(13-2)マギー、再び会う
明日から週末の休み、というその日。何度も何度も振り返りながら、フィリアスさんは執務室を出ていった。そんなに何度もこちらを見たって、夜の会食は無くならないのに。
「迎えにいくから」
「はい、待ってます」
へにょりと眉をわずかに下げて、この世の終わりのような顔をしながら高級レストランに赴くフィリアスさんを、笑顔で手を振って見送る。
私はこれから、コールたちと林檎亭で飲む約束がある。フィリアスさんも予定が終わり次第、合流することになっていた。
正直、フィリアスさんが会食で何を話すのか、想像がつかない。そもそも会食が成り立つんだろうか……?
先日、心配になってハーフォードさんにこっそり聞いてみたら、苦笑いしながら教えてくれた。
「あー、あいつ、いつも通りほとんどしゃべらねぇよ。まぁ、たいてい同席した部下の奴らが会話を引き受けるし。先方としても、天下の魔術師団長と食事して、話を聞いてもらえたってだけでも、かなり満足するからな。そうだな、動物園の人気動物と一緒に食事してるみたいなもんだ」
人気動物と同じ……てことは、キリンさんかゾウさんかフィリアスさんか。それはかわいいな!
——最近、フィリアスさんに対する語彙が、「かわいい」以外になくなってきている気がするけれど、気づかなかったふりをする。だって、かわいいフィリアスさんが悪い。
執務室をささっと片付けて、施錠した。私がひとりで街に出るのはまだ危険だからということで、今日はコールに付き添ってもらってお店に行くことになっている。
でも、約束の時間まで、あと1時間以上あった。そういう時に私がいく場所は、もちろんひとつ。
王立図書館のエントランスをくぐり、受付カウンターの前を足どり軽く通り抜ける。アンナさんはまるまる1週間お休みをもらったそうで、今頃はまだうちの実家でのんびりしているはず。
閲覧室のいつもの席に座って、今日の気分で選んだ1冊を開いた。
筆写用のノートを広げて、意識をペンと書面に傾ける。静かに最初の一筆を記して、あとは夢中で写していった。今日は短いエッセイがたくさん収録されている本だ。
ひとまずお目当ての1話分を写して、すっかり満足しながらノートを見返す。あとでフィリアスさんに読んでもらおう。どんな顔をするかな。喜んでくれるかな。エッセイの残りの章は普通に読み進めて、興味の惹かれたところを写そうか。
そんなことをつらつらと考えながら、ふと顔を上げて——私は息を止めた。
向かいの席で、頬杖をついて、青年がこちらをじっと眺めている。近衛隊の軍服。こざっぱりと短く整えられた黒髪。
ロック少尉だった。
いつ座ったのか、まったく気づかなかった。目があったとたん、ロック少尉はにこりと笑った。
無邪気そうに。
この人のことはよく知らないけれど——こんなふうに笑う人だった?
「やあ、マーガレットさん。久しぶりだね!」
——こんなふうに、軽い口調で話す人だっただろうか?
重なっていく違和感と警戒心に体がこわばる。お構いなしにロック少尉は体を傾けて、私の手元の本をさっと取り上げた。
「へぇ、レット語のエッセイ。マーガレットさんはすごいなぁ。魔術語だけじゃなくて、いろんな言語がいけちゃうんだ。これ、面白そうだね?」
ぱらぱらとページをめくりながら、愉快そうに言う。
——この人は……誰。
ロック少尉は、レット語を読めなかった。なのに目の前の人は、やすやすと文字を目で追っていく。
「ああ、マーガレットさんが写していたのはここか。へぇ、ホタル。すごいね、いっせいに光るのか」
この上なく楽しそうに、顔を輝かして内容を読み解いている。
こういう表情をする人に、こういう話し方をする人に、私は最近、会ったことがある。でも。まさか。
「……あなたは、誰?」
「いやだなぁ、忘れちゃった?」
ぱちり、と、ロック少尉は指を鳴らした。まるで——まるで魔術師のように。
『またね。次は、アレクって呼んでね。いい名前でしょ』
とたんに耳元で最後にささやかれた声が、頭の中によみがえる。嵐のように襲ってきて、幻のようにかき消えた、あの白銀色の魔術師の声が。
背筋が凍った。
——どうして、彼の最後の言葉だけ、頭の中から抜け落ちていた?
「遠慮なくアレクって呼んでくれていいんだよ?懐かしいでしょ。ああ、マーガレットさんの番犬くんをどうにか呼ぼうとしても無駄だよ。結界を張ってるから」
けらけらと笑って、ロック少尉の顔をした、ロック少尉ではない誰かが、また頬杖をつく。
「マーガレットさんがノートに書き写してたルノランディアの灯台守の話、すごく面白かった。馬鹿みたいに毎日愚直に同じ作業を繰り返してて。こんな世界があるのかって、一気に読んじゃった」
背中を冷たい汗が流れる。私のかばんの中からノートを持ち出したのは、やはりこの魔術師だったのか。
鍛え上げられた軍人の指が、とんとん、と、閉じた本の表紙を叩く。
「だからね、他にオススメの本がないか聞きにきたんだ。でも、今日はこれで良さそうだね」
「……あなたは、どうして、こんなことをするの? ロック少尉は無事なの?」
私は、ふさがったような喉からなんとか声を絞りだす。他人の体をやすやすと操る魔術師が、きょとんと首をかしげた。
「うーん、どうしてかなぁ。……暇つぶし? 暇つぶしついでに、マーガレットさんを攫っちゃおうかと思ってたんだけど。でも、それより今はこの本を読みたいかも」
軽やかな身のこなしで立ち上がると、機嫌が良さそうに、本を小脇に抱えて手を振った。
「じゃぁね。また来るよ。番犬くんによろしくね。って、またマーガレットさんはこのことを忘れちゃうんだけど。バイバイ」
ぱちり、と指が鳴る音がする。とたんに目の前が真っ白になった。
「マギー、マギー」
誰かが私を呼んでいる。何度か肩を揺さぶられて、ようやく目を開けた。慌てて身を起こす。
「図書館で居眠りするなんて、珍しいね。どうしたの? 体調でも悪い?」
コールが顔をのぞき込んでいる。一瞬、自分でも理解できずに周りを見回した。いつの間にか突っ伏して寝ていたらしい。首が痛い。寝違えたのかもしれない。
「あれ? どうしたんだろう。私、寝てた?」
「うん、すごい汗だよ。本当に大丈夫?」
ひたり、と制服のブラウスが濡れて背中に張り付いた。本当にどうしたんだろう。急いでハンカチで額を押さえる。びっくりするくらい汗をかいている。
「大丈夫! でもなんか……悪い夢でも見てたのかな? 待たせてごめんね」
首をひねりながら立ち上がり、机の上のものをかき集める。体調が悪いような感じはしない。むしろちょっと眠ったからか、頭は妙にスッキリしていた。
「本当に大丈夫? 今日はやめて帰る?」
コールはそう言ってくれたけれど、今はちょうど自分ひとりで帰れる場所がなかった。王都の新居を探すのは大園遊会が終わってからにしようね、ということになっていて、ヴェルナン高原の家にはフィリアスさんがいないと辿り着けない。
それに、集中して筆写を終えた後、満足してそのまま眠ってしまうこともたまにある。今日は慣れないレット語を写したから、気づかないうちに疲れてしまっていたのかもしれない。
「ううん。喉乾いた。エール飲みに行こ!」
笑顔で歩き出す。
どうしてこんなに指先まで冷えているのかわからない。でも、お酒を入れれば、きっと……大丈夫!




