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筆耕マギーは沼のなか  作者: コイシ直
第12章 アンブルストンのふたり

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(12-5)そしてフィリアスは知る②

 

 サイモンとの話が終わった後、フィリアスは階下でテンスを捕まえて、こう切り出した。


「隣の建物が倉庫になっていると聞いた。見てもいいだろうか」


 テンスはすぐにうなずいた。案内してくれた建物は、古書店と同時に建てられたものなのだろう。外観も、中の間取りもまるきり一緒だった。


「今は、うちの書庫として使っているけど、昔は、この1階がビストロで。この家で、マーガレットと僕は生まれました。でも、あの子は絶対に、ここに足を踏み入れようとしない」


 一目でマギーの兄だとわかる容貌をしたこの男は、とても穏やかで、しかし芯の強い話し方をする。


「フィリアスさんが、妹を気に入ってくださっていること、本当にありがたく思ってます。だから、少し、あの子のことを話してもいいですか」


 テンスはフィリアスを連れて2階に上がり、一つのドアを引きあける。


 大きな食卓と、一つの写真立てがあった。


「これ、唯一残った家族写真です。僕たちの両親の。妹が生まれた時に、写真館で撮ってもらって」


 その白黒写真に写っているのは、若い夫婦と2人の子どもだった。

 父親は、今のテンスととてもよく似た顔と背格好をしている。母親は、赤ん坊を抱いて満面の笑顔を浮かべていて、口元が今のマギーにそっくりだった。

 その両親の間に立って、幼い4歳のテンスが口を開けて笑っている。


「あの子は、あの頃、マッジと呼ばれていました。でも、うちの父が引き取ってくれてから、マッジと呼ばれても、返事をしなくなりました。自分がマッジだと、忘れてしまったみたいに。同時に、本を読むことと、言葉を知ることに夢中になりました。それまでは、大きくなったらケーキ屋さんになる!とか、ニャンコになる!とか……ああ、フライパンになる、って言ってた日もあったな。毎日なりたいものがころころ変わっていたのに。ぴたりとそういうことを言わなくなって、今のマギーになりました。僕は本当は……マッジのままでいてほしかった気もする」


 テンスは、部屋をぐるりと見渡して、深く深く息を吐いた。


 おそらくかつてリビングとして使われていたこの部屋だけは、本が1冊も置かれていない。


 代わりに、食器が飾られた棚や、ぬいぐるみが入れられたカゴや、壁に貼られた子どもが描いた絵や、手作りの刺繍のクッションや。そんな生活感あふれるもので満ちていた。


 マギーとテンスが、両親とともに亡くしてしまった日々が、そこだけ時を忘れたように残されている。


「来る日も来る日も読んで書き続けるマギーが、僕には気がかりでした。あの子は絶対に弱音を吐かないで、喜怒哀楽のほとんどすべてを文字の世界で解消することを覚えてしまった。無邪気に笑って泣いて、自由に走り回るマッジは、僕の前から消えてしまった」


 食卓を囲む4つの椅子のうち、ひとつだけが足が長く、見るからに幼児用のものだった。きっと小さなマッジのための椅子だったのだろう。


 いまはそこに大きな犬のぬいぐるみが置かれていて、マギーの髪の色とお揃いの茶色のリボンが首に巻かれている。その犬の頭の上に、テンスは手を置いた。


「でもね。あの子はあなたと知り合ってから、いろんな表情をするようになりました。心があちこち動いて、いろんなことを気にして、子どもの頃みたいにいろんなことに驚いて、楽しそうで。

 それにね、先日ひさびさに家に帰ってきた3日間は、いつもと様子が違っていた。筆写の合間にも、あの子はあなたのことを話すし、あなたから送られてきた伝令鳥のメモを嬉しそうに眺めている。いつもだったら、筆写している本に書かれていることばかり夢中で話すのに。

 マギーの心に、あなたがすっかり住んでいるんだな、って思いました。びっくりした。僕や父では、どうしても、そこまであの子の奥深くまで入り込めなかったから」


 そっと写真立てのふちを撫でて、マギーの兄は、柔らかく笑った。


「あの子の孤独に寄り添ってくださって、本当に感謝します。どうかこれからも、妹をよろしくお願いします」




 フィリアスは、その言葉に、ただ、うなずいた。


 自分は、たぶん、人間として欠けている。何が欠けているのかも、まだよくわからない。子どもの頃の彼女のことを聞いても、どうしていいのかわからずに、とにかく今すぐマギーを抱きしめたかった。それが正解かも、わからない。


 それでも、わかることがある。寄り添ってくれているのは、マギーのほうだ。


 彼女の笑顔も、筆耕にのぞむ凜とした横顔も、無防備な寝顔も。美しく芸術的なまでの魔法陣を描き出す手も、イタズラにくすぐってくる指先も。


 何もかもが、深く深く入り込んでしまった。魔術以外ほとんど何もなかった自分の、どうやっても引き剥がせない奥に。


 マギーが見せてくれる世界が、今やフィリアスの世界のすべてだった。好きも、うれしいも、楽しいも、すべてが彼女と結びついている。


 なのに、どうしようもなく隠してしまいたくなる。


 毎朝起きた時、腕の中の彼女を見て、このままでいたいと願ってしまう。このまま、誰にも奪われない場所に。誰にも見られない場所に。自分しか触れられない場所に。彼女のすべてを。自分だけのものに。


 王立図書館で、マギーが近衛隊の男と何か話しているのを見た時。男が、彼女に見惚(みとれ)れているのを見た瞬間。


 本気で、隠してしまおうと思った。手を取った瞬間、どこか遠くに飛んで、誰にも見られないまま、ふたりだけで生きる。自分の魔力を使えばそれが可能であることを、フィリアスはよく知っていた。


 でも、マギーはこちらに気づいた瞬間、ぱっと笑った。花が咲くように。本当に心から、うれしそうに。


 その瞬間、フィリアスの中の昏い昏い欲望は霧散してしまって、ただ、彼女を待った。マギーが駆けてくる。たったそれだけで、自分の中が、一瞬で明るく満たされる感覚があった。


 彼女は、いつだって、光をくれる。

 窓のようだ。

 自分だけの、窓。その向こうの世界を、見せてくれた。知ってしまった。


 隠してしまったら、二度と光は得られない。そんなこと、耐えられない。


 マギーはフィリアスの手を引っ張って、元気よく歩き出した。

 その手に触れているだけで、こんなにも、まぶしい。


 君がくれる、この世界にいたい。




 彼女の故郷にいって、彼女の家族と顔を合わせて。

 そのままするりと馴染(なじ)んだ自分が不思議だった。


 マギーの隣で、するりと言葉が次々と出てくる。思ったことをすべて彼女に伝えたくなる自分が不思議だった。


 夕食に行った帰りの馬車で、彼女の隣で、生まれて初めて夕焼けに見惚(みと)れた。その紅い色が、満たされた体の奥深く染み込んでいくようで、ふと、理解した。


 そうか。これが美しいということか。


 ふいに自分が怖くなった。こんな感情を覚えてしまって、もし失ったら。この感情をくれるマギーが、いなくなったら。


 ……もしかして、妻を失った時のマギーの父の気持ちも、こんなふうだったのだろうか。


 どうやってひとりで生きていけばいいのか、もはや、わからなかった。手のひらを見る。自分の魔力は、何の役にも立たない。彼女がいてくれないと、もう。


 馬車に落ちかかる夕暮れが、暗く、暗く、のしかかる。


 フィリアスは何かに突き動かされるように、魔術で金色の蝶の群れを飛ばした。


 マギーが蝶の動きをうっとりと目で追って、それから、フィリアスを見て、楽しそうに笑った。


 それだけで、暗い世界に光が灯る。

 それだけで、自分は救われる。




 その夜、彼女は言った。


「一緒に暮らしましょうか!」


 その言葉がどれだけの救いをくれるか、君は知らなくてもいい。


 フィリアスは、ぎこちなく、かすめるように、マギーの口にキスを落とした。


 魔術師の命のようなくちびるで、彼女に触れる。

 ほんの一瞬、伝わってきた柔らかい体温に、心が溶けた。


「君と一緒にいるためなら、俺はなんでもする」


 そのまま何度もそっとくちびるを触れ合わせる。何度も祈るように思う。




 俺の命をぜんぶあげるから、だから、どこにもいかないで。




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