呼吸をする少年は、のろのろとなんとか横向きになり、逃げるように小さく小さく体を丸めた。
魔術人形が、空中から呼び出される。
そしてほとんど崩れて残骸になった魔法陣の下に、無造作に横たえられる。
まるでアレク少年にしか見えない顔に、赤い雫がぽつりぽつり。染み込んでいく。
そのたびに人形の顔が、かすかに柔らかくほころび、みずみずしい雰囲気をまとう。
雫を吸い込むごとに、完璧な血の通った本物の人間にしか見えなくなっていく。
「さて、お待たせ!」
ハーフォードさんが、倒れるふたりの間に立った。丸まったまま動かない少年に気遣うまなざしを一瞬向けてから、軽やかに話し出す。
「ふたりとも体が辛いだろうから、手早く済ませような。今、登場したのはフィリアスが手がけた世界最高峰の魔術人形だ。人形が、お前たちの代わりに死を引き受ける。最先端魔術、かっこいいいだろ?」
「……人形を身代わりにして、私はアシル・エルデム・マルタでなくなる。これまでの名前と人生から解放される」
ぼうぜんと、アシル殿下が口にする。
「そうそう!そういうこったな。理解が早くてありがたい」
「信じられない」
横たわったまま、アシル殿下は両手で顔を覆った。重い声が、その隙間から漏れる。
「こんな都合の良いことが、許されるのだろうか。別人として生き直すなど……」
「いやもうさぁ。難しく考えるなよ。あんたも、こっちの小僧もさ。誰かの思うツボにはまって、お人形さんのまま命をドブに捨てるって?はは!後味悪すぎだろ」
一刀両断で笑い飛ばしたハーフォードさんが腕組みをし、寝静まったままの客席に視線を流す。
「この中の何人かは、あんたを慕ってるんだろ。安易に泣かせるなよ。って……あぁあぁ、もうマギーちゃん泣かせてるじゃねぇか。フィリアス、ちょっと待て、まだ待て、もうちょっとだけ堪えろ」
違う。まだ泣いていない。ぎりぎり、まだだ。大きく首を横に振りながら、眉間に力を入れ、ぎゅっと両手の拳を握りしめて壁前に立つ私を見て、ハーフォードさんは困った顔をし、フィリアスさんは私と同じようにぎゅっと眉間に力を入れている。
「マギーちゃん、そんな遠いとこじゃなくて早くこっちおいで。もう危ないことも起きないし、むしろフィーが暴走したら困るから」
軽く手招きをしながら、「みんなしょうがねぇなぁ、俺も含めて」とハーフォードさんは明るく苦笑いした。
「ま、ごたごた考えるのはやめて、もうちょっと生きてみりゃいいんじゃないの。それでこれから苦しんだって、それはちゃんとあんたたちの人生だ。フィリアス、どう思う?」
「生きたら、そのうち、本当に命をかけるべきものが見つかるかもしれない」
フィリアスさんは静かに答え、次いで魔術語を口にした。
「〈起動〉」
床の光が一気に強くなる。フィリアスさんの体も青い光に包まれる。ふわふわカールの銀髪が、強い魔力に煽られて風もないのに浮遊する。魔術師ローブの裾がはためいている。どれだけ大量の力を必要とする技なのだろう。
心配と不安に背中を大きく押され、私は走り出す。
フィリアスさんが、淡々と告げるのが聞こえる。
「人形の体にさわれ。術が発動して、体内から魔力や生気を少量吸引する。そうすればどんな魔術師も、この人形を偽物とは見抜けない」
「……感謝する」
覚悟を決めた声で告げてから、アシム殿下は人形の手の上に、自分の手を重ねた。ゆるやかにその体が青いもやに包まれる。
「おーい少年よ。小指の先でちょいと触れるだけって、どんだけ恥ずかしがり屋さんなのお前。がっつりさわっとけー、がっつり!」
とても嬉しそうなハーフォードさんの声が響いて、アレク少年が未来を選んだことを知る。
とうとう堪えきれなくなった涙がぽろりとこぼれて、私は前を向いたまま、ステージ脇の階段から舞台に駆け上がった。
わぁ、いつもの時間に投稿できてなかった…!予約設定間違えました……失礼しました!(涙)




