(1−4)マギーともじゃもじゃ②
「えっ、いつから?」
軽く口を開けてこぼしてしまう。ぜんぜん気づかなかった。気配を消すのがうますぎない? いや、書くのに夢中になりすぎる私が悪いのか。
閣下は答えず、ずいっとノートに顔を近づけた。しばらくそのポーズで静止した後、ゆっくりとノートを持ち上げ、自分の膝の上に置いた。長くてすらりとした指で、ペラペラと、前の方までページをめくっていく。そして、灰色のもじゃもじゃで半分覆われた顔を、こちらに向けた。
「魔法陣は?」
ああ、この人は、昨日言ったことを覚えていたのか。合点のいった私は、驚きながら床に置いてあったリュックを持ち上げ、がさごそと中を探った。
仕事あがりの私はたいてい図書館にこもっているし、コールあたりに居場所を聞いてやってきたのかもしれない。突然フィリアス・テナント特級魔術師閣下に話しかけられたコールは、さぞかし肝を冷やしただろう。
それにしても、こんな大したこともない件のために、わざわざ閣下が出向いてくるなんて。昨日は裏庭のベンチで昼寝していたみたいだし、なかなか気さくな人なのかもしれない。
「こっちのノートは、図書館の写し用なんです。魔法陣を写してあるのはこっち」
閣下の膝にあるノートを手をのばして回収し、代わりに今朝から持ち歩いていた1冊を載せる。
彼はすぐ、黙って読み始めた。
腕時計を見ると、閉館20分前だった。そろそろ帰る準備をしたほうがよさそうだ。文房具とノートをしまい、目の前にある貴重なマルタ帝国創立国記を、頭から読み始める。この国の言葉とは違うけれど、習得済みの言語だから読む分には問題ないし、写すのが一番好きだけれど、読むのだって楽しい時間だ。
閉館を告げる鐘がなる。ゆったりと、ひとつ、ふたつ、三つ。
ぱたり、と閣下と私は、同時に表紙を閉じた。
私は立ち上がりながら、閣下を見た。閣下も立ち上がりながら、さらっと自然な動作で、私のノートをローブの内側にしまい込んだ。え、何で?返してくれないの?
「他の写しは?」
「魔法陣のノートは、あと2冊あります。家に」
「見る」
「わかりました。明日持って、」
「今から」
「え?」
「今から」
淡々と、しかし有無を言わせない口調で宣言するなり、閣下はすたすたと歩き出した。足が長いから、歩くのもすごく速い。
私は状況が理解できずにポカーンと口を半開きにしたまま、ほぼ小走りでその背中を追いかける。我に返ったのは、
「マギーちゃーん」
と帰り支度をしたアンナさんが、受付カウンターでゆっくり手を振っていた時だ。
「アンナさーん」
と返す私の口調は、確実に震えていたと思う。ふわっと優しいアンナさんの癒しの笑顔がピタッと固まったのは、だいぶ先を歩いていた閣下がなぜか引き返してきて、すっと私の後ろの方に立ったから。
さすが、一度対応した利用者の顔と名前を忘れないアンナさん。その灰色もじゃもじゃ男性が誰なのか、一目でわかったらしい。言葉を失って閣下を凝視したアンナさんの瞳が、キョロ、っと私に向けて動いた。「何なの?」とその目が言っている。ですよね、私が一番それを知りたい!
背中からちょっと離れたあたり、存在感が強烈だ。私はおそるおそる肩越しに軽く振り返って、閣下を見上げる。
「あの、テナント閣下」
もじゃもじゃで表情がわからないけれど、伝われ!私のこの気持ち!
「私は本日、こちらのアンナ・ケイブ1等司書官と、自宅で夕飯を食べる予定でして……」
「一緒でかまわない」
はい、伝わりませんでした!……わかってた!
自宅では、兄が夕飯を用意してくれているはずだ。ごめんお兄ちゃん、今日はとんでもないゲストを連れて帰るよ。断れなかったよ。
私とアンナさんはぎこちなく顔を見合わせた。「ごめんね」と声を出さずに口の形だけでコソコソ言うと、「いいのよ」と優しい言葉がやはり控えめな口パクで返ってくる。
アンナさんは、ぎゅっと両手を握って、覚悟を決めたみたいだった。「よろしくお願いします」と閣下に笑顔で会釈してから、すばやく図書返却完了のサインを書類に記入し、すばやくマルタ帝国本をカウンター奥の鍵付き棚にしまい込む。とぼとぼ足取り重く歩き出した私の横にすばやく並んで、少し後ろからついてくる閣下にチラリと目をやった。そして、すばやくささやきかけてくる。
「なになに、マギーちゃん。何でテナント様と一緒にご飯を食べることになってるの? もしかして、アプローチ? アプローチされてるの??」
異様にすばやい動きで、何かの期待に顔を輝かせるアンナさんを見て、私は恐ろしさのあまり、無言でふるふると首を振った。絶対そういうのじゃない。
魔術師には、魔術のことになると探究心が振り切れて、常識の向こうまで爆走する人がいるのだ。学生時代から、そういう例をこれでもかというほど知っている。
言ってみれば、閣下だって、すっごく好奇心の強い犬みたいなものだと思う!
たぶん。