(11-1)マギー、流されかける
「フィリアスさん、これ、なんか違うと思う」
私は言った。もう3度目だ。執務室での初勤務をはじめたばかりなのに。
「何が?」
2度目まではさらりと無言を通していたフィリアスさんが、小さくしぶしぶ答える。
「私の座る場所。おかしくない?」
「おかしくない」
フィリアスさんは、しれっと嘘をついた。
カンティフラス王宮の魔術研究棟、フィリアス・テナント第2魔術師団長の執務室。
重厚なウッドデスクの大きな黒い革張りチェアに、フィリアスさんは堂々と座っている。——なぜか足の間に私を座らせて、後ろから抱っこして。
「でも、この体勢だと、お仕事の効率落ちるよね?」
「落ちない。はかどる」
「え? なんで?」
フィリアスさんは、さっきから、空中にひらりと書類を浮かべては、魔導具のペンを使って自動でさらさら何かを書き込んでいる。たいてい自分の名前をサインするか、もしくはコメントを書き込むか。右手の人差し指が絶えず細かく動いているので、たぶん連動して文字が記せる仕組みなんだと思う。そんなことができる人、フィリアスさん以外に見たことがない。
「でも、私は、筆耕の仕事に集中したいな!」
フィリアスさんは、私の肩越しに、さっき書き終えたばかりの1枚のカードを覗きこんだ。来月、大園遊会のゲストに渡す予定の客室使用の注意案内だ。
「じゅうぶん見事に書けていると思う。君は、レット語まで知っているんだな」
フィリアスさんこそ、知る人ぞ知る小国の文字をさらりと理解している。この人の知識量は、どうなっているのだろう。私よりはるかに深い沼に潜っている気配がすごい。
こういうところも、フィリアスさんと話していて楽しいところだった。何も説明しなくても話が通じるって、とてもうれしい。
私はレット語のカードを眺めて、微笑んだ。こういう仕事はとても好きだ。受け取ってくれた人が、気持ちよく滞在してくれるといいな。もし叶うことなら、レット国の話もいろいろ聞いてみたい。
「レット、いつか行ってみたくて。夏になると、ホタルっていう光る虫がたくさん飛んで、とても幻想的なんですって。夜空が地上に降りてきたみたいだ、って本で読んで。それでレット語を夢中で覚えたんです」
「子どもの頃に、見たことがある。隣国に、師匠の家がある。…………今度、行くか?」
「ほんと?!行きたい!!」
なぜかとても自信なさそうな小さな声でフィリアスさんが尋ねて、私は大声で即答した。だって、ずっと憧れていたのだ。本を何度読み返したことか。これを逃したら、レット国に行く機会なんてきっとない。
「……わかった」
私の胴にずっと回されている左腕に、きゅっと力がこもった。
これだ。これがよろしくないのだ。
私が1枚清書して一息つくたびに、わずかに左腕が動いて「ここにいるよ」とかすかに主張する。そのたびに、心が机から一瞬離れてしまって、集中力を取り戻すのに時間がかかってしまう。
これがなかったら、たぶんいつもの通り、筆耕に集中できるのだけれど。いや、でも、そもそもこの体勢自体がダメだよね!仕事中だからね!
「フィリアスさん、私、自分のデスクに戻ります! 筆耕科から預かった大園遊会まわりのカードを一気に書き上げてしまいたい」
執務室の中に、私のデスクを用意してもらっていた。扉寄りのところに置かれていて、部屋の奥に座る団長の来客を取り次ぐのにちょうどいい位置にある。
でも、ひとまず魔術科でやれる業務がなかった。ずっと複写をしていた古い魔術書を、ちょうどカワード家に滞在している間に写し終えてしまったのだ。すっかり手持ち無沙汰になってしまった。今は、フィリアスさんの書類チェック待ち。この時間に、何かを書きたい。写したい。
というわけで、さっき筆耕科へ出向いて、いくつか仕事をもらってきたのだった。
1カ月ぶりにひょっこり現れた私を見て、筆耕官の先輩たちはとても驚いた。そして、自然と拍手で迎えてくれた。新聞の報道もあって、私の安否をとてもとても心配してくれていたのだという。うれしすぎて、少し涙がにじんだ。
そしてサティ先輩は、一身上の都合で退職したことになっていた。部長をはじめ、みんなが口々に残念がっていて、正直、ほっとした。筆耕科の思い出の中では、サティ先輩は私の大好きな、尊敬できる先輩のままでいてくれる。
預かってきた業務には、かなりマイナーな言語の清書がいくつか含まれていた。たまにしかありつけないご馳走をゲットしてしまった気分!
鼻歌まじりの上機嫌で「ただいま戻りましたー!!」と執務室に入ったら、しばらくひとりだったフィリアスさんが、ほんのりふてくされたような顔で、ちょいちょいと無言で手招きした。
何だろうと思って近寄ったら、自然な動作でするりと椅子の前に座らされてしまう。後ろから抱き抱えられて、
「え? なんで?」
「なんとなく」
堂々と言い切られて、軽やかなフィンガースナップがひとつ。とたんに、私の机の上に揃えてあったはずの筆耕道具が、目の前に移動してくる。そのままフィリアスさんは自分の仕事を再開してしまった。
そんなこんなで、なんだか流されて当たり前のようにしばらく抱っこされていたけれど、もうそろそろ限界だ!いろいろね!
移動のために、机の上を片付け始める。顔を見なくても、フィリアスさんが後ろで不服そうな雰囲気を出しているのがわかる。
離れてくれないので、左手の甲を軽くつねる。びくりと手が動いた。吹き出しそうになるのをこらえて言ってみる。
「午前の仕事を全部無事に片付けられたら、ランチはフィリアスさんの好きなお店に行きたいです。行ってみたいお店とか、食べてみたい食べ物、ありますか?」
「……職員食堂」
意外な言葉がぽつりと聞こえて、思わず頭の上の顔を見上げた。私を見返して、フィリアスさんは淡々と、でもはっきりと繰り返した。
「職員食堂」
「そんな普通のランチでいいんですか?」
「うん。行ったことがない」
「え?そうなの?了解です。そっか、フィリアスさんがいるなら、日替わり定食が制覇できる。やった! 3種類ぜんぶ頼んで、私はそこからちょっとずついただく感じでもいいですか? デザートも3種類食べちゃいます? ひゃぁ、ぜいたく!」
食いしん坊を発揮して、思い切りワクワクしてしまう。フィリアスさんは、にまにまと笑う私をしばらく眺めて、それから腕をふわりとゆるめた。
おかげさまで、自分のデスクに戻ることができて、そこからの業務はたいそうはかどった。
予定よりだいぶスムーズに書き終わったので、食堂が混雑する時間帯より少しだけ早めに行けた。
窓際にあるお気に入りのカウンター席を確保する。大きな窓の外はちょっとしたバラ園のようになっていて、ちょうど今の時期は色とりどりの大輪の花が見頃だ。
3種類の日替わり定食を、すべて大盛りにしてもらった。魔術師用の大盛りだから、普通の2倍以上の量がある。それから念願の日替わりスイーツも3種類全部。フレッシュハーブの入った炭酸水と、レモネードも。カウンターテーブルにずらりと並べると、大変豪快なランチになった。
「こんなボリュームのある食堂ごはん、初めて。魔術写真で撮りたいくらい」
並んで腰掛けて、料理を見渡す。あまりの分量に、ここがいつもの食堂だと思えず、しばらく軽く笑いが止まらなくなってしまった。
「でも、フィリアスさん、これでお腹足ります?」
「まあ、どうにか」
「……もう1食追加する?」
「大丈夫。おやつにクッキーがある」
「お手製魔術の? チョコチップ?」
「うん」
「やった!あれ、すごく好き」
1枚のお皿に私が食べる分だけ取り分ける。Aランチは豚肉のジンジャーステーキ、Bランチはサーモンのムニエル、Cランチはラザニア。どれもトレーにはみ出しそうな勢いで盛られている。
それぞれ少しずつもらって、サラダとパンも載せたら、たいそうなご馳走プレートになってしまった。
さっそく食べ始める。
「ん! このムニエルおいしい!」
隣から、パチリとフィンガースナップの音がした。あれ?何か魔術を使った?
でも音のした方を見ても、フィリアスさんが、まだ食べずにじっと私を見ているだけだった。いつもだったら、あっという間にもりもり食べ進めるのに。
「どうかした?」
「おいしそうだ」
「おいしいですよ。食べたら?」
「うん」
ようやっと、フィリアスさんも食べ始める。
「ね、ムニエル、おいしいでしょ? あ、豚肉のステーキ、端っこのカリッとしたとこ香ばしい! どっちが好き?」
「……食べるときに、比べて順位を考えてみたことがない」
「じゃぁ、もしあと1回おかわりできるとしたら、どれを食べたい?」
「……ラザニア」
「あはは! じゃぁ、この中でフィリアスさんがいちばん好きなのはラザニアですね。あ、確かにこれおいしい。ミートソースの中にナッツが砕いて入れてある。へぇぇぇ。いっぱい食べられちゃいそう、これ」
「うん」
フィリアスさんは、ラザニアをきれいな仕草で切り分けると、そのままフォークに載せてこちらに向けた。
「あ、じゃあ、このお皿の上に……」
差し出したお皿をきれいにスルーして、そのままフォークが口元にやってくる。
え? このまま? 食べるの?
……まあいいか。私も仲良しの魔術師の口にはパンとかクッキーとかよく突っ込むし。
勢いよくぱくりと食べたら、ざわり、と背後の空気が動いた。
ん?と思って、もぐもぐしながら振り返ったら、何人かの人と目が合って、慌ててパッとそらされる。
ん? なんで? 見られている?
怪訝に思いながら、顔を戻すと、また口元にラザニアがくる。
「フィリアスさん、そんなにいっぱいは食べられないかな」
とたんにフィリアスさんがほぼ無表情のまま、気配だけがしょんぼりしおれた。器用だね!
「ごめんなさい、食べる、食べます」
すごすごと引っ込みかけたフォークの手元を引っ張って、もう一度、ぱくりと食べたら、また、背後がザワザワした。まあ、いっか。フィリアスさんは平然としてるし、危険なこともなさそうだし。
「なるほど。理解した」
フィリアスさんは、追加ラザニアを頬張る私を見ながら、重々しくうなずいた。
「何が?」
「ハーフォードがよくこれをやる意味」
「ハーフォードさんが? あ、ニーナさんに? よくごはん分けてあげてるの?」
「そう」
「理解したの?」
「うん。意義がある」
何のだろう、と思ったけれど、それよりラザニアがおいしすぎる。目の前にまた運ばれてきたラザニアを、これで本当に最後にしようと心に決めながら、ぱくりといただく。
「ハーフォードさんたち、とっても仲良しご夫婦ですてきですよね」
「ニーナのおかげ」
ぼそりと言いながら、フィリアスさんはようやく自分の食事を再開した。
「あ、ニーナさんといえば! 私、今度、ニーナさんのお店のカード、書かせてもらえることになりました。オーダーメイド商品のイメージに合わせてインクと書体を決めて、取扱説明カードに飾り文字を書くお仕事。報酬もいただけるって。どうしよう。すっごく楽しみ」
「……見たい」
「書いたカード?」
「書くところ。君のカリグラフィーは、とてもきれいだ。色を使ったものも、見てみたい」
「えへへ。うれしい。自信ついちゃう。王宮のお仕事を辞めても、食べていけるかな?」
「……辞める?」
「いずれは」
「…………どうして?」
「いろいろあって。ここでは話しづらいので、また今度」
めずらしい。フィリアスさんの食事の手が止まっている。
私は笑って、パンを一切れ取ると、彼の口に突っ込んだ。
「ほら、あったかいうちに食べちゃいましょ」
自分の口にも、ちぎったパンを放り込む。ガラスの向こうで咲くバラが、本当にきれいだ。あと何回、ここでこうやって花の盛りを見るんだろう。
今日、フィリアスさんと見られてよかった。




