(7−4)フィリアスと眠らない夜②
あの日はそれから、移動魔法で一気に王都に飛んだ。おとり作戦に備えて、ハーフォードの執務室に移動し、関係者たちと顔を合わせる。
「それじゃぁ、おとりになってきます!でっかい大物が釣れますように!」
そう元気に宣言して、友人のシャーリー・ミルズと一緒に執務室を出ていったマギーは、見たことのない華やかなオレンジ色のワンピースをまとっていた。
「フィー、いいのか、あれ。今日は遠くから見守ってるだけで」
ふたりを見送ったハーフォードは、椅子から立ち上がりながらニヤついた。
「今日のマギーちゃん、絶対モテるぞ。かけてもいいね、ナンパされるぜ、あれ」
きびすを返し、無言で部屋を出て行こうとするフィリアスの腕を、「待った!」とつかむ。
「彼女を追いかけてもいいが、その特級魔術師閣下の姿だと、獲物がおびえて出てこねぇよ」
パチリとハーフォードの指が鳴る。避ける暇もなく、フィリアスの体は犬に変わっていた。
「久しぶりだな、その姿。子どもの時はよく犬に変えられてたよな」
この世界には、フィリアスが生まれたファーレン国以外にも、銀髪を忌避する国がいくつもある。そういう地域に行くときは、魔法で髪の毛の色を変えるのが一番早い。
だが、師匠がほんの数刻の用を済ませたい時には、ハーフォードとフィリアスだけ、気まぐれに犬の姿にされることもあった。
『たまには自分以外の何かになるのも、目線が変わっていいだろ。ほら、自由に遊べ』
灰褐色の髪の毛を揺らしながら、くつくつと師匠は笑っていた。
犬だと思うと、途端に人々は警戒しなくなる。
『まぁ、可愛いワンちゃんですね』と、撫でてこようとすることすらあった。たいていそういう時は、フィリアスは大きくうなってハーフォードの後ろに飛んで逃げ、ハーフォードは大人しく人間に頭を撫でさせた。
久々に、そんな犬の姿に勝手に変えられ、フィリアスは低く威嚇のうなり声を上げた。
大人になった今だったら、犬の姿でも、魔術を自由に使うことができる。「お前も犬にしてやろうか」と込めた念が伝わったらしい。ハーフォードは余裕の笑顔で、自分自身に守護魔法をかけてみせた。
「遠慮しとくよ。俺が犬になるのは、今は嫁の前だけって決めてんだ。嫁以外に撫でられたくないだろ」
相手をするのが馬鹿らしくなったフィリアスは、さっさと移動魔法を発動する。マギーの気配を追って、近くに飛んだ。
楽しそうに話しながら歩く彼女たちの後ろを、しばらく離れてついていく。カフェのテラス席に落ち着いたのを確認する。
「お、あの子たち、かわいくない?」「声かけようぜ」——道の向こう側で言った男たちが、店に向かって歩き出した途端、魔術で足をすくう。思いっきり転んだのを見届け、マギーの足元にうずくまった。
すぐに彼女に抱き上げられる。師匠とハーフォードとその嫁以外の人間に、犬の姿で触れられるのを許したことはなかった。でも、この腕の中にいれば、すぐに防御魔法を発動できて合理的だ。そして、彼女はあたたかかった。
犯人たちは、思っていたよりあっさりと、その姿を現した。
事前にハーフォードから聞いていた通り、マギーの同僚の女だった。
追い詰められ、ボロボロの表情でマギーに手をのばす女の手のひらには、移動魔法の陣が転写されていた。魔力のない人間でも、発動することができる陣だ。ただし、その人間の生命力と引き換えに。一種の禁術だった。もし発動して、マギーを目的の場所へと転移させたら、その代わりに女の寿命は強制的に大きく削られていただろう。下手をすると、死んでいた。
人間の姿に戻る必要もなく、フィリアスは女の禁忌の術を跳ね返した。多少、力加減を調整しながら。
一歩遅れて現れたコール・デネリーに事態の収拾を任せながら、フィリアスは、ふと、別のところに意識を引っ張られる。
気配がする。
まだ、遠くで。
こちらの様子をうかがう魔力の気配。
こんな遠距離から、索敵魔術を使えるなど、普通の魔術師ではまずあり得ない。フィリアスと同等の力か、あるいはそれ以上。
人形の記憶に残っていた、白銀の魔術師の顔が脳裏に浮かぶ。
フィリアスと同類の色を持つ人間。
少年のようにも少女のようにも見える顔に、退屈そうな表情を浮かべながら、それでもじっと、マギーの人形を観察する、あの目。
来るか。
フィリアスの犬の体が、わずかに緊張を帯びる。毛が逆立つ。
自分の魔力を帯びた気配を、四方に一気に広げた。殺気、と言い換えてもいいかもしれない。
コール・デネリーとシャーリー・ミルズが、瞬間、こちらを見た。フィリアスの警戒の理由に気付いたのか、目を見合わせてわずかに身構える。
来るなら、早く来い。
気持ちのままに、変身魔術を解こうとしたとたん、そろり、と向こうの魔力が引いた。
そのまま、まるで何事もなかったかのように、掻き消える。
気配の消えた方向を、じっと見る。
しばらく経っても、もう、何も動かなかった。今日は諦めたのか。
でも、明日は? あさっては?
フィリアスは、考える。このままあの気配のあった方に、すぐさま飛んでいくべきか。
「サティ先輩」
ふいに、マギーの口から言葉がこぼれ落ち、ぎゅう、とその腕がフィリアスの体を抱きしめた。彼女の体が小刻みに震えているのを感じた瞬間、フィリアスは、かなたの魔術師のことを忘れた。
視界の端で、手のただれたサティ・ハンズリーが、すすり泣いている。
犬の首すじに顔を埋めたまま、マギーはつぶやく。
「ごめんなさい、フィーさん。しばらくこのままで」
人間に戻るタイミングを完全に失ってしまったフィリアスは、そのままじっと、体をこわばらせる。
やがて、顔を上げた彼女は、
「あーあ、たぶん今晩はブイヤベースを食べにいけないなぁ、残念」
そう言って、涙目で、歪に笑った。
——『あの子を悲しませるなよ』
ハーフォードの言葉の意味を、フィリアスはその瞬間、初めて、完全に理解した。
理解して、腹から激しく湧き上がってくる何かを、押し殺した。暴れ回ろうとする何かを、何度も、殺した。感情に引きずられたら、いけない。制御できない心と体は、いらない。師匠のようになりたかったら、それは全部、いらない。子どもの頃から、フィリアスはそれを知っていた。
ハーフォードの執務室に戻って状況を全て確認し、高原の家に帰る。いつも通りの笑顔を浮かべ、しかし口数が少ないマギーと夕食をとる。
穏やかな眠りはいつまで経っても訪れず、暖炉の前にうずくまる。
やがて、居間のドアが開けられる音がした。
「まだ起きてたんですか?」
そう言った彼女は、泣きそうな顔で、でも、フィリアスの顔を見て、心の底からほっとしたように、笑った。
もう、だめだ。
フィリアスは、静かに思った。
彼女を悲しませるやつは、全員、息の根を止めてやる。




