(1−2)マギーと特級魔術師閣下
「で、僕のところに持ってきちゃった、と」
本日のAランチのクリームチキンをぱくりと頬張りながら、コール・デネリーは呆れたように首を振った。王宮魔術師の黒いローブにつけられた、2級魔術師の赤銅色のバッジも揺れる。
「マギーさぁ、王立学院の普通科だったよねぇ。それで君みたいに古代魔術語が読める人ってどのくらいいると思う?」
「やめて、人を尋常じゃないみたいに言わないで。私だって、何が書いてあるか、ちゃんと理解できてないもん」
きちんと解読したくて、学院の同級生でサークル活動仲間だったコールをランチに誘ったのだ。何か参考になる本があるか聞いてみたくて。相談内容が内容だけに、あまり人目につかない方がいいかと思い、王宮内の職員食堂からランチボックスをテイクアウトして、魔術研究棟の裏庭にある丸テーブルを二人で囲んでいた。
魔術師のランチ時間は決まっていない。食堂が混雑する時間帯を避け、思い思いに食べる。だから、私のような一般文官が昼休みをとる今の時間帯も、憩いの場である裏庭は閑散としていた。
「古代魔術語だって気づいただけでも尋常じゃないって。ちょっとは自覚しといた方がいいよ」
また一切れ、チキンがコールの口の中に消えていく。さらに彼は、もう一つのランチボックスに手を伸ばした。白身魚と野菜のソース煮が入っていて、こちらが本日のBランチだった。一気に両方を完食できるなんてうらやましい。
魔術師はびっくりするくらいよく食べる。その割にはたいてい細身で、食べても食べても魔力に変換されて消えていく、らしい。
コールも例外ではなく、学生時代、肉の塊を魔法の炎で炙っては、サークルの部室でしょっちゅうもりもり食べていた。魔法陣研究サークルだったから、他の活動メンバーもたいてい魔術師で、一緒にもりもりもりもり食べていたけれど。いやあれは、魔法陣研究会というよりは、ほとんど大食い選手権サークルだった気がする。コールは高身長と、短い金髪に似合ったさっぱりと涼しげな面立ちで、普通科の女子たちから遠巻きにきゃぁきゃぁ憧れられていたけれど。その実態を知られていたら、だいぶ扱いが違っていたような。
あっというまに食べ終わり、「うーん、腹6分めだなぁ」とつぶきながら、ようやっとコールは私の話に真剣に付き合うことにしたらしい。
「ハリー先輩って、あのハリー・ベンズリーだよね。コミュニケーションお化けの」
「そうあのハリー先輩」
部室で肉を焼いていると、どこから匂いを嗅ぎつけるのか、ハリー先輩もなぜか部員に混じっているのだ。私と同じ普通科で、まったく魔法にも魔法陣にも関係ない士官養成コースの学生だったのにもかかわらず。
鹿肉やら猪肉やらの大きな塊を片手に下げて、毎回ニコニコ現れるものだから、いつの間にか準サークル員みたいな扱いになっていた。
「そりゃ大変だ。あの人に頼まれると、何だか断りづらいのって、何でなんだろうね」
言いながら、コールは手紙をためつすがめつ眺めている。それからふいっと視線だけを私の方に寄越した。
「この透かし、さっきちゃんと理解できてない、って言ってたけど。マギーなりに分かってることもあるんでしょ?」
サークルメンバーの中でも、コールはかなり深く魔術の勉強をしていた方だった。5年間の在学中、一緒にいろいろやってきたし、お互いの技量は大体わかっている、と思う。
私は肩をすくめてから、手紙を指差した。人差し指でくるくる宙に円を描くようにしながら、言葉と一緒に自分の考えをまとめていく。
「仲間か家族か恋人か……とにかく誰か大切な人を守護するための言葉が書かれているように読める。『太陽と月に守られて、私はあなたと共にある』って。ただ、自信ない」
「うん、そうだねぇ、」
コールは笑って、左手をパチリと軽快に鳴らした。
「正解。古代ジュール語ってのも合ってる」
「これって現代でも魔術が発動する魔法紋?」
「どうだろう、これを相当強い魔力を持つ人が書き写して、言葉の意味を完全に理解して、正しい方向で力を流したら、何らかの魔術が発現するかもしれない。マギーやハリー先輩みたいに魔力のない人間だったら、持っていても無害な紙だと思う。でも、」
うーんとコールはうなりながら、手紙を放り出し、腕組みした。たぶん同じことを考えていると思う。私もつられて腕を組み、慎重に言葉を選びながら、口を開いた。
「でもジュールの言葉なんて、学院の授業でも教わらないし、魔術師試験にも出ないよね。たぶん魔術師でもかなりマニアックな人しか知らない。なのに、この便箋に透かしで入っているのって、すごく不自然な気がして……」
「うん、そりゃ僕は魔術マニアだけどね」
大げさなため息が、目の前で漏れる。次に言われることが容易に予測できた私は、さっと手を伸ばして自分のランチボックスに残っていたパンをとり、すかさずコールの口に押し込んだ。
不満そうに眉間にシワを寄せて、もごもごと口を動かすばかりのコールに、ふふーんと胸を張る。魔術師の友だちから不都合なことを言われそうになったら、こうやって黙らせるのが一番手っ取りばやい。
しっかりと飲み込んで、お茶を一口含んでから、コールは諦め悪く言った。
「でも、それと同じくらいの知識を持ってる君はマニア通り越してるからね。って、聞いてる?」
「聞いてない」
コールの肩越し、その向こうで、不意に何かが動くのが見えたのだ。
気を取られてじっと見つめていると、遠くの木立の下のベンチから、むくり、と黒い影が起き上がる。
と思うと、見る見る間に、なぜかこちらに近づいてきた。
黒のローブに銀の刺繍は、王宮魔術師のあかし。灰色のくせっ毛がもさもさと頭に渦巻いて、目の下まですっかり覆い尽くしている。どこかでこういう犬を見た気がする……と思っているうちに、私の目線に気づいたコールが振り返り、弾かれるように勢いよく立ち上がった。
「フィリアス・テナント特級魔術師閣下」
「ジュールだ」
ぴんと背筋を伸ばしまくりながらのコールの一礼がまるで目に入っていないように、その人はテーブルの上の手紙をじっと見つめている。たぶん。前髪でまったく目が見えないのだけれど。その口元から低い声がした。
「ジュール前期文字。蔦模様で魔力増強。『古ガーラー記』628ページ。なぜここにある」
必要最低限のことだけをいう人らしい。男性のローブの胸元には、金色のバッジが輝いている。その形自体は魔術師バッジ共通の三日月型。だが、黄金の月の中には、小さな宝石の星が特別に散りばめられ、純白の輝きを放っていた。
その特級魔術師バッジを持つことが許されているのは、国内では5人のみ。
全魔術師あこがれの高みにいる人だった。お目にかかるのは初めてだったけれど、案外普通の人に見える。髪の毛がもじゃもじゃしていることをのぞいて。
急に現れた閣下を前に、コールは異様に緊張し、汗をだらだらと流している。まだ春なのに、もう真夏が来たみたいな汗のかきっぷりだ。
魔力を持つ人間なら、閣下の何かが恐ろしいのかもしれない。でも、私にはそれはない。気の毒なコールを横目で見てから、立ち上がって口を開いた。
「友人がもらった手紙です。もしかしたら、市中で売られている便箋に、この模様があえて入れられている可能性があります」
テナント閣下が、こちらを向いた。
コールと同じくらいの背の高さだろうか。ちょっと見下ろされるくらいに背が高い。頬から下しか見えないけれど、抜けるように美しい肌をしているのはわかった。正直、これまで文字にしか興味がなくて、魔術師の人事の現状は全然知らないのだけれど、意外と若いのかもしれない。
閣下は、静かな声で告げる。
「この魔術紋の複写がほしい。ただし、魔力の影響は避けたい」
「魔術師が描き写すと、魔力が干渉するかもしれないからまずいということですね。でしたら私が描きましょう」
閣下はゆっくりと首を傾げた。なんとなく、しげしげとこちらを見られている気がする。
「マーガレット・レーン2等筆耕官です。文字も模様も、すべての写しが業務の一環です」
一般文官の制服ジャケットを着て、スラックスを履いているし、身分を示すバッジもつけている。筆耕官のバッジはペンの形をしているから、見ているだけでわかりやすい。それでもきちんと所属を明らかにしておいた方が良いだろうと判断し、名乗ってから、軽く頭を下げる略式の礼を取った。
いつも腰から下げているポーチの中から、紙とペンを取り出す。ゆっくりとベンチに腰を下ろした。
すぐに閣下の影がテーブルに落ちて、割と近くから遠慮なく覗き込まれているのがわかる。好奇心の強い人なのだろうか。そのままの距離から尋ねてくる。
「これは、一般の写本とは違うが」
「魔術紋の写しにも慣れています。学院では魔法陣研究サークルで活動してました」
そう言いながら、じっと手紙の透かしの部分を見つめる。慎重に観察する。上下ともに同じ模様だった。うん、これなら余裕で写せる。
「君に魔力はない」
「そうです。魔力がないので魔法陣は発動できません。でも文字の美しさに惹かれて、たくさん魔法陣を学びましたし、山ほど写しました。今度、私の写した魔法陣コレクションをお見せしましょうか」
顔をあげると、思ったより近くに閣下の顔があった。まぁいいかと思いつつ、ちょっと微笑みかけると、閣下がわずかに身を引いて距離を取った。ふわふわくりくりの灰色の毛が揺れる。やっぱり犬っぽい。好奇心いっぱいで、同時に警戒心も強い犬。
あらためて手紙に向きあう。深く息を吸い、そして思い切り吐いた。透かしの魔術紋に意識を集中する。
そこから先は、一気に写した。
最後にまで行き着いて、手を止める。肺に残っていた呼吸の最後のひとかけらを押し出して、そして私はペンを置いた。
「どうでしょうか」
閣下はじっと、私の書いた紙を眺めている。正確に写せていると思うのだけれど、反応のなさが気にかかる。もう一度写した方がいいでしょうか、と言おうとした瞬間。
「正しい描き方だ」
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼の口元が、優美な笑みの形に弧を描いた。
「君は、変態だな」