(2−1)マギーと魔法陣
「これが魔法陣ノートの残りです」
食後のお茶が載った食卓に、私は2冊を並べた。テンス兄さんとアンナさんは、連れ立って下階の台所で食器を洗ってくれている。
学院時代の5年間で書き溜めたノートだ。ひさびさに引っ張り出してきた。使い込まれた革の表紙を見ていると、当時の記憶が蘇ってきて、懐かしい気持ちになる。いや、その半分くらいはひたすら何かを食べているサークルの思い出だな。
ノートには、難易度にかかわらず、興味を引かれたところから片っ端に、いろいろな種類の魔法陣を模写してある。
魔法陣は、魔法語とそれをつなぐ魔法線とで複雑に構成されている。描き順も重要で、ひとつでも順番を間違えると、正しく機能しない。上級の陣になるほど文字の細かな書き込みがふえ、秩序あるアートのような美しさがあった。
魔術師のランクが高いほど、複雑な魔法陣を紙に描かずに、一瞬で空中に創り出せる。
フィリアス・テナント特級魔術師閣下であれば、このノートに書かれている魔法陣くらい、一度でいくつも発動できるはず。もしかしたら、一気にすべて創出できてしまうかもしれない。
学院生が学べる範囲なので、特別に珍しい陣が描かれているわけでもない。なぜ、わざわざ閣下が家までこのノートを見に来ているのか、理由がまったくわからなかった。
閣下は静かにページをめくっていく。そして、あるところでぴたりと指を止めた。
「今、これを描けるか」
光の魔法陣だ。初級。周囲を照らす光の球を発現できる。暗いところで手元に灯りを持っていないときに便利な魔術だ。
「描けます。今、紙とペンを、」
「ここにある」
持ってきますね、と言う前に、ふわりと数枚の紙とペンが目の前に現れた。閣下、今、詠唱もフィンガースナップも使わずに、無言でしれっと魔術を発動させましたよね?
初めて見た横紙破りな術の使い方に、私はまた「んふふっ」と笑いが込み上げてくる。湧き上がってくるものを押さえたくて、ちょっと体を丸めて口を押さえ、笑いを噛み殺しながら閣下を見た。
「閣下、何でも出しちゃいますね」
返事が返ってくるとは思わないので、私はそのままペンを手に取った。すごく軽い。中にインクが充填されているタイプの形をしているのに。こんな軽いペンを持ったことがなかった。
1枚目の紙に、試しにペン先を走らせてみる。カリグラフィー、いわゆる装飾文字で閣下の名前を書いてみた。
姿勢の良い閣下の姿をモチーフに、文字全体には傾きを入れず、バランスよく端正に一文字ずつしっかり見せる。一方で、文字のはしばしに優美な渦巻きの遊びを入れつつ書いていく。
するするとブルーブラックのインクが走っていくのが快適で、この上なく書きやすかった。日頃の仕事ペンにしたいくらい。
ペンに問題ないことを確認し終えてから、2枚目に、リクエストされた魔法陣を書き込んだ。
学生時代、あの筆写ノートに清書するまでに、何度も何度も紙に書いて練習した。初級の魔法陣くらいなら、ノートを見直さなくても形を覚えている。
さっさと光球の魔法陣を描き終えると、閣下に手渡した。
「こちらでいかがですか」
閣下はじっと眺めてから、
「正しい」
とつぶやいた。紙の上に、流れるように右手を重ねる。
「魔力の流れに無駄がない」
ぼうっと、魔法陣が青みを帯びて光る。青は魔力の証だ。光っている。でも、そんなはずがない。私は息を止める。魔力なしの私が書いた魔法陣だ。魔術が発動されるはずがない。
「伝導効率が良い」
あっという間に部屋中に光があふれる。一瞬、目がくらんで何も見えなくなった。ぎゅっと目をつぶり、しばたたいているうちに、ようやく見えるようになる。
「なんで?」
思わず声が漏れた。
目の前に、やわらかに白く光る魔法の球があった。魔法陣を描いた紙は消えていた。
閣下の口角が軽くあがっている。満足げに見えた。
今まで何度も魔法陣を描いてきたけれど、発動したことなど一度もない。魔力のない人間が描いた陣は、単なる模写の域を出ないのだ。なのに、特級魔術師になると、そこから発動できるのだろうか。
閣下はペンを机の上から拾い上げると、あっさりと種明かしをした。
「このペンのインクは、俺の魔力でできている」
「……魔導具なんですね」
私は、その意味を噛み締める。
閣下の魔力がこもった魔導具のペン。それを使って魔力のない私が描いた魔法陣。そこに閣下の魔力を流し込む。特製のインクを伝って魔法陣が発動する。
原理はわかる。過去の実験例も知っている。知っているけれど、成功したなんて、聞いたことがない。
あぜんとしている私をしりめに、閣下は今度は、最初に試し書きした紙を持ち上げた。「フィリアス・テナント」という名前がカリグラフィーで書かれている紙だ。ますます口角が上がる。
「美しい」
微笑んだままの口元が、そっと紙に息を吹きかける。
ふわり、と文字が青みを帯びて、そして紙から浮かび上がった。閣下をイメージして書いた名前が、彼の手のひらに着地して、ふわふわと命を持ったように弾んでいる。
さらにもうひと息。ふうっと届いた空気の流れに乗った文字たちは、白い指先にじゃれつくように、くるりと手のまわりを一周してから、するり、と、ほどけた。
1文字ずつ広がって、漂って。
そして床にはらはらと落ちていく。
はかなく、まぼろしのような一瞬を、それを吸い込んだ木の床を、私はただひたすら、見ていた。
「あれ、マギー。閣下はもうお帰りになったの?」
そう兄に声をかけられるまで。
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