(12-3)マギー、実家に顔を出す③
客室をノックして、ひょっこり中をのぞいた。
書き物机で本を読んでいたフィリアスさんは、こちらを見るなり、ずざざと椅子ごと思いっきり後ずさる。予想以上の驚きっぷりだった。サプライズ成功!かな。
まだ少し酔っぱらった頭がふわふわして、驚いたフィリアスさんの目がこぼれ落ちそうだ。素知らぬふりを取り繕って聞いてみた。
「おや、まだ寝ないんですか?」
「今、寝るどころじゃなくなった」
私の顔を凝視したまま、パチリと指が鳴る。魔術らしいことは何も起こらないけど、それどころではないようにフィリアスさんが真顔でうめいた。
「君……それはだめだろ」
「え?だめ?やめる」
「そのままがいい」
非常に素早い即答が来て、私は自分の頭の上に伸ばしかけた手を止める。フィリアスさんにふわふわ近づいて、
「へへ。つけてみた」
自分の頭の上を、ちょんちょんと指差して見せた。
そこには、ぴょこんと薄茶色の三角もふもふ耳がふたつ。子どもの頃の学芸会でつけていたキツネ耳だった。
「お父さんが大事に保管してくれてたやつ、古い箱から見つけたの。懐かしいなと思ってつけてお父さんに見せたら本気で号泣されちゃって。逃げてきた!」
耳は茶色い厚手のリボンに縫い付けられていたから、大人になった今でも問題なくつけることができた。さすがに古びてちょっと色あせているし、今となっては少し小さいけれど。
「う…ん」
喉を鳴らすように変な音であいづちを打って、フィリアスさんは片手で口元を隠した。私はずいずいっと耳を近づけて見せる。あはは、楽しい。フィリアスさんがのけぞった。
「どう?」
「どうって」
「キツネ耳。白黒写真で見るより実物の方が、もふもふ感あるでしょ?」
「……破壊力がつよすぎる」
「え、そんな?」
「動悸がする」
え、それは困る。慌てて耳を外そうとしたら、フィリアスさんが素早い動きで手をつかむ。
「そのままがいい」
「えぇ」
「かわいい」
あ、むりだ。
私は空いている方の手でとっさに耳のリボンを引っ張って外し、ぱっと後ろ手に隠した。
酔いがすとんと抜け落ちて、別の熱が沸騰する。あっという間に顔に血がのぼっていくのを感じる。
「……かわいかったのに」
とても残念そうなフィリアスさんが、さっきまでキツネ耳があったあたりをじっと見つめている。
この人は、気づいているんだろうか。私のことを、初めてかわいいと言ってくれたことに。
心がじんじんして、ぎゅんぎゅんして……だめだ、本当に粉々になって舞い上がってしまいそう!
逃げちゃおう! とっさにそう思ってあとずさったけれど、まだ手をつかまれたままだった。だめだ。逃げられない。うれしすぎて弾け飛ぶ。
たった一言で私を瀕死にしたフィリアスさんが、
「マギー」
とてもとても大切なもののように、そっと名前を呼んだ。
そして、急に何かに押し負けたように、へにょりと彼の口が歪む。まるで、泣き出しそうな子どもみたいに。
くちびるを噛んで、つかんだままの手をゆっくりと引き寄せて、
「逃げないで」
ちいさくそう言った。
「どこにも」
耳にかすかに届いた声には、確かに不安の色があった。
まだ私の手にぶら下げられているキツネ耳をそっと取り上げて机に置いて、フィリアスさんは立ち上がる。
ぎゅうぎゅうと抱き寄せられた。
「いかないでくれ」
「……フィリアスさん、フィーさん、どうしたの?」
とまどいながら手を回して、様子のおかしくなってしまったフィリアスさんの背中を撫でる。あたたかくて、無限に撫でていたい。
「……君が、いつか、いなくなってしまったら、俺は」
「うん?」
すっとんきょうな声が出てしまった。だって、そんな予定、全然ない。
「いったい何のこと?」
「……王宮の仕事を辞めるって言ったろ」
思いもよらない言葉に、目を見開いた。
確かに王宮の食堂でちらりと退職の未来を話した。それきり、何も説明していなかった。
フィリアスさんの顔を見たいのに、深く抱き込まれて身動きも取れない。
「もしかして、ずっと気にしてた……?」
無言のまま、ぎゅう、とさらに腕に力がこめられて、返事の代わりに痛いくらいに抱きしめられる。
必死にくっついた全身から不安と動揺が伝わってくるようで、私はひどく慌てた。
「ごめんなさい。あのね、すぐに辞めるわけではなくて、たぶん数年後の話で……早く話しておけばよかった。本当にごめんなさい。ちゃんと座って話をしましょう?」
もう一度、背中をさする。こんなふうにすっぽり包まれてしまう体勢に慣れてしまって。今さらこの幸せな場所を自分から手放す気になんて、なれるわけがない。
「…………ああ」
しばらくしてから、絞り出すような声が落ちてくる。ようやくゆっくり体が離れた。
「これはまだ、公式発表にはなってないんだけど」
ベッドに並んで腰掛ける。すっかり暗い目をしたフィリアスさんが安心できるようにと祈りながら、きゅっと手をつなぐ。
言葉を選んでゆっくり話し出す。
「王宮の筆耕官の人数が、たぶんいずれ、半分になるんだ」
「……印刷機の導入か」
「すごい、フィリアスさん。よくわかるね」
公式文書は格調が必要、だからすべて手書きで記す、というのが今のカンティフラス王宮の伝統だ。
でも、今は印刷技術もあるのだ。使えるものは積極的に使うべきではないか、という議論も当然持ち上がってくる。私が筆耕官になった当時からもう、印刷の可能性が水面下で検討されていたと聞く。
フィリアスさんは、それを知っているらしい。ゆっくりとうなずく。
「魔術科にも、活版印刷をより便利にできる魔術があるか、裏で打診があった。もう……2年も前だ」
「そっか。もし魔術を使ったら、ますます筆耕官の仕事が楽になるんだろうなぁ。それはそれで見てみたい」
私は微笑んだ。魔導具には夢と可能性がある。例えば、フィリアスさんの宙飛ぶ自動筆記ペン。あれを普通の人も使いこなせたら、オフィスの仕事が格段に効率よくなりそうだ。
でも。
自分の右手の中指にある、ぷっくりとしたペンだこを見る。毎日、ペンを握るうちに、自然とできてしまった勲章だ。
私はこれと、できれば一生相棒でいたい。
「私たち筆耕官が清書した1枚をベースにして、印刷すればいいんじゃないか、って考え方。確かにそうだと思う。国書レベルはさすがに手書きだとしても、それ以外は印刷でもいいと、私も思う。でも、今年の初めに、こっそり部長から言われたの。来年から2年かけて業務に印刷を取り入れて、筆耕官の人数を半分にする見込みだって。私には筆耕科に残ってほしいから、これまでやったことのなかった業務も全部覚えてほしいって。それを聞いて……怖くなった」
自分のペンだこを撫でる。あの時のことを思い出すと、いまだに心が一瞬止まる。
「私は今の仕事が本当に好き。でも、筆耕官の先輩たちが、仕事に誇りを持って取り組んでいる姿をずっと見てきた。その人たちを押しのけて、自分がここで筆耕を続けていくの?私がやりたかったのは、本当にそういうこと?って。心の片隅で、ずっともやもやが消えなくて」
晴れない心を打ち消したくて、業務帰りはいつも図書館でいろんな本を夢中で写した。でも割り切れない気持ちがいつもどこかにあって。
休日になると、せめて気分転換になればと願って、日頃の仕事とは無関係なアイテムをいろいろ書いた。
家の周りの店主さんたちに頼んだり、学院時代の友だちに相談したりして。
花屋さんのメッセージカード、レストランのメニューボード、芝居ポスターの文字デザイン……。
王宮以外の仕事は、想像したよりずっと自由で、楽しくて。私の書いたものを、とっても喜んでもらえて。
それでうっすら感じたのだ。
——もしかして、こういう道も、あるのかもしれない。
「そんな時、ハリー先輩にあのラブレターの代筆を頼まれたの。先輩の気持ちを、一筆一筆、相手に伝わりますようにって大切に書き起こしていくのが、本当に楽しくて。その時に、はっきりと気づいた。ああ、私が本当に好きなのは、こういうふうに、言葉に込められた想いを文字にして伝えることなのかなぁ、って」
そこからとんでもない事態になって、しばらく自分の進みたい道のことなんて、頭から吹っ飛んでいたけれど。
「それから、フィリアスさんのお手紙も、気づかせてくれた」
握ったフィリアスさんの手が、ぴくりと動いた。うかがうような、低い声がする。
「……俺の?」
「うん、伝令鳥のお手紙。毎回、いろんな国の言葉を選んで、丁寧でかっこいい文字で送ってくれるでしょ。フィリアスさんが、私のことを考えて工夫して書いてくれているのが、本当にうれしくて、待ち遠しくて、来るとすごく幸せになって。毎回、フィーさんの文字をそっくりそのままノートに模写して残してるの。知らなかったでしょ?」
私はいたずらっぽく笑った。フィリアスさんは息を忘れたように、絶句している。
「私は、こういう文字が好きなんだな、こういう文字を書きたいんだな、って。フィリアスさんのおかげで、はっきり自覚できた。私は、受け取る人のことを思って、受け取る人が少しでも幸せな気持ちになれるような、心に響くような文字を書きたい」
「しあわせ」
口慣れない言葉のように、ぎこちなくフィリアスさんがつぶやいた。
「そう。フィーさんがくれた幸せ」
ただ筆耕をするだけじゃなくて。筆耕という武器を使って何をしたいのか。
フィリアスさんの文字が、はっきり私の気持ちのありかを教えてくれたのだ。
「だから、いずれ王宮の仕事を辞めて、民間で仕事をしようかな、って考えてる。そのためにも、これからニーナ・ブルーのカードを書かせてもらえたら、すごく大きなステップアップになりそう。こうやって、個人の仕事を増やして、そのうち自分でお店を開きたい。一度きりの人生だから、悔いのないようにやりたいことをやりたい」
言い切ったあと、自分がたいそうなことを豪語したような気がして、えへへ、と照れ笑いしてしまった。
きちんと伝えられて、ほっとする。とたんに、ようやく気づいた。
「フィリアスさん、もしかして、なんだけど。家を買う、って言い出したのって……もしかして、私が王宮の仕事を辞めるって聞いたから……?」
「……君がいなくなったらどうしよう、と思った。君が消えてしまったら……きっと俺はもう、眠れない」
フィリアスさんは肩を落とした。ぼそぼそと、小さい声で、とても言いづらそうだ。
「だから、仕事で一緒にいられないなら、住む場所を正式に一緒にすればいいと思った」
「不安?」
「うん」
「一緒だと、不安じゃない?」
「うん」
うなだれて、何度も小さくうなずいている。肩をすぼめて、捨てられるのを怯える犬みたいで……ああ、もう!どうしようもなく、いとおしい。
「わかった。一緒に暮らしましょうか!仕事じゃなくて、ちゃんとプライベートで」
私は、思い切りうなずいた。状況に流されて、もうほぼ一緒に暮らしているのだけれど。
自分の意思で、初めてはっきり口に出す。フィリアスさんとの奇妙な毎日は、不思議としっくりきて、心地よくて。いまさらひとり暮らしをするのは味気なくて、正直きっと無理だと思う。
そのとたん、パッとフィリアスさんが顔を上げた。つないだ手に力がこもる。
「本当に?」
「本当に。ああでも、明日、ちゃんとお父さんに言わなくちゃ。ちょっと怖いけど」
おどけて首をすくめてみせる。今日、ずっと心に引っかかってはいたのだ。父に話すきっかけをつかめないまま1日が終わってしまったけれど。
「もう言った」
やけにさらりと返ってきた言葉に、私は耳を疑った。
「え、うそ、いつ?!」
「君たちが、下の店でレシピ本を見ていた時に」
あの時に?!
そんな、うちに来て割とすぐのタイミングで?!
確かに、フィリアスさんと父はちょうどふたりきりだったけれども。それにしたって、フィリアスさん……外堀埋めるの得意すぎない!!?
「お父さん、何か言ってた?」
「娘もそれを望んでいるならいい、って。あとは、細かなことと条件をいくつか」
「え、何を言われたの」
「秘密」
「えっ、何それ!仲間ハズレ反対!」
ふくれてみせたけれど、フィリアスさんは何も言わずに、私のほっぺたを丁寧につっついた。それから大きな手が、頬を柔らかく撫でる。何度も、そこにあることを確かめるように。
フィリアスさんの瞳の中から暗さが消えて、でも、目を離すのが怖いみたいに、ずっとアイスブルーの色がこちらをうかがっている。目を離した隙に、私が消えてしまうとでも言いたそうに。きっと心のどこかで、まだ完全には信じてもらえていない気がする。
フィリアスさんの子どもの頃のことを思う。お師匠さんに会うまで、誰にも頼れずに、命からがら生きてきた痩せっぽちの男の子。これまで心から信じられる人が、お師匠さんとハーフォードさんとニーナさんと……あと他にどのくらいいたのだろう。きっと、そんなには多くない気がする。
——だったら、私はすっかり信じてもらえるまで、フィリアスさんが幸せだと思ってくれるまで、いっぱい話して、いっぱい約束して、いっぱい楽しいことをする!
「もし本当に家を買うつもりなら、ひとりだけで選んで買わないでね」
フィリアスさんのいたずらな手を捕まえてから、せめてもの釘を刺す。ちょっと前のフィリアスさんなら、もうすでに勝手に買っていそうだ。
「まずは借りよう? 買うなら、いずれゆっくり、その時が来たら、一緒に探そう?ふたりで探したほうが絶対楽しい! もしかしたら、私のお店を併設したいって言い出すかもしれないし。フィリアスさんも自分の家なら何かそこでやりたいこととか、こだわりたいこととか、あるでしょ?」
「……わかった。約束する」
フィリアスさんがいきなり身を乗り出して、
——驚くひまもなく、ふわり、とくちびるの端にくちびるがわずかに重なって、離れた。
「君と一緒にいるためなら、俺はなんでもする」
誤字のお知らせ、本当にありがとうございます!
そして、年内も残すところあとわずか。。。
明日は朝7時投稿予定です。引き続き、どうぞよろしくお願いします!




