(10-5)マギーとハチミツ
ベンチに座って、私は人を待っている。
振り返ると、蔦の絡まる一軒家がある。ああ、これは夢だな、と思う。あれは、おととい写真でみた家だ。
ベンチの前には、大きな薬草畑が広がっていた。
高原の家の裏庭で育てている草もあれば、初めて見るものもある。ミツバチたちが薬効のある花々から一生懸命に蜜と花粉を集めていて、
「ハチミツ、体に良さそう!」
「少しクセがある。ミルクに入れると美味しい」
フィリアスさんが答えた。
いつのまにか当たり前のように隣に座っていて、目の下に薄く隈がある。あからさまに睡眠の足りていない顔をしていた。
「昨日もおとといも眠れなかったんですか? 夢に出てくるかなと思ってたのに。今日は眠れて良かったですね」
私は両手をのばして、親指でフィリアスさんの目の下の隈をムニムニさする。ついでに頬をつっついた。わぁ、思っていたよりふわふわだ。夢の中だもの。怖いもの知らずでもいいよね。
フィリアスさんはいたずらする私の両手を捕まえて、真顔ですりすりっと頬ずりした。うっひゃぁ、夢の中でも刺激が強い!
あわてて手を取り戻す。咳払いした。
「捜査、どうですか? 体、休められてますか?」
「進めている。半分は、ハーフォードの関連事案だった。休息は取れている。アンデラにいる」
「それでアンデラ語のお手紙だったんですね。アンデラっていったら、ニーナさんのご実家がある……?」
フィリアスさんは、無言で顔をそらした。踏み込んで聞いてはいけないということだろう。私はすぐに切り替える。
「おととい、スーちゃんに伝言を託したんですけど、読んでもらえましたか? ノート紛失の件です」
「ああ、読んだ。了解した」
夢の中のはずなのに、なんでこんなにスムーズにお仕事の会話をしているんだろう。無性に愉快な気持ちになる。
おととい、ルミちゃんたちに筆写の手帳を見せた後、清書用のノートにきちんとまとめておこうと思ったのだ。そこで、初めて気がついた。通勤カバンの中に入れていた清書ノートが1冊、消えている。
無くなっていたのは、私が自宅で筆写するときに使っているノートだった。書き写してある内容は、北のルノランディア国の灯台守の生活を綴ったエッセイで、ルノル語が使われている。灯台守の夫婦に初めての子どもが生まれ、その子の幸せな未来を祈る言葉で終わる。感動的な余韻の残る作品だった。
あのノートは、白銀の魔術師に襲撃される直前、自宅でかばんに入れていた。そこから先、持ち物をしばらくしっかり確認していない。
もしかしたら、かばんをオフィスに置いた一瞬の隙に、あの魔術師が抜き取って持っていった可能性があった。でも、一体、何のために? 穏やかな日常が記されているあのエッセイを、わざわざ持ち去る理由がわからない。
「筆写の原本の書籍、兄に返してしまったんですけど、フィリアスさんに提出したほうがよいでしょうか」
「もう受け取りに行った。今日の夕方」
「え、兄の古書店に行ったんですか?」
「ブルーベリーパイも食べた」
「え、兄さんが焼いてくれたの? もしかして焼きたて? フィーさんだけ食べたの? ええー!」
「……君は、何を怒っているんだ」
「怒ってないです! うらやましいだけ!」
「どうして?」
「だって、ひとりで美味しいものを食べてるから。私も一緒に食べたかった」
「……そうか」
フィリアスさんは、なんどか瞬きをする。それから、初めて特別な呪文を覚えた子どものように、一気に言った。
「いっしょはおいしい」
そして私を見た。何だかわずかに得意げに見える。
「理解した。次は一緒に食べよう」
「フィリアスさんから誘ってくれるの、珍しいですね!」
ブルーベリーパイのうらみが一瞬で吹き飛んだ。私はにこにこしてしまう。
「……うれしいのか?」
「すっごく!」
「……わかった」
大真面目にうなずいたフィリアスさんの指が、パチンと鳴る。手のひらに、大きなブルーベリーマフィンが現れる。
「君の分のパイのかわりに」
「食べていいの? やった!」
私は差し出されたマフィンを半分に割って、フィリアスさんに手渡した。アイスブルーの瞳がとまどったように、半分もどってきたマフィンを見る。
「これは君の分だ」
「いっしょはおいしい、ね? 食べましょ?」
「……うん」
ふたりでもぐもぐ口いっぱいにマフィンを頬ばる。甘酸っぱいブルーベリーの果実が口の中でプチリとはじける感触が楽しい。
「おいしい! 高原のお家のブルーベリー、収穫できるのは早くて来月くらいかなぁ。マフィンも焼きたい」
「……うん」
「ふたりで一緒に食べると、半分こできるし、楽しいですね」
「……いっしょはたのしい」
フィリアスさんは、ゆっくり言った。あれ、なんだか、すごく眠そうだ。お腹に食べ物が入ったら眠くなってくるっていう、よくあるやつかな?
「……君といると、初めて知ることばっかりだ」
ぼそりとつぶやいて、フィリアスさんの体がぐらりと傾く。そのまま、私の肩に本格的にもたれかかる。静かな寝息が聞こえてきた。
……夢の中で、熟睡するって、そんなことある?!
寝ている時まで、真剣な顔をしている。そっとほっぺたをつまんでみても、全然起きない。
両側のほっぺたを引っ張ってみたら、口元がむにーっと引き上げられて、きれいな犬歯がちらりとのぞいた。
とたんに心臓が飛び跳ねて、慌てて手を離す。
そうか、フィリアスさんがもし口を開けて笑ったら、これが見られるのか。ちゃんと見たいな。そう思った自分にびっくりする。人の歯をちゃんと見たいなんて、え、何で?こんなの初めてだ。
「フィリアスさんといると、初めて知ることばっかりですよ。びっくりするけど、楽しいね」
肩にあずけられた銀色のくせっ毛ふわふわ頭に、自分の頬を寄せてみる。髪の毛が、柔らかくて、あったかくて、くすぐったい。本当に、初めて知ることばっかりだ。
不思議な感触で、じんわり目覚めはじめる。
つんつん。つんつん。誰かが頬をそっとつついているような……?
目を開ける。至近距離にフィリアスさんの顔があった。早朝のまだ青白い光が少し入り込んだ部屋の中。つんつん、とまた頬をつつかれて、一気に覚醒する。大きく目を見開いて、完全に固まる私を見て、フィリアスさんの口元がふんわりわずかにゆるむ。
「おはよう」
ベッドのなかで、ぎゅうと硬い腕に引き寄せられる。
「え、これも夢?」
「夢じゃない」
すぐ近く、直接鼓膜を震わせるように、フィリアスさんの声がする。確かにこれは、夢じゃなさそう。
「……い、いつからそこに?!」
「4時間前」
「出張、終わったんですね?」
「終わってない」
「ん? もしかして……出張先から抜け出してきちゃった、とか?」
「うん」
「うわぁ、ハーフォードさんに怒られそう」
「ハーフォードだって、こっそり帰ってきてる。朝までにあちらに戻っていれば、支障はない」
フィリアスさんは、天井に視線を投げた。上の階には、ニーナさんたちの寝室がある。なるほど、兄弟ともに勝手に脱走してきたらしい。
「本当は、状況が許せば毎日帰ってきたい」
「フィリアスさん、それはもう出張じゃないよ。単なる遠出」
私は思わず笑ってしまう。フィリアスさんは体を少し離して、じっとこちらを見てから、つられたように目元を和らげた。
「時間だ」と低くつぶやいて体を起こすと、ぽとん、と私の目の前に、小さめの黒っぽい瓶をひとつ置く。
「わ、何ですか? ジャム?」
身を起こして、瓶を持ち上げる。どろりとした何かが、半透明の黒いガラスの向こうで動いた。
「ハチミツ。気になるみたいだったから」
「……フィーさん、やっぱり私たちの夢、つながってます?」
どうも変だとは思ったのだ。だって会話の内容が、やけに現実的すぎた。フィリアスさんはわずかに眉を下げる。
「……嫌か?」
「いや、ではない」
「うん」
たった一言、ほっとした気持ちを全部載せたような声を漏らして、フィリアスさんはのそりとベッドから立ち上がる。私の左手をすくいあげ、手のひらを自分のくちびるに押し当てた。
「《守護》」
小声の魔術語が、直接肌に吹き込まれる。
息のくすぐったさと、熱さと、全身を確かにぐるりと魔法で守られていくやわらかな感覚にとらわれて、世界が止まる。
もういちど、私の手のひらにくちびるを寄せてから、フィリアスさんの姿が青く光り、あっという間に消えた。
……私は、ぱたりとベッドに倒れ込んだ。
右手にもらったばかりのハチミツの瓶を握りしめて、布団を頭からかぶって、もぞもぞと体をまるめこむ。
ほんの少し、フィリアスさんの香りがして。だめだ。眠れる気がしない。
いつもだったら飛び起きて、何かを筆写して気持ちを切り替えられる。でも、今は、手のひらにささやきかける、伏し目の顔から逃げられない。左手が熱くて、とろとろになってしまいそうだ。右手でハチミツの瓶ごと胸に抱え込んだ。
魔術師の友だちも多いから、私は知っていた。
魔術師の口は、魔術を紡ぐ。
魔術師の口は、魔術の要。この上なく大切な、守るべきもの。
それを相手に触れてゆだねる。
——それは、自分の命を、あなたにゆだねる、ということ。
特大の愛情表現を、やり逃げされてしまった。ずるい。かわいい。思った瞬間、全身、ハチミツみたいにとろりと溶けた。
もう、元の自分に戻れる気がしなかった。
その3日後の午後、フィリアスさんが目の下に盛大な隈をこしらえて帰ってきた。
当たり前のように、高原のお家に帰って晩ごはんを食べる。寝不足が極まってぼーっとした顔のフィリアスさんに、当たり前のように手を引かれて行ったら、そこはフィリアスさんの部屋だった。当たり前のように、のそのそとベッドで抱き枕にされて、本当に当たり前のように、ふたりで熟睡した。
当たり前って、なんだろう??
週明けからは、魔術科で通常勤務が始まる。
これを当たり前にしてしまって、大丈夫かな?
と思ったら、大丈夫じゃなかった。
ちょっと大変なことになりました。




