(15-4)マギーは、選ぶ
「それで、これがマギーちゃんが描き起こした魔法陣か? ……ははっ」
ハーフォードさんは、手にした紙を見た瞬間に破顔した。
「今はまだ下書きの段階です。清書するなら字のバランスなど、もっと整えたいです」
「ははっ。これで下書き。とんでもねぇな!」
笑いの衝動を抑え込むように言葉をこぼしながら、その目は忙しなく、魔法陣に描かれた文字を追っている。とんとんっと陣の一部を指で叩いて、ちらりと私に視線が飛んでくる。
「マギーちゃん、あのさ、このホーラン文字、知ってて描いた?」
「ホーラン文字って言うんですかそれ? 魔術文字ですか? どこに行ったら勉強できます? 参考にできる本とかありますか?? あ、そういえば………本」
私は瞬きする。その見知らぬはずの文字を描き出しながら、なぜかわずかに既視感があったのだ。ジュール文字に少し似ているからだけではなく……私は最近、この文字を別のどこかで見たことがある。
脳裏に、本の背表紙がよぎった。
——そうだ。父がフィリアスさんにお土産で渡していた本だ。
アンブルストンの実家から帰るとき、父は3冊の本をフィリアスさんに差し出した。持ち運びやすいように十字のブックバンドできっちり束ねてあって、一番上にあったのは、ふたりが居間で最初に熱心に読んでいた本だった。丁重に礼を言ったフィリアスさんが本を小脇に抱えた瞬間に、2冊目の背表紙がチラリと見えた。
——そうだ。あの本の背に刻まれていた文字だ。
この魔法陣と、そっと隠すように渡されていたあの本と、父。
もしかして、何か関係があるんだろうか。
父に読めない本はない。というより、読めない文字の本があろうものなら、研究に没頭して、いつの間にか読めるようになっている。あのホーラン文字が書かれた本だって、読んでいないはずがないのだ。
ソファーの隣に座るフィリアスさんを見上げる。アイスブルーの瞳が、静かに見返した。そこに、迷いの色はない。
この顔は、きっと、私のとまどいの理由に気づいている。それでいて、何も話す気はないのだろう。
フィリアスさんの態度はいつでも率直で、誠実だ。アレクとシュネーの話の時には、私を傷つけることを恐れて、あんなに苦悩しながら伝えようとしてくれた。その彼が口をつぐむことを選ぶような話ならば、私は聞かない方がいい。
だから、私は小さく笑って、別のことを言った。
「そういえば、以前、ジュール紋が書かれていた『古ガーラー記』が禁書だったな、と思って。ジュール文字はかろうじて一般書も何冊かあるけれど、ホーラン文字の本って、これまで見たことがなくて。もしかして、禁書じゃないと勉強できないんでしょうか」
ハーフォードさんは、私の顔を見ながらなぜかニヤリと笑って、フィリアスさんに目を滑らせる。
「あー、マギーちゃん、そこで目を輝かしてぐいぐい行っちゃう感じね。いっそ研究者に転向しちゃうか? 魔術文字の分野だったら、今の第2魔術師団より第3の方が専門的に取り組んでてオススメだぜ。移籍すれば思うぞんぶん……って、はーい、フィー、そこで俺をにらむなー、目線だけで射殺そうとしてくんなー」
フィリアスさんの不機嫌をニヤニヤと受け流しながら、ハーフォードさんは応接セットのソファーにもたれかかり、長い足を窮屈そうに組んだ。
内緒話をするにはここが一番安全だろう、と言うことで、今夜ははるばるヴェルナン高原の家に来てくれている。
一呼吸おいて、言葉を選びながら、ハーフォードさんはゆっくり話し出した。
「ホーラン文字は、ジュール文字より前に使われていた原始の魔術語で、今はいわば……禁じられた言葉だ」
「禁じられた言葉……? 禁書レベルではなく、言葉自体が隠されているってことですか?! 何そのロマン、好き!」
「いやいやマギーちゃん、まさかの禁忌文字でうっとりしないでー。って、フィーは文字相手にイラつくな。紙を威嚇すんな。ははっ、愉快だなぁお前たち」
ハーフォードさんが、完全に面白いおもちゃを見ている顔になっている。
でも、だって、禁じられた言語とか、封じられた古文書とか、好奇心が刺激されないはずがない。できるものなら、どんな人々が使っていた言語なのか、禁じられた理由や時代背景を知りたいし、どんなことが書いてあるのか読んでみたい。秘められた大昔の人々の意志を、時空を超えて目の前で感じられるなんて。そんなの、文字だからこその醍醐味でしょう?
ハーフォードさんは、ニヤニヤを引っ込めてから、続きを口にする。
「ホーラン文字の時代、魔術師はなんというか……好奇心と欲望に素直でさ。自分のやりたいことは、なんでも実行していた形跡がある。今では禁忌とされていること、例えば——相手の魔力や魔術の能力を、強制的に切り離して自分に移植する、とか」
そのまなざしが、手にした魔法陣に戻る。
とたんに未知の文字への興奮から醒めた私は、小さくうなずいた。
「フィリアスさんから……教えてもらいました。この魔法陣は、力の移植のためのもの、だって」
初めて教えてもらった瞬間、ぞっとして耳を疑った。魔力のある人は、その力を生かした職につく人が多い。なのに能力を無理やり取りあげてしまったら……。
それに、うっかり想像してしまう。
もし、私から、ペンと文字の記憶を取りあげられてしまったら。二度と読めず、書けなくなったら。一体、何が残るんだろう。ほんの少しだけ、アレクについての記憶が取りあげられただけでも、自分が自分でなくなってしまったみたいで、あんなに怖かったのに。
ふるり、と震えかけた肩を、フィリアスさんがそっと腕を回して支えてくれる。くっついた体があたたかくて、少し気持ちが和らいだ。
ハーフォードさんの手が、魔法陣の紙を、ぽいっと机の上に無造作に放り出す。
「これな。大昔に、罪を犯した魔術師に対して、処罰のために使われていたらしい。けど、俺なら絶対に使いたくねぇな。力を奪われた側はもちろんだが、力を手に入れる側の方もダメージがでかいし、リスクも大きい。例えば、」
言いながら、ポンと引き締まったお腹を叩いてみせる。
「胃袋ってさ。だいたい食える量って決まってるだろ。それに、体質に合わないものを無理に食べると、じんましんを起こしたり、呼吸困難になったり、下手するとショック症状で死ぬ。魔術師の魔力や能力も同じようなもんでさ。人によって、許容量や許容内容が決まってる。そうだな、このこぶしひとつを、魔力の容れ物だとする」
かたい握りこぶしが突き出される。
「魔力容量がこれくらい小さくて、水の魔術しか使えない人間に、満腹以上の魔力をいきなり詰め込んで、火の能力を押し付けたら……体が対処できず、弾き返すように拒絶反応が起こる。魔力を制御できなくて、死ぬほど苦しくなって、」
言いながら、じわじわとこぶしが解けて指が広がって——最後にパン、っと弾けて開いた。
「最悪、死ぬ。だから何度か力を小分けにして、体を慣らしながら移すのがいい。やりたくねぇけどな」
私は息を殺して、開き切ったハーフォードさんの大きな手を見る。
どうして、あのアレク少年は、これを私に清書させようとしたのだろう。誰かの能力を奪うため? でも、すでに卓越した魔術の才能を持っているのに……?
「マギーちゃんがあの魔術師に告げられたことは、俺たちの調査内容と一致している。このタイミングでマギーちゃんに話しに来るとか、嫌がらせとしか思えねぇけどな。カンティフラスの魔術師たちがさんざん走り回って調べたこと、合ってましたよー、自分ならこんな短時間で話せちゃう内容だけどねー、って言われているような感じだ。ほんと、クソガキめ」
苦笑いをするハーフォードさんを見つめる。伝えたいことを、心の中で整理する。
私は昨晩、予告どおり、うんと泣いた。目が完全に腫れ上がって、フィリアスさんに治癒魔法をかけてもらうまで。それでもまだ、気を抜くと……鼻の奥がツンとする。涙が出てくる一歩手前で、ぐっとお腹に力を入れた。
「ずっと考えてたんです。私が、これを、描いてほしいと頼まれた意味。こんな、残酷なもの」
「ああ、それは……。清書、描きたくないか?」
ハーフォードさんは眉を下げ、ガリガリと頭をかく。
「うーん、あのな、言いづらいんだけどな。あの白銀の小僧、やりたいようにやらせておけって、上からお達しが降りてきてるんだ。ああ、俺の意志じゃないぞ。残念ながら、政治的な理由だ」
魔術師団は、防衛省に所属する部署だ。かなり独立した運営を任されているし、魔術師団長は現場の最高責任者で、大臣や官僚に対しての発言力も強いと聞く。でも、完全に政治と無関係なわけじゃない。
「やりたいように……? でも、これって、相手の魔力を、根こそぎ奪ってしまう魔法陣なんですよね。 それで魔力が無くなってしまった人は、どうなるの……?」
口にしながら恐ろしくなって、すがるように隣のフィリアスさんを見上げてしまう。肩を抱く力が少し強くなって、ゆっくりとフィリアスさんが口を開いた。
「その人間による。魔力量が元々少ない人間は、ダメージが比較的少ない。苦しみはするが、その後は普通の人間になるだけで済む。ハーフォードや俺みたいに膨大な量を持ってるやつは、魔力が体の隅々の生命維持に直結してるから、いきなり心臓がむしり取られるようなものだ。……反撃せずにそのまま受け入れたら、死ぬ確率が高い」
薄々想像していた答えが返ってくる。その重さに、私は目を伏せる。気持ちに寄り添うようにやさしく肩を撫でてくれたフィリアスさんの、そっと気遣う声が降ってくる。
「君が、写したくなければ、それでもいい。俺たちが、これを見なかったことにすればいいだけだ。君は、夢なんか見なかった。それだけだ」
完全に、魔術師団長としてではなく、フィリアスさんとしての言葉だった。ハーフォードさんも、何も言わない。きっと今、私が描きたくないと言ったら、彼らはそれを受け入れてくれる。
私は……私はどうしたいのだろう。何を選べばいいのだろう。
アレク少年は、これ以上、力が欲しいのだろうか。でも、腑に落ちない。きっと彼は、ハーフォードさんやフィリアスさんに引けを取らない力をすでに持っている。
そして、思う。
——むしろ、この魔法陣を本来とは逆の効果で発動させたくて、私に描かせようとしていたら……?
誰かから力を奪うのではなく。
あの子の膨大すぎる魔力を、すべて、自ら根こそぎ引っこ抜いて、誰かにぶつけたいのだとしたら。
ぶつけられた方は、きっと、ひとたまりもない。そして、アレク少年自身だって、きっと、無事ではいられない。
あの魔術師の少年が、命をかけて、それをする意味は……。
目を閉じて、犬のアレクを思った。父を、兄を、フィリアスさんを思う。
自分の大事な人が、もし、理不尽な理由で、目の前で殺されたら。私はどうするだろう。想像するだけでも、こんなに胸の奥が痛むのに。
でも。それでも。
深く息を吐く。姿勢を正す。頭を上げろ。うつむくな。今、私がすべきこと、自分が望んでいることは何かを考えろ。
そして目を開ける。答えは、一つだった。
「もし、私が、この魔法陣を清書するのであれば……ハーフォードさんとフィリアスさんに、ご相談があります」
そこからの3週間は、もはやちょっと笑ってしまうくらい、仕事が大変だった。
大園遊会がらみの筆耕業務が次から次へとやってくる。
筆耕科では、サティ先輩も私も抜けてしまったのがやはり痛手になっていて、オフィスに行くたびに先輩たちの顔がげっそりと青ざめている。
できる限りの仕事を預かって、魔術科の仕事の合間にせっせと書きまくる。正直、魔術科に行ってから仕事量が減っていたのが気になっていたので、もりもりやることが増えて満足感はある。けれど、それにしたって、マルタ帝国からの追加案件が多すぎる。
清書しなくてはいけない中に、マルタ皇弟が観劇前に立ち寄る予定のレストランの歴史やらメニューやらまで含まれていて、さすがに一度ペンを机に投げ出して、深いため息をついてしまった。ここまで親切に翻訳を準備してあげなくてもいいのでは?
この大陸の公用語は、マルタ帝国語とカンティフラス語だ。カンティフラスの学校に通った人なら、片言でもマルタ帝国語を読み書きできる知識を身につける。マルタ帝国でも、身分が高くなればなるほど、カンティフラス語がきちんと使えるように教育を受けるはずだ。
なのにどうやら今回の賓客は、カンティフラス語が使えない人が多いらしい。重要な外交の場でもあるはずなのに、どんな人たちがくるのやら……深く考えないことにして、とにかく書く。書いて書いて書く。
夕方、まもなく業務終了の時刻。清書の入った大きな紙封筒を大事に抱えて、筆耕科に運んでいる時だった。廊下の角を曲がったとたん、
「マギーさん、それ、重そうですね。お持ちします」
硬い張りのある声とともに、いきなり手の中の封筒を取り上げられる。
近衛隊の華やかな飾りのついた軍服が目に入って、視線を上げる。
やはり、ロック少尉だった。いつものようにきっちりと短い黒髪を整えていて——しかし、その目がいたずらを企む子どものようにニヤニヤと笑っている。
「……アレク?」
小声で問いかける。にっこりと、目の前の顔が少年のように笑った。
「そう。よくわかったね」
「だって、ロック少尉本人の時と、表情が全然違うし……ロック少尉は無事なの?」
「今は自分の体の中でぐっすり眠ってる。こいつさ、軍人のくせに、隙だらけなんだよね。しょっちゅうマーガレットさんのことを考えてるし、どうやったら番犬くんじゃなくて自分のところに来てくれるかって悩んだ挙句、めちゃくちゃ無心で筋トレしてるし。おかげさまで中に入り込み放題! いっそこいつも飼ってやったらいいのに。いいんじゃない、2匹くらい一緒に飼っても」
「いやいやいやいや、間に合ってます。それに、一緒にいるなら、筋肉よりレット語がわかる人がいい」
ぽろりと本音が漏れてしまう。いやまぁ、フィリアスさん、確かにほっそほそ体型で、ちょっと心配になっちゃうくらい筋肉が足りてない気はするんだけど。
先日の野バラの丘のお散歩だって、たった2時間歩いただけなのに、最後の方は足元にこっそり風魔法を使って、ズルして楽して歩いていた気がする。そうだ、フィーさんこそ足りないのは筋トレだ。今度一緒に長生きできる健康運動を考えよう。
私から取り上げた紙袋を抱えなおして、目の前のロック少尉の顔が不思議そうに「うーん」とうなる。
「レット語なんて、簡単じゃない? 魔術語って7系統しかないし、いま大陸で話されているすべての言葉はそこから生まれていろんな形になってるだけからさ。魔術を極めたい魔術師だったら、たいていの言語はわかるでしょ。僕だってレット語くらいわかるもん。あ、だから僕を飼ってくれてもいいよ! ほんとは自分でマーガレットさんを攫って飼いたかったんだけど、まぁ、どっちでもいいや。いま、13歳だからさ。あと5年もしたら、結構かっこよくなると思うんだよね。どう?」
「どうと言われましても。それより、これを取りにきたんでしょ」
ぐいぐいと近づいてくる顔を避けて、筆耕道具を入れたいつものポーチの中から、一つの封筒を取り出した。きっちり封をしてある。
少し驚いたように受け取り、中を確かめることなくポケットに突っ込んで、ロック少尉の皮をかぶったアレク少年は首を傾げる。
「どうして、これ、清書を渡してくれる気になったの? てっきり断られるかと思ってた」
「ハーフォードさんの判断で」
渡した封筒の中には、幾重にも折りたたんだ紙が入っている。そこには魔法陣が一つ、描いてある。——ホーラン文字の複雑な、例の魔法陣。
「それから伝言。ハーフォードさんも、フィリアスさんも、それからカンティフラスの人間すべて、この魔法陣を跳ね返すように対処しておく、って」
「……ああ。あの番犬くんのお兄さんか。あはは。見透かされてるわけね。さすが」
皮肉な笑みが、その口元に浮かぶ。
「あの銀の短髪のお兄さん。昔、僕の母親をマルタ帝国の牢獄から救い出したらしいんだよね。あんな人が父親だったら、自分の人生、もっと違うものだったんだろうな、って、思うことがあるよ」
「……うちのアレクはね。すっごく男前で、すっごく頼りになって、すっごくあたたかくって、すっごく優しかったよ。私の自慢の家族だった」
私は背筋を伸ばして、しっかりと目の前の人を見据えて、はっきりと言い切った。それから、腕を伸ばして紙袋を取り返す。
「……へぇ」
温度のわからない乾いた声が返ってくる。そして、ロック少尉はくるりと背を向けた。
「じゃぁね。次にマーガレットさんに会うのは、きっと大園遊会のあたりだね」
肩越しに言葉だけを残して、顔を見せずに去っていく。
ほんの少しだけでも、伝わっただろうか、私の想い。アレクに寄せる強い信頼と、ともにいられた時間を心から誇りに思う気持ち。
——でも、それは、あの少年にとって、ただ邪魔なだけのものかもしれない。
私はひとつ大きなため息をついて、そして、筆耕科に向かって歩きだした。
どうしても前後編に切れなくて、1回分が長くなりました……!お付き合いいただいてありがとうございます。
そして、大変申し訳ないのですが、次回の更新、来週月曜ごろになるかと思います(できればもう少し早く更新再開できれば!と思いつつ)。
引き続き、お楽しみいただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。




