(1−5)マギーと餌付けの時間
3杯目のシチューが、閣下のお腹の中に消えていく。さすが魔術師、ものすごくよく食べる。
食べ方は決してがつがつして見えず、むしろ無駄のない洗練した動きに見えるのだけれど、とにかくあっという間にシチューが無くなっていく。どういうことなのか。
ここは、お城の下町。王都第3区の小さな雑貨屋やカフェ、パン屋や仕立て屋などが立ち並ぶ、入り組んだ路地。その突き当たりで、ひっそりと営まれているレーン古書店。それが私の家だ。
店舗は1階で、所狭しと本が積まれている。その隙間を縫うようにして奥の階段から上がる2階が、私たち兄妹の生活空間だった。リビングと、寝室が一部屋ずつ。水回りに関連する台所や風呂などは、1階の店舗裏に造られている。
案の定、閣下を家に連れて帰り、その名前と肩書きを伝えると、兄は私とよく似た顔を一瞬凍りつかせた。
子どもの頃から店番をして、本の仕入れ旅や交渉ごともお手のものの兄は、人当たりがよく穏やかで、滅多なことでは動じない。その彼を瞬間的にでも動揺させた閣下、おそるべし。いえ、断るすべなく閣下を連れてきてしまった私が一番いけないんだけれど。
兄はこっそりと、深い息を細く長く吐いたのち、あっという間にいつもの飄々とした雰囲気を取り戻した。ぽんぽんと私の頭を叩いてから「おかえり」と微笑み、閣下とアンナさんを2階に招き入れる。
今日は、本当だったら兄とアンナさんと、和やかな夕食のひと時になるはずだったのだけれど……ふたりには本当に申し訳ない。なぜか今、私の隣には閣下が座っている。
最初は予期せぬ大物のお客様を気にしながら会話を進めていたものの、閣下にどんなことを尋ねても常に無言で、首を縦に振るか横に振るか、首を傾げるかの反応しか返ってこない。何なら、この家に来てから、一言もしゃべっていない。
そしてひたすら食べている。
この人は放置しておいても大丈夫なんだな、と学んだ私たちは、だんだんいつもの調子を取り戻した。今は兄とアンナさんが、先週出たばかりの作家の新刊の感想を言い合って盛り上がっている。ふたりは本の趣味がとても合うのだ。
アンナさんは、うちの古書店の常連さんでもあって、週末は我が家でご飯を作ってくれるし、平日はこうやって兄のご飯を食べにくる。何でこれでお付き合いしていないのか、まったくわからない。24歳のうちの兄と、ひとつ年下のアンナさんはどこからどうみてもお似合いで、とっとと結婚すればいいのに。
仲良しのふたりを眺めつつ、ちらりと横の閣下を見る。まだまだ食べていて、とうとう3皿目がなくなった。
「おかわりいかがですか?」と尋ねると、空になった皿をさっと差し出された。この人が魔術がらみ以外で積極的に動くのを、初めて見た気がする。よっぽどうちのご飯を気に入ってくれたんだろうか。
今日がシチューの日で、本当に助かった。兄の得意料理の一つで、いつも大鍋で2日分のシチューを一気に作る。煮込んだ翌日の味は、お世辞抜きにとびきり美味しいと思う。でもこれだとたぶん、明日の分まで残らないな。
テーブルの端に置かれた鍋から、閣下の4杯目をよそう。もう鍋の底が見えてきている。
無言で食べ続ける閣下に、兄はそっとパンの籠を差し出した。
「お口にあったようでよかったです。これ、よかったら、最後の一切れで申し訳ないんですが」
閣下はスプーンを置くと、軽くうなずいて、パンを受け取る。
そして、空いた籠に顔を向け、少し首を傾けて何かを考えるようなそぶりを見せたあと、パチリ、と左手を鳴らした。
とたんに大量のパンが、現れる。
様々な形のパンで埋め尽くされた、ついさっきまで空っぽだった籠。
息をのむ私たちにはお構いなしに、閣下の指が少しだけさまよい、やがて丸くてこんがり焼き目のついたパンを持ち上げた。黙って私の皿の上に置く。それから同じものを、兄と、アンナさんの皿にも。
そして、じっと私に顔を向けた。私も閣下を見返した。前髪の向こうから妙な圧を感じる。たぶん私が食べるのを待っている気がする。
予想外すぎて、じわじわ心がムズムズしてきて、とうとう「ふふっ」と声に出して笑ってしまった。昔飼っていた犬が、お気に入りの木の棒を兄と私のところにそれぞれ持ってきて、得意げな顔をしていたことをなぜか思い出してしまったのだ。
昨日から閣下にびっくりさせられっぱなしで、もうこれぐらいでは真剣に驚かなくてもいいのかも、という気分になってきた。慣れって怖い。魔術語の詠唱の代わりにフィンガースナップを使う魔術師もそこそこいるし、閣下にはこんなことくらい、日常茶飯事なのかも。
それよりもなによりも、目の前から、何ともいい匂いがする。
「ありがとうございます、いただきますね」
言いながら、ふらふらと、パンに顔が引き寄せられる。思わず鼻を近づけてスンスンと嗅いだ。持ち上げるとずっしりと重い。
そのままそっと二つに割ると、中から炒めてつやつやになった玉ねぎとひき肉がたくさん出てきた。
思わず、かぷっと齧り付く。スパイシーな香辛料に、ほんのりガーリックと生姜。甘みのあるパン生地。思わず目を丸くして、閣下を見上げる。しっかり咀嚼して飲み込んでから、
「閣下! これ、すっっっごく美味しいです」
ゆるゆるにゆるんだ頬を、とっさに両手で挟む。ほっぺたが落ちそう、というのはこういう食べ物のことを言うんじゃないかな。
たぶん前髪の向こうから一部始終を見ていた閣下は、10秒くらいしてから急に手を伸ばして、
ぽんぽん、と私の頭を叩いた。
私は閣下を見上げたまま、固まった。
視界の端では、こちらを凝視していた兄とアンナさんが、お互いに顔を見合わせて、一瞬、目と目で何か会話した。それからふたりはまた、こちらを見た。アンナさんの口元がやんわりほころぶ。
絶対、ぜったい何か誤解されている気がする。違う。きっと閣下はさっきテンス兄さんがやっていた「頭ぽんぽんおかえり」を真似してみたかっただけだと思う。絶対そうなんだけど、私はまだ、動けない。さっきもう驚かなくてもいいって思ったはずなのに。兄とは違う手のひらの、あたたかい感触。
閣下は、もう一度、私の頭をぽんぽんしてから、ひき肉パンにかぶりついた。
第1章をまとめて投稿しました。
第2章からは、毎日順次アップさせていただきます。よろしくお願いいたします!