(15-2)アレクの夢②
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マルタ帝国で何もかもが嫌になったアレクは、カンティフラス王国の姉夫婦のもとで、犬のアレクとして暮らし始めた。
そこでも決して平穏な日々ばかりではなかった。大切な姉を流行り病で亡くし、義兄も自分も失意のどん底で身動きが取れなくなった。
だが、そこに飛び込んできたお隣の家の幼い兄妹が、すべてを変えてしまった。
小さな小さな妹のマギーは、犬のふかふかのお腹が特にお気に入りだった。お腹にぴったりくっつきながら、大好きな本をアレクに読み聞かせ、そのまま毛皮に包まれて、幸せそうに寝落ちする。最初は薄い絵本だったのが、どんどん厚くなり、やがて冒険小説がメインになっていく。
兄のテンスは、アレクの散歩係になった。毎朝毎夕かかさず歩いて、走って。道々、いろんなことを彼はアレクに話した。たぶん義父にも妹にも言えないことを。学校の出来事、面白かった本のこと、前は軍人に憧れていたこと。両親の料理の味が恋しくて、隠れて泣いてしまうこと。そしていつか、食事も楽しめるブックカフェをやってみたいと思うようになったこと。
かわいいテンスとマギーに毎日寄り添い、成長を見守るうちに月日は過ぎる。
子どもたちを守って過ごした健やかな4年間が、アレクの心に深く刺さった絶望と人間不信の棘を溶かし、膿んだ傷口をすっかり癒してくれていた。
そして、義兄と子どもたちの絆がしっかり結ばれて、本当の家族にしか見えなくなったころ。
義兄のもとに一通の手紙が届く。アンデラ国の田舎町で一人暮らしをしていたアレクの母親からで、病に倒れて養生中だと書かれていた。アレクの他に、母に身寄りはない。
母を案じた彼は、とうとう、ひっそりとアンデラに帰る覚悟を固めた。
子どもたちの寝顔をたっぷり眺めてから、アレクは義兄に惜しまれ見送られ、故郷に舞い戻った。
人間に戻り、魔術で外見をすっかり変えて、遠い親戚のようなふりをして。
母親にはあっという間に見破られて、喜びのあまりに咽び泣きされた。けれど、他の人間にはまったく気付かれなかった。
それもそのはず。16歳で家を離れた痩せっぽっちの少年は、今や26歳のたくましい青年になっていたのだ。
アレクは、近所の農家の手伝いをして日銭を稼ぎながら、体が不自由になった母の看病をすることにした。
仕事には、野菜の配達も含まれていた。週に2回、山間の小さな家に、いくばくかの野菜を届けにいく。
初めてその家に配達に行ったとき。
裏手から白い煙が流れてきて、何かが燃えるにおいがした。アレクは、とっさに火元と思われる方に走った。
——そして、出会ってしまった。
枯葉の小山があって、あちこちからオレンジ色の炎がささやかに揺れている。その前でしゃがんでいる人がひとり。
ぎこちない口笛がぴたりと止んで、焦茶色の髪を束ねた女の子がこちらを振り返って、固まった。
年のころは、せいぜい20歳といったところだろうか。身をこわばらせて、見知らぬ侵入者を見つめている。
抜けるような白い肌が、どきりとするほど目を惹いた。アレクは一瞬、惚けてから、我に返って慌てた。
「ご、めん。火事、かと」
とっさのことで、言葉が出てこない。どうにか絞り出したら片言になってしまい、これではますます不審者のようだ。
「あ……いま…芋を、焼いてて……芋が、好き、で……」
しどろもどろに小さくつぶやきながら、どんどん体を縮こめる女の子が、凶悪なまでにかわいく見えて、アレクはまた、小さく惚けた。
「あ、芋、いいね。芋。芋いいよね。芋、おいしいよね、芋」
とっさに口走って、自分を殴りたくなる。何を芋芋言ってるんだ。でも、女の子はうつむきながら、小さくうなずいた。
「芋、おいしい」
「うん、芋、おいしいね。芋、芋だね、やっぱり、芋」
何がやっぱりなのか、自分でもさっぱりわからない。とにかく女の子の前で舞い上がって、たぶん20回以上は芋芋芋と連呼して、アレクは家にたどり着いてぼうぜんとした。
今日の自分の心理がちっともわからない。
とにかくわかるのは、自分はさっきまで芋に取り憑かれていて、今はあの女の子の面影に取り憑かれているということだ。目をつぶっていようが、開いていようが、彼女のはにかんだ顔がちらついて離れない。
2回目の配達の時も、やはり彼女は裏庭にいて、やはり芋を焼いていた。
「あの、これ、芋」
やはりアレクは緊張のあまり片言になりながら、持参したものを差し出した。
女の子は、小首をかしげて、アレクを見る。
「芋?」
「そう、芋飴」
「いもあめ?」
女の子の茶色の目がわずかに輝いて、それだけでアレクは、天に昇るような心地になった。そして、どうしてたったの1袋しか持ってこなかったのか、頭をかきむしりたくなった。
「芋をつぶして、水飴で練ってあるんだ」
「それで、いもあめ」
「そう、芋飴」
ちょっと微笑んで、女の子は受け取った。代わりに、焼きたての芋をくれて、ふたりで無言で食べた。家に帰ったアレクの頭に、芋をむく女の子の白くて細い指が、すっかり焼き付いてしまった。
そんな具合で、しばらく芋以外の会話はなく。
毎回、アレクは芋のお菓子を持っていき、毎回、ふたりで焼き芋を食べる。
そうして、どんどんアレクの頭に女の子の姿が焼き付いて、もう完全に引き剥がせなくなった頃。
「いつもありがとう、芋のお兄さん」
女の子はすっかり打ち解けた笑顔で、アレクの持ってきた芋の揚げ菓子を受け取った。その笑顔にたまらない気持ちになって、とうとう、アレクは言った。
「俺は……俺の名前は、アレク。……君は?」
本当は、町では別の名前を名乗っていた。それでも、彼女に偽らない自分を、名前だけでも知ってほしかった。
彼女の腕に、腕輪があることには、早いうちから気づいていた。
それが、おそらく魔力封じの魔導具であることも。
この子は、おそらく、自分と同じだ。
強い魔力があることを隠して、本当の姿を隠して、別の色と形をまとって、ここにいる。
それでもよかった。
どんな姿をしていても、この子はきっと芋が好きで、少し陰のある笑顔を浮かべながら芋を焼いていて、そんな彼女に自分はどうしようもなく惹かれている。
「私は……私の名前は、シュネー」
彼女は同居している女性から、別の名前で呼ばれていることを、アレクは知っていた。でも、だからこそ、これがきっと彼女の本当の名前。
「シュネー……『雪』。すてきな名前だ。君にぴったりだ」
「……父さんに、つけてもらった名前」
言いながら、シュネーの透き通った白い肌が、じわじわと赤くなっていく。
その赤さが、なぜかアレクにも飛び火した。ふたりはしまいに真っ赤になって、立ち尽くす。
そのまま無言で焼き芋を半分こして食べて、翌日から、アレクは毎日シュネーのところに通うようになった。
毎日、木箱をふたつ、椅子がわりに並べて、座って芋を食べる。
最初は、人ひとり分ほど開いていた木箱の距離は、次第に近くなった。
とうとうふたつの箱をぴったりくっつけて並べるようになって、ふたりの肩がぴったりくっつくくらいに寄り添って座るようになった頃。
アレクは、彼女の目の前で、自分の変身魔術を、ゆっくりと解いてみせた。
彼の灰褐色の髪を見ても驚くそぶりを見せないシュネーに、アレクは、やっぱり、と思う。
やっぱり、自分たちは、よく似ている。
「結婚しないか」
気づいたら、そう、口走っていた。口にしたとたん、想いが吹き出して、止まらなくなる。
「本当の俺は、どこにも居場所がない。君も、もしかしたら同じかもしれない。明日、何が起こるかもわからない。いつ追っ手がかかるかもしれない。でも、だからこそ、今日を大事にしたい。シュネーとともにいる今日を、一日一日を、大事にしたい。君が……君のことが、本当に、毎日、愛おしくて、どうしようもなくて、もう、耐えきれない。結婚しよう」
シュネーは目を見張った。じわりとその目が潤む。そして、腕輪に封じられている魔力をほんの少しだけ引き出して、ふわりと自分にかけた。
「……ああ」
アレクは、見惚れて、言葉を失った。
目の前で、変身を解いたシュネーの髪は、それまでの焦茶色から本当の色に戻っていて、
「白銀の雪だ……誰にも踏み荒らされない、気高い、雪。ああ……本当にきれいだ」
うっとりとつぶやいたアレクを見つめて、シュネーはくちびるを震わせて、ぽろりと涙をこぼした。
その美しさを、その愛おしさを、アレクは、生涯死ぬまで忘れることはないだろう。いや、死んでも絶対に、永遠に覚えていたい。
そして、それはその通りになった。
*****
「これがおとぎ話だったらいいのにね」
くすくすと、白銀の魔術師の少年は笑った。
「そしたら、ふたりは結婚して末長く幸せに暮らしました、めでたしめでたし、って終われたのに。でも現実のシュネーは、長い間、過度に魔力を使いすぎて体がボロボロだった。それで子どもを産んで、すぐ死んだ。産まなかったら、もう少し長く生きられたのに」
まるで他人事のように、あっけらかんと口にする。
「生まれた子どもは、2年も経たないうちに誘拐された。それで僕は、マルタ帝国の奥深くに隠されて、暗殺専門の魔術師になった。子どもを奪われたアレクは、皇帝打倒の地下運動に加わって、やがてリーダー格のひとりになって。それで僕に、暗殺の命令がきた。遠隔で心に入り込む精神攻撃が得意だから。今、マーガレットさんの夢に勝手に入り込んでるみたいにね!」
両手を広げて、無邪気に微笑んでみせる。
「遠くから探っても、すぐに気づいた。アレクの魔力は、僕と似た気配がする。自分に父親がいるなんて考えたこともなかったけど、きっとそうだなと思って。面白くなって直接会いにいったんだ。それまで特に外に行く理由もなかったから、脱走したことがなかったんだよね。初めての遠足、楽しかったな!」
カンティフラス王国の方がごはんがおいしいんだよね!と言いながら、私から目を離し、遠い空に目をやる。
その口から、あはは、と小さく乾いた笑いが漏れた。
「着いた時には、アレクはカンティフラスの宿で、血を吐いて死んでた。毒を盛られたんだ。鼻と口の形が自分と似てて、不思議だったな。僕は、アレクの名前をもらうことにした。元々、呼び名がなかったから、ちょうどいいかなと思ってさ。そのままマルタ帝国の自分の部屋に戻るのも面倒くさくなって、ふらついているうちに今に至るってわけ」
少年は淡々と口にして、まるでなんでもないことのように、からりと私に微笑みかける。
——なんでもないわけがない。なんでもなかったら、彼は今、ここにこうしているはずがない。
頭の中を、さまざまな感情が駆け巡って、絡まって、結局、何一つ形を結ばない。胸が痛くて苦しくて、ぼうぜんとしながら、それでもどうしても聞きたいことがあった。
「……どうしてそれを今、私に聞かせたの?」
「うーん。アレクの日記に、マーガレットさんのことが書いてあったから?かな?」
あっけらかんと、首を傾げながら言う。
「アレクは最後、机に突っ伏してたんだ。体の下に庇うみたいに分厚い日記帳があって、最後のページに震える字で書いてあった。『やっとシュネーに会える』って。執着?執念?びっくりしちゃった。僕が生まれた日にもね、いろいろ書いてた。『この子が大きくなったら、テンスとマギーにも会わせたい。あの子たちみたいな健やかでいい子に育ちますように』って。写真も挟んであったんだ。大きな犬と、その首にしがみつく小さな女の子の写真。だからマーガレットさんたちを見にいった。6年前かな」
「……私が14歳……学院生のころ?」
「そう、マーガレットさん、魔法陣を描きまくってた。どんどん描くのが上手くなるし、この人は魔力も持ってないのに一体何を目指してるんだろう?!って、意味不明すぎて。隠蔽魔術で姿を消して時々見にいってた。ずっと」
「……それは…お騒がせしてすみません……」
「あとは、そうだな。今、わざわざいろいろ話したのは、マーガレットさんに同情してほしかったから?」
言いながら、パチリと指を鳴らす。1枚の紙が現れる。
「それにつけ込んで、これを清書してもらいたいなと思って」
「……魔法陣?」
手渡された紙に、目を走らせた。
見たことのない陣だった。読み取れる文字が8割くらいで、残りの2割は得体がしれない。一見、ジュール語に近い言葉に思えるけれど、私の知らない文字だった。悔しい気持ちが湧いて出て、とにかく形を頭の中に叩き込む。わかる部分を繋げて意味をたどっていく。
「誰かの大事なものを……どこか別のところに移動させる術……?」
「そうそう。すごいね。わかるんだ」
にこにこしながらうなずいて、急に不機嫌な顔になって大きなため息をつく。
「マーガレットさん、いま、この魔法陣を写すなら番犬くんに相談してからじゃないと、って思ったでしょ?」
そのとおりすぎて、目が泳いでしまう。
私が描き写した魔法陣は、普通のものより威力が増してしまう。使い方によっては、魔法陣の本来の効果と逆の効果を引き起こしてしまう可能性すらある。こんなに正体の分からない陣、フィリアスさんに相談してからじゃないと、絶対に清書しちゃいけないものだ。
「あーあぁ。だからさぁ、マーガレットさんの番犬くん、イヤなんだよね。最近ぬぼーっといきなり現れたくせして、いつでも守りますみたいな忠犬ヅラしちゃってさぁ。ほんと腹立つ。僕の方がずっと前から見てたのに、横からかっさらってさぁ」
トゲトゲとした口調で吐き捨てて、
「今だって、ほら」
腕を伸ばし、空の果てを指さす。
私は息をのんだ。空の向こうが——ぽっかり白い。じわじわと白い領域が広がっていく。
「僕がマーガレットさんの夢に入り込んでるって気づいたみたい。でも番犬くんはブロックされて入り込めないから、外から夢を強制的に終わらせようとしてる。彼、どうせ精神攻撃系の魔術なんてやったことないんでしょ。人間に興味なさそうだったし」
雲が、海が、太陽が、次々と白の世界にのみこまれていく。白すぎて、目が痛い。
「あぁあぁ、せっかくの景色なのに消しちゃうなんて無粋すぎ。慣れないならやめとけばいいのに。どうせ夢なんて、いつかは醒めるんだからさぁ。でもまぁいいや。顔合わせるのも面倒だから今日は帰るよ。じゃあね、マーガレットさん。またね」
ひらひらと手を振って、小柄な体がすばやくかき消える。
世界がどんどん白くなる。目を開けていられなくなる。まぶたの裏まで、真っ白だ。
不快な感じはしない。純白な世界。フィリアスさんらしい、私を絶対に傷つけない、きれいな魔法。
私はもうすぐ目覚めるのかな。
起きたら、フィリアスさんが、いてくれたらいいな。
思いっきり……泣きたい気分だ。




