(17-1)兄弟のカーテンコール①
フィリアスさんの背中が遠ざかる。その手のひらに、ふたつの魔法陣が一気に立ち上がる。——睡眠と、防御結界の魔法陣。
壁に背を預けてそれを見ていたハーフォードさんが、にやり、と笑った。ローブを翻して走り出す。
同時に、アレク少年の魔法陣、最後の一文字が描かれるのが見えた。魔術語がその口から迸る。
「〈発動〉〈摘出〉」
青白の魔法陣が、とたんに真紅に転じる。血の色だった。
あの少年の、命の色だ。
刹那にその言葉が浮かんで、私の心を深く刺す。赤色をした魔法陣など見たことがない。きっと少年の体から無理やり引き剥がされた魔力があそこで輝いている。生々しさに肌が粟立つ。
「〈抽入〉」
胸の痛みと恐怖を押しつぶすように、いきなり赤い閃光が膨らんだ。弾ける。とっさにしゃがむが遅い。
視界を焼かれる直前、ふわりと全身が温かくなった。自動で発動したフィリアスさんの守護魔術に包まれて、目を痛めることもなく、こわばった体から力が抜ける。ただ、ひたすらに世界がまぶしい。
しかし、それもほんのひと呼吸のあいだのことだった。
ふつりと何かに断ち切られたように、光が力を失ったのだ。目をくらませる圧倒的な力が、収まっていく。引き波のように、幻のように。
「はーい、そこまでな!」
そして響き渡る、場違いなまでにあっけらかんとした声。
視力を取り戻した目が最初に見たものを、私は疑った。飄々と人をくったような笑みを浮かべた特級魔術師の姿が飛び込んでくる。先ほどまでの鋭く厳しい剣のような第1魔術師団長はどこにいったのか。
ハーフォードさんは、すかさず陽気な大声を張り上げた。
「ジャンニ、会場封鎖!」
「完了っす!」
「客席全員きっちり寝てるか確認しとけ。フィリアスが追加で3人寝かせた」
「マギーさん以外?」
「もちろん。起きそうなやつはしっかり寝かしつけとけ」
「了解!」
ようやく正常に戻った視界が、まっさらな舞台を捉える。さっきまであったはずの人形の山も、囚われの糸も、何もない。
素に戻った、がらんと広い板の上。いるのは、たったの4人だけ。
「さてさて、若者たちよ。ショーも終わったみたいだし、ちょっとしたカーテンコールをしようかね。ってか、お前らさぁ。真面目すぎるだろ」
呆れた声で言い放つハーフォードさんは、アレク少年の細い右腕をしっかりとつかんでいる。
少年の展開した魔法陣は、完全に発動しきらずに、赤く苦しそうに脈動していた。吸い取った力を注ぐ場所を見失い、明滅しながら陣の端からゆっくり崩れ出している。ほつれた文字の先から、血のような赤が滴って、行き場なくぽたりぽたりと床に染み込んでは無為に消えていく。
「離せよ!離せ!っていててててて!」
大声を上げて身をよじる少年の手を、ハーフォードさんは雑巾でも絞るかのように、簡単に捻り上げた。
「どうだ、うまく力を出せねぇだろ。魔力統制は俺の得意技でね。なんせ、ちっちゃな弟がしょっちゅう魔力の大暴発を起こしてたもんでねぇ、暴走する子どもの強制コントロールはお手のものなんだ。なあ、フィリアス?」
そのハーフォードさんの言葉を完全に無視したまま、フィリアスさんは床に転がるアシル殿下の側で片膝をついている。半球の防御結界を張り、荒い呼吸に咳き込む殿下の胸に軽く手をかざしながら。
冷静な報告が紡がれる。
「……少量を被弾している。最初に魔法陣が弾けた時のかけらが複数」
「影響は?」
「拒絶反応あり。現在、発熱、発汗、軽度の震えと呼吸障害。生来の保有魔力量が少なく、そこに10倍程度の魔力が強制注入された状態と推定される。要入院、要魔術医療措置」
「了解。10倍か。そりゃ殿下、体がきついだろうなぁ。でも、それっぽっちじゃ死なねぇな!」
アレク少年とアシル殿下、両者の体がびくりと大きく動揺する。少年が弾かれたように叫んだ。
「おい、この手!離せ!僕の仕事の邪魔をするな!こいつにもっと注いでやらなきゃ!離せ!」
わめいて必死の形相で暴れる少年の顔を、ハーフォードさんはヒョイっと覗き込んだ。
「お前さあ、もうちょっと不真面目に生きてもいいんだぜ。そんなに死にたいの?」
「この魔法陣じゃ、最後まで発動したって僕は死ねないでしょ! お前たちがそう書き換えて渡してきたくせに!」
「ああ、そうだ。でも国の判断じゃないぞ。マギーちゃんの願いでな。書き換えたのは、俺の独断だ。はは、これ秘密な」
「…………え?」
アレク少年が息をのんで、言葉を失う。
「マギーちゃんに相談された。魔法陣を清書したくない。発動したらあの子が死んじゃうから、って。でも、自分の力を捨てるのが彼の願いなら、せめて、命に差し障らないくらいの一部を切り取る魔法陣に改訂できないか。受け取った相手も助かる程度に力を加減できる方法がないか。ってな」
腕を吊し上げられた姿勢のまま、少年がぴたりと動きを止めた。フロアの奥の壁にもたれたまま動けない私を見た。大きな目がこぼれ落ちそうだ。
「それでフィリアスが、めちゃくちゃ気合いを入れて改訂版の魔法陣を捻り出した。マギーちゃんはそれを清書した。それでも、今日、お前が改訂版で命を繋ぐのか、それとも元の完全版を無理やり発動させて即死するのか。お前の意志に任せたつもりだせ?」
ハーフォードさんは言いながら、よいしょっと楽しそうにつかんだ少年の腕を振ってみせる。
「正直こうやって元気にもがいてくれて、ほっとしてるけどな。ほら、もっと暴れなくていいのか?気が済むまで付き合うぜ?」
「……なんで」
こちらを凝視したままの少年の口から、ぽろり、と疑問が転がり落ちた。私はくちびるを噛み締めてから、血の気をなくしたその顔に笑いかける。お腹の底から呼びかけた。
「その魔法陣が入っていた封筒の裏側に、小さく文字が書いてあったの、気づいた?」
「…………リュッケ・ティル・イナーレン」
そう、その言葉。少年が気に入っていたルノル語のエッセイの結びの一文を、私はあのとき選びたかった。
丁寧に時間をかけて、飾り気のない文字でゆっくりと記して、渡した。
初めての息子が生まれた日、灯台守が日記に書き込んだ言葉だ。
リュッケ・ティル・イナーレン。
——君の未来に、幸福あれ。
「…………馬鹿みたい」
少年は、微かに震える声で言い捨てて、そっぽを向いた。ハーフォードさんからも、ぽろぽろと不安定に崩れ落ちていく真紅の魔法陣からも。
「でも、そのマギーちゃんの魔法陣を使ったってことは、お前だって、まんざらじゃねぇんだろ?」
ハーフォードさんは、お構いなしに空いている方の手で、ぐりぐりと少年の頭を乱暴にかき混ぜる。
「そういやさ、お前の昔の部屋を見たよ。帆船の模型、よくできてた。もう乗ったか?」
「…………」
「自動車は? 列車は? 自転車は?」
「…………乗って、ない」
「乗りたいか?」
「………………まあね」
「そうか。じゃあ、生きとけよ」
もう一度、白銀の頭をぐしゃっと撫でて、ハーフォードさんはとてもやさしい顔をした。




