(4−4)フィリアスの大切なもの
「おやすみ」
そう言った自分自身にフィリアスは驚いた。みずから人に挨拶したのは、一体いつぶりだろう。思い出せない。
目を閉じる彼女を横抱きにして、ソファに運ぶ。横たわった上からそっと毛布をかけると、彼女はへにょり、と、幸せそうに微笑した。
向かいの1人掛けソファに座って、その姿を眺める。自分のテリトリーに人がいて、無防備に眠りこけている。不思議な気分だ。でも、悪くはない。
ローブの中から、1冊のノートを取り出す。マーガレット・レーンの魔法陣ノートだ。
ゆっくりと、めくっていく。秀麗な陣の数々に、何度見ても、ぞくぞくとした戦慄が背筋を這い回る。口元の緩んでいる自分を自覚して、またわずかに驚く。フィリアスは、あまり笑わない。笑う意味がないからだ。
「《複写》《展開》」
次々と、ノートに描かれた陣を、おのれの魔力を通して空中に描き出す。
みるみるうちに、彼女と自分の間に、青白く鈍く光を放つ無数の魔法陣が連なり、広がっていく。一枚の壁のようになったその向こうで、穏やかな寝息を立てている存在を見る。彼女は天才だ。
フィリアスは、一度描き出した陣の形を忘れることがない。彼女の描いた魔法陣を複写できれば、それは自分の陣になる。魔力効率の良い、特上レベルの陣を習得できればできるほど、一度に同時に展開できる魔法陣は増えていく。
そうして、魔力のスピードと操作を、より自然に、より複雑に、息をするようにコントロールできれば、
(師匠みたいになれるかもしれない)
展開していた20種ほどの魔法陣を一瞬で握りつぶして、目を閉じる。
耳をすます。意識を、自分の外に広げていく。人智を超えた世界の、ざわめきが五感に伝わってくる。
魔力は、自然からの借り物だ。
魔術師の体は常に外界とつながっていて、そこに満ちる様々な力を、ほんの少し拝借する。太陽の光、風、水、火、大地、それが生み出す様々な生命からあふれだす力、そして闇。ありとあらゆるものと、ほんの少しずつ繋がっている。それが魔術師という生き物だった。
魔術のレベルが上がること。それは、そんな外の世界と、より深く、分かちがたく繋がっていくこと。
自分の体が、どこまでも空気と繋がって、広がっていく感覚に身を委ねる。彼女の魔法陣と出会ってから、解放感が深くなった。
このまま彼女の力を借りて、世界を知り続けたら、一体どこまでいけるだろう。
師匠の顔を思い出す。虐げられていた5歳のフィリアスを、へんぴな田舎の村から連れ出してくれた、大きな人だった。
そのころのフィリアスは、異常な銀髪と異常なアイスブルーの瞳を畏れられ、村人に殴られ蹴られ、実の親に殺されかけていた。極端に栄養の不足した、ぼろぼろの体は紙切れのようで、いつか強い風が吹いて、どこかに飛ばされて終わることを、ひたすら願う子どもだった。
そんな彼にとって、師匠は初めて出会った魔術師で、初めて出会った風だったのだ。
探究心の強い人だった。世界のいろいろな場所に隠れ家を持っていて、兄弟子のハーフォードとフィリアスは、一緒にあちこち飛び回った。
師匠は旅をしながら、各地の魔法を研究し、おのれの魔術を研ぎ澄ました。魔力を深め、広い世界と感覚を繋げて、つながって。風や空や大地に意識が溶け込むように、ある日、とうとう目を覚まさなくなった。
魂が溶けて戻らなくなった体は、ゆっくりと朽ちていき、数週間後、静かに呼吸を止めた。穏やかな顔だった。
大きな木の下に、師匠の墓穴を掘った。残された弟子ふたりの魔術で。
18歳のハーフォードは泣いていた。
そして、8歳のフィリアスは、笑っていた。
目標を見つけたからだ。
師匠のような眠りにつけば、もう、この世界にとどまらなくて済む。
それは救いだった。
目を開ける。
師匠の家の一つ。応接ソファに、ぽつんと取り残されている自分がいた。
おのれの手を見る。無力な子どもの頃の手ではない。節ばって、大きな、25歳の男の手だ。
魔術にのめり込むうちに、特級魔術師に駆け上がり、国の一二を争う魔術師だともてはやされた。
それなのに、お前はまだ起きるのか。いつまで起きているつもりだ。
誰かがささやく。師匠の声だろうか。
そのとき、仰向けに寝ていた彼女が、寝返りを打って、こちらに体を向けた。
目の前の世界で唯一、動いているものに、目をひきつけられる。
彼女は、もぞもぞと体を動かして、ちょうど良い居所を見つけたのか、小さく満ち足りた呼吸を漏らした。毛布を顔のあたりまで引き上げて、すりすりと緩慢に頬ずりをし、満足そうにほんのりと笑った。そして安心しきった寝息が、また聞こえてくる。
フィリアスは、ふと、思いたって、小さな魔法陣を一つ、描いた。
ぽん、っと現れたオレンジ色の花が一つ、ふわりとマギーの髪に舞い降りる。
それは、明るくていつもキラキラと目を輝かしている彼女に、よく似た元気な花だった。
似合っているな、と、ぼんやり思う。そう思った自分に興味を覚えたフィリアスは、勢いのまま、ぽんぽんぽん、と魔法の花を咲かせていった。
あっという間に、さまざまな色の花が、みずみずしく彼女を埋め尽くしていく。
起きたら、彼女は、なんと言うだろう。
それを見るためだったら、もう少し、起きていてもいいかもしれない。
うっすらと、自分でも気づかない微笑みを浮かべたフィリアスは、彼女が目を覚ますまで、少しだけ仕事をすることにした。
明日から5章を投稿します。
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