(9−1)マギーのまどろみ
深くて暗い、どろりとした世界の底で、私は膝を抱えている。
ひとりだった。
誰か、とても大事な人が、いた気がする。
思い出せない。
「マギー」
誰かが、呼んでいる。低く、祈るような声で。
それは、私の名前? 私の名前は、でも、
「マッジ」
やさしい、女の人の声がした。
「ママ!」
私は嬉しくなって、立ち上がった。そうだ、なんで忘れていたんだろう。私の名前はマッジだ。
「マッジ、レモンポセットできたよ」
「パパ!」
大きな手が、私に冷えたグラスを渡してくれる。見上げると、ニコニコの笑顔。テンス兄さんにすごく似ている。
いや、そんなはずない。だって、テンスお兄ちゃんは私の4こ上で、まだ7さいで、とくいなのはバク転で、大きくなったら王宮のきしさまになるんだって。
レモンポセットを一口、のんだ。
どんな味なのか、思い出せない。
悲しくなって、やみくもに走り出す。
「マッジ!」
パパとママの声が追いかけてくる。忘れなきゃ。だって、私は、
目の前のドアを開けた。
「おかえり、マギー」
古書店が広がっていた。だって、私は、お父さんの子どもなんだから。
お父さんは、店の隅に置いてあるどっしりとした揺り椅子に座って、本を読んでいる。
「悲しいことがあったの」
私は半泣きになりながら、お父さんの膝によじのぼる。
「そうか、そういう時には、一緒に本を読もうか。今日は何の本にする?」
私と父の膝に、大きな体のオオカミ犬が顎を乗せて、元気よく尻尾を振っている。とってもかしこい、男の子のアレク。私のもう一人のお兄ちゃんみたいな、優しい犬。
「アレクみたいな、オオカミさんが出てくる本!」
「よしきた!」
お父さんが選んで読んでくれる本は、いつも心おどって、素敵な飾りがページについていて、素敵な文字が並んでいた。
なんて書いてあるんだろう。
私は知りたかった。
ここに書いてあることを、お店の本が教えてくれることを、全部、全部私のものにしなくちゃ。
だって、私は、お父さんの子なんだから。
血がつながっていなくても。流行り風邪で死んでしまったパパとママが、時々夢に出てきても。
夢中で本を読む。書き写す。
知れば知るほど、知らなきゃいけない気持ちが湧いてくる。
もっと、もっと。
広い世界を。
もっと、もっと。
ここにいる自分を、忘れるくらいの、深い世界を。
本と文字の森をかき分ける。奥に進んでいく。
深くて広くて居心地が良くて、そこはとても幸せで、そして、とても孤独だった。
深くて暗い、どろりとした世界の底で、私は膝を抱えている。
ひとりだった。
膝を抱えながら、頭上で踊る、美しい文字を見ている。
過去の誰かが記した、文字と記憶たち。
ひらひらと、頭上で揺れる。
次はどれを写そうか。
私のペンは、どこだろう。
はらり、と、足元に、ひとつ、何かが落ちた。
あの、ジュール紋だった。
——この、美しいものを使って、誰かを傷つけた? 殺した?
誰が? 私が?
うつむいて、膝頭に顔を押し付ける。怖い。とたんに息の仕方がわからなくなる。何よりも居心地の良くて、安全なはずの場所が。
こわい。
ふいに、大きな手が、暗闇の中で、ぎゅっと私の手を握った。あたたかい。
少しためらって、おずおずと握り返すと、ぐいっと引っ張られる感覚があった。
「マギー」
私を呼ぶ声がする。
逆らわず、身を任せる。
引き寄せてくれる、この手を知っている。いつでも、私を、守ってくれる手だ。
こわばった体がゆるりとほどけて、ふわりと浮き上がる。
目覚めると、思ったとおりの人が、私の右手を握っていた。ベッドに横たわる私のそばで、ぎゅうぎゅうと、まるで縋り付くように。
「フィリアスさん」
左手で、ぽんぽん、と握りしめてくる手の甲を優しく叩いた。
「フィリアスさん。フィーさん。大丈夫。ありがとう。心配かけて、ごめんなさい」
いつもは表情に乏しいその顔が、くしゃりと歪んだ。気を失う直前に見たのと、同じ顔だった。いやだな。笑ってほしい。
一緒に笑えること。一緒にやれる、楽しいこと。たくさん、たくさんある。
「明日、起きたら、一緒にフラップジャック、焼きたいです」
「うん」
「いっぱーい、フルーツ入れたやつ」
「うん」
へへ、っと私は笑った。
「楽しみ」
つられたように、私に向けられた顔も、くしゃりと歪んだまま、わずかに、笑った。
やくそく、とつぶやいて、大好きな、大きな手をぎゅっと握った。安心する。そして私は再び眠りに落ちていった。
もう、怖い夢は見なかった。
「マギーちゃん、どうだ」
部屋に入ると、ハーフォードはフィリアスの背中にそっと声をかけた。
「一度目を覚まして、また、寝た」
ベッドサイドテーブルに置かれた小さなランプだけが、フィリアスの顔を淡く照らしている。
じっと、マギーの顔を見つめ続けるその目が赤いことには気づかないふりをして、ハーフォードはそのくせっ毛の銀色の頭に、手のひらをのせた。
「お前も、少し寝ろよ」
「眠りたくない」
「そうか」
驚きを顔には出さず、ハーフォードは短く答える。手のひらの下のフィリアスは、いつもより背を丸め、すこし小さく見える。
「彼女といると、いつも、明日の約束になるんだ」
フィリアスはじっと、自分の両手のひらを見た。
「寝る前に、彼女の声を思い出して、そうか、明日はあれをするのかって考える。彼女は明日どんなふうに笑うんだろう、って思う。それで寝て起きて、目を覚ました自分に、なぜか、がっかりしないんだ。師匠みたいに眠って、すべて終わりにしたいはずなのに。いつの間にか、また明日の約束をしている。終わらないんだ」
フィリアスは、うめくように言った。
「怖い」
「そうか」
「彼女を失うのが怖い」
「そうか」
「なにより怖い」
「それが普通ってもんだよ」
ハーフォードは笑って、フィリアスの頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「俺たち魔術師は、普通じゃないからな。しがみつける普通には、全力でしがみついとけ」
「フォード兄」
頼りない小さな声で、フィリアスが名前を呼んだ。子どもの頃のように。
ハーフォードはあの頃のように、ぽんぽん、と彼の頭を軽く叩くと、静かに部屋を出た。
続きは、明日、投稿します。
この9章で、ひとまずの区切りを迎えます。
最後までお楽しみいただけたら嬉しいです!




