(8−2)マギーと見知らぬ魔術師①
「朝ごはんが、美味しくなかったんだよね」
ゆっくりと、目の前の声が言った。すこし高めの、少年のような声色だった。
「だから、来ちゃった」
微笑む顔は、少年のようにも、少女のようにも見える。フィリアスさんの腕が、私を肩からぐいと引き寄せ、きつく抱き込んだ。
「君がさぁ、躍起になって首を突っ込むから」
白銀の髪を揺らしながら、魔術師は頬杖をつき、空いている方の指先で、ぶらぶらと気だるげにフィリアスさんを指す。
「たったの3日間で、よくやるよねぇ。せっかく記憶を消したジュールたちの脳みその中を、ぜーんぶ繋ぎ直して。そこから洗い出した奴らを、ぜーんぶ捕まえて。ほら、君の一番若い部下、なんだっけ、コール・デネリーだっけ。彼なんかもう、過労で死にそうじゃない。かわいそうに」
同情し切った口調で、魔術師は眉を下げた。はぁ、と、やる気のなさそうな息がこぼれる。
「それでさぁ、あのパンパンに太った内務省のおっさん、えーっと、ギールグッドなんとか次官。あいつが今朝やってきちゃってさ。なんとかしろー、って言うんだよ」
あはは、偉そうにねぇ、と、歌うように、他人事のように言ってから、大きな瞳がじっと私のことを強い力をたたえて見た。
「そこのマーガレットさんが手に入るって自信満々に言うから、茶番に付き合ってやったのに。こんなの暇つぶしにもならないじゃん。ねぇ? だからもう、いらないなぁ、って思って適当な魔法陣を試したら」
くすくす、と、無邪気が笑い声が、形の良いくちびるから、漏れた。
「ぽん、って」
細い人差し指が、くるり、と空中で円を描いた。何かを軽くかき混ぜるような仕草で。
「ギールグッドの頭が爆発しちゃった。こっちは、せっかく朝ごはんを食べようとしてたのに、台無しだよね」
まるで接客が残念なレストランの感想でも話しているように、あっさりと言う。私は息をつめ、フィリアスさんの腕の力が強くなる。
「それで、たぶん今、廊下がバタバタしてるんじゃないかな。ごめんね。掃除が大変で。片付けを手伝うのも面倒だしさぁ、もう、帰ろうかと思って。マーガレットさんと一緒に」
それから、私にだけ場違いなまでに人懐っこい、打ち解けた笑顔をまっすぐに向けた。とたんに大きくて、あたたかいもので、やさしく視界がさえぎられる。フィリアスさんの手だった。
「見るな」
耳元で、ささやく声がする。凍りついて機能不全を起こしかけている私の心を、あたためて守る声で。
「あれは、毒だ」
「はは、何言ってんの。君も同類でしょ。でも気持ちはちょっとわかるかな。マーガレットさん、最高だもんねぇ。いや、むしろ、よくわからないかな。どうして、盗られないように、誰にも触れられないように、隠しておかないの。ねぇ?君、もしかして馬鹿なのかな?」
その言葉尻を打ち消すような激しさで、ガチャガチャと執務室のドアノブが揺れる音がした。はは、と楽しそうな声がする。
「お客さんが来たみたいだ。でも、思い切り魔力を使って鍵をかけちゃったからなぁ。たいていの人には開けられないと思うよ」
揺れたドアノブが静かになった。と、次の瞬間、ジュッっと何かが焼けつくような、蒸発するような音。鼻をわずかに焦げた異臭が抜ける。
「はっ、想定外の登場で悪ぃな」
聞き慣れた、低くて頼もしい声に、私の目を覆い隠していたフィリアスさんの手が下がった。
ハーフォードさんが、入り口に立っていた。
ドアがあったはずのスペースは、ぽっかり空白になっている。その足元には、灰が積もっていた。たぶん、直前まで重厚な木のドアだったもののなれの果てだ。
灰を蹴り散らし、ローブの裾を汚しながら、ハーフォードさんは悠々とこちらに歩み寄る。ゆっくりと私たちをかばって前に立った。平然とした大きな背中に、守られる。
「凶暴な人って、好きじゃないなぁ」
頬杖をついたまま、細い少年の声が言う。硬く力強いハーフォードさんの声が、はねつけるように返した。
「同感だな。魔術で人ひとり殺しておいて、どんな罰が待ってるか、わかってるよな」
「うーん、知らないなぁ。この国では、火あぶりだっけ。それとも、磔だっけ。古くさいなぁ。あ、それとも銃殺?ま、関係ないけどね。だって、どこの国にも属してないし。君たちと違って、自由なんだ」
「人殺しに、自由なんてねぇよ。この国の犯罪は、この国の法律で裁かれる」
「へぇー。あいつ、人だったんだ。自分のために、隠れて何人か殺してたみたいだから、とっくに人間やめたのかと思ってた。だからねぇ!」
魔術師の声が、一段と、はずむように高くなる。
「ほら!マーガレットさんの写してくれたジュール紋!あの紋を逆さに使うと、人を呪えるでしょ? ギールグッドで試してみたんだ。そしたらさ、頭があっさり爆発しちゃった」
興奮に輝く瞳が、私を見る。すぐに顔が、フィリアスさんの肩口に押し付けられる。何も見えなくなる。
「見るな」
「すごいねぇ、マーガレットさんの描く力。——ぽん、って!!」
私の頭がガンガンと脈うった。吐き気が胸を詰まらせる。
——私の、写したものが、誰かを、傷つけた?
「魔術をどう使うかは、それを使う者に責任がある。だから、君には、関係ない」
フィリアスさんが、私の耳元で、低く、ゆっくりと言う。
「だから、こっちに責任があるって?」
馬鹿にするように、応える声がする。
「あんな美しい紋を、使わないでおくなんて、できるわけある? ああもう、本当に馬鹿らしいな。とっととお暇しよう。でも、その前に、マーガレットさんのもう一つの傑作を見たいなぁ」
私は頭の後ろを包み込むフィリアスさんの手を引きはがす勢いで、振り返る。嫌な予感がする。魔術師は、意気揚々と、言った。
「《展開》」
青い大きな光とともに、一つの魔法陣が立ち上がっていく。
それは、あの高原で私が書き写した陣の形そのものだった。
「これだけ大規模な陣だと、完全に展開するまで時間がかかるのがネックだよねー。しかも時々じゃれついてくる」
面白そうにつぶやきながら、小柄な人影が立ち上がる。青い魔法陣から伸びる文字が、鞭のようにしなり、あばれ、震える。魔術師の手から逃れ、自由に、思うまま、衝動の限りを尽くしたいように。
「マジかよ、妨害用に入れといた文字がない。あいつ、オリジナルの陣をコピーして使ってやがる」
ハーフォードさんが大きく舌打ちし、素早くこちらに振り返った。
「フィー、このままだと完全形で発動するぞ。退避!」
「わかってる」
短く答えたフィリアスさんの体の中で、何かがうごめく気配がした。ハーフォードさんが、こころえた動きで傍に飛び退く。
一瞬にして、青い光が迸った。宙にかざされたフィリアスさんの右手から、魔力に満ちた文字がうねり、絡み合い、複雑な一つの陣を目まぐるしく成していく。
私の目は、綴られた文字を追って気づく。それは、すでに完成しつつある向こうの陣と、同じものが使われているように見えた。
ただ、フィリアスさんの陣は、まったく様子がおかしかった。外側から埋まっていく。こんな陣の描き方、みたことがない。
——終わりからさかのぼって、陣を生成している?!
別物のようにおとなしい文字たちが、完全なる秩序を保って、まっすぐに外側から内側に空間を埋めていく。
彼のやろうとしていることに気づいて、とっさに顔を見上げる。
——陣を逆さに使う。その陣の元の効果を、そのままひっくり返す。すなわち強い破壊と怨嗟の魔法陣を、その効果を打ち消す強固な守りの魔法陣に。
青い光に照らされたその顔は、いつもと同じ冷静さをたたえたままで、しかし、私が見ていることに気づいて、ほんの少しだけ、口角が上がった。ぐっと腰を抱き寄せられる。大丈夫だから、と、手のひらから言外に伝わってくる。
『魔術をどう使うかは、それを使う者に責任がある。だから、君には、関係ない』
フィリアスさんの言葉が、脳裏によみがえる。この人は、このやさしい人は、それを私に見せてくれようとしているのか。
「へぇ、逆打ちかぁ。無詠唱で立ち上げられるの。しかもスピード早い。安定してるなぁ。面白いね、君。それ、やっぱりマーガレットさんが写した陣の完全複製だよね。よかった!見たかったんだ! こっちのオリジナルコピーと比べたいなぁ。せっかく苦労して盗み出したあの偽物の複製、よけいな仕掛けのせいで、魔術師ひとり廃人にしてるからねぇ。マーガレットさんの、本物の、しかも逆打ちの陣だと、どれだけ効果が出るのか楽しみだなぁ。せっかくだから、ちょっと待ってようかな」
くすくすと、また、無邪気な笑い声が転がる。
ハーフォードさんの腕が、横から伸びてきて、私の頭に触れた。あたたかいものが、全身に流れ込んでくる。きっと守護魔法を重ねがけしてくれたのだ。
「マギーちゃん、巻き込んですまん。王都ぶっ壊すわけにもいかないから、ちょっと移動するわ」
いつもよりほんの少しだけ早口で告げると、あっという間に、私たち3人を、青い移動魔法の光が包み込んだ。




