(3−2)フィリアスの気になる女史②
「魔法陣の展開速度が速すぎる。威力が規格外すぎる」
執務室にそなえつけられた応接セットのソファにどっかり座るなり、ハーフォードはばりばりと両手で頭をかきむしった。あっという間に乱れた銀髪を、両手でぎゅっと頭に押し付けながら、はぁ、と脱力して、背中をソファに預ける。
「なんなんだあの魔法陣。目で追えない速度で展開できるなんてありえないだろ。魔力の伝導効率が爆発的に良くなる方法でも開発したのか」
「違う。理に則って、正しく陣が描かれているだけ」
フィリアスはありきたりな事務用ペンと紙を持って、ハーフォードの向かいに座った。サラサラとあっという間に、虹を構成する二つの陣を描き切ると、例の魔法陣ノートと並べた。
「俺が描くと、いくつか文字が歪む。ここと、ここ。ここも」
フィリアスは自分が描いたばかりの陣を指差した。ハーフォードはノートに描かれたものと見比べて、「歪みってったって少しだろ……あー、でも、なるほど」と唸る。
「魔力の伝わりが、文字の歪みで邪魔されると、魔法陣の展開速度が落ちる。それがないほど効率よく発動できるってことか。でも、こんなおそろしく精巧な魔法陣、いったい誰が描けるんだよ」
ハーフォードは信じられない思いで、ノートを慎重にめくった。次々と現れる魔法陣は、どこまでも細部までバランスよく描き出されているものばかりで、特級魔術師である彼にもとうてい真似できない緻密さと芸術性があった。
「もはや神の領域に片足突っ込んでるだろ」
お手上げの姿勢でのけぞってみせるハーフォードに、淡々とフィリアスは告げた。
「マーガレット・レーン2等筆耕官」
「レーン……筆耕官……ってまさか、今朝の女の子か!」
ハーフォードは目を剥いた。王宮の筆耕官が、とりわけ優秀な筆写能力を持っているのはもちろん知っている。でも、まさか魔法陣にまで手を出すなど、しかも魔術師以上に高度な魔法陣を描けるなど。いまここで実物を直に見ていなければ、正気の沙汰だとも思えない話だ。
フィリアスは、さらに2枚の紙を目の前に差し出してくる。
「彼女がジュールを複写したのがこっち。原本の便箋と同じものがこっち」
先日の師団長会議にフィリアスが持ち込んだ案件だ。嫌な予感がしたハーフォードは、2枚を見比べて軽いめまいを覚え、眉間を手のひらでおさえた。
「マーガレット女史が複写した方が、完全にレベルが高いじゃねぇの」
フィリアスは、おもむろに深く息を吸いこむと、
「彼女は正しいジュールの描き方を分かっていた。左から右に書くのと、右から左に書くのとでは文字の末尾の跳ね方が違う。ジュールは右から左に描くのが自然な文字だと完全に理解して複写していた。この複写であれば1等レベルの魔術師でも発動展開可能だ。ただし文字に沿って右から左に魔力を流さなくてはいけない。もし無理やり逆向きに魔力を流した場合は本来と逆の効果を持つ魔術が出現する。魔法陣の逆打ちは一般的には無理な話だが、この陣の完成度の高さでは誤った方向から魔力を通しても発動する可能性がある。おそらくそれに気づいて彼女をつけねらっている連中がいる」
そう一気に言い終え、ぴたりと口を閉ざした。
ハーフォードは言葉を失い、まじまじと弟分の顔を見た。いつもと変わらないその無表情を眺め、言われた内容を瞬間的に頭で反芻した。
それからなんとも言えない顔で、眉間を揉む。
「お前がそんなに話すの、ひさびさだな」
そのまま一呼吸待って、それ以上フィリアスがしゃべらないことを確かめてから、ハーフォードはゆっくりと口を開いた。
「要は、マーガレット女史が複写したジュール紋は、完璧すぎる。複写魔法で空中にこの紋を展開したら、魔力を本来と逆の側から流しても耐え切れる。そして、本来の意味と真逆の効果が現れてしまう。そのことを知った上で、悪用を企んでいる人間がいる可能性がある。そういう認識で合ってるか?」
フィリアスは黙ってうなずく。ハーフォードは、あらためてジュール紋に目を走らせた。
「ここに書かれた文字を普通に読むと、『太陽と月の庇護のもと、お前は私と生きる』だな。仲間や家族が、互いの結束を明示したいときに刻むやつだ。守護や援護の力を持つ。これが逆の効果になると……」
ハーフォードは、目の前の紙をくるりと逆さにして、淡々と読み上げた。
『私はお前を弑する。太陽と月の庇護は破棄される』って感じか。完全に呪いの言葉だな」
両手のひらで後頭部を支えながら、のけぞるように上を向いたハーフォードは、「ははっ」と苦く乾いた笑いを漏らす。
「どういう形で呪いに取り殺されるのか、まさか試してみるわけにもいかないが……。この逆さ紋の効果をもろに食らったら、無事じゃ済まないだろ。もし、本当にそれを狙ってる奴がいるなら、今すぐ海に沈めてぇな」
フィリアスは、複写されたジュール紋を一文字一文字、確かめるようにゆっくりと指でなぞりながら、静かに言う。
「このジュール紋のある手紙が、ハリー・ベンズリーの元に届いた。ベンズリーが、日頃から懇意にしているマーガレット・レーンに代筆を頼むのを、見通していたとしか思えない状況で」
「そして、紋に気づいたマーガレット嬢が、興味を覚えて複写することも予想済みだった。そのハイレベルな複写を、呪いの暗殺道具として便利に使いたい、と」
言いながら、ハーフォードはうんざりと首を振った。心当たりがありすぎる。
「そんな鬼畜なアイテムが欲しいやつは……まぁ、すぐ思い浮かぶな。王政復古派やら、周辺国やら」
この国は、百年ほど前に、平和裡に王政から議会制に移行している。今や貴族の爵位は名誉称号のようなもので、金と能力で地位を築き上げる時代だ。
それでもかつて特権階級だった高位貴族は、自分たちのプライドにしがみつく。彼らのうちには、隣国と手を結び、自分たちの特権を復活させようと水面下で動いている勢力がある。そのことを、王宮魔術師団長であるハーフォードもフィリアスも、うんざりするほどよく知っていた。
「やっかいだな、時代遅れの栄光に根を生やした連中は。こまめに刈り取っても、すぐに別の芽を出してくる」
ハーフォードはため息をついた。
魔術師にとって王政復活など、迷惑以外の何者でもない。過去の長い間、為政者の腹の内ひとつに、さんざん振り回されてきたのだ。異端の力を持つ存在として迫害されたり、いいように手駒にされてもてはやされ、挙げ句の果てに使い捨てられたり。これまで、あまたの魔術師の血が流されてきた。
この国で、安定して魔術研究に集中できるようになったのは、今の政治体制になってこそ、だ。権力がたった一人の人間に集中する危うさを、魔術師たちは、痛みとともに知っていた。
「王政復古派に目をつけられて、マーガレット嬢が直接連れ去られでもしたらと思うとぞっとするな。才能を悪用される未来が目にみえる。軍に話を通して、保護してもらうか」
「彼女のことは、知られたくない」
とたんに、はっきりと、フィリアスが言いきった。ハーフォードは、その断固たる口調に瞠目する。
(こいつが他人のことに首を突っ込むとは)
フィリアスにとって、魔術以外、たいていどうでもいいことなのを、ハーフォードはよく知っている。いつもと様子の違う弟分を注意深く見つめながら、次の言葉を慎重に選ぶ。
「まぁ……確かにお前の言うことにも一理ある。今の軍やら議会やらのお偉方でも、マーガレット嬢の能力を知ったら、とたんに欲を出しそうだ。秘密裏に取り込んで、自分たちの利益のために使い倒しそうだな。国家のため、とか言いながら」
虫唾が走るわ、と、小さくハーフォードは吐き捨てる。
「で? フィー、それならお前はどうするつもりだ?」
ハーフォードは、幼少の頃からの呼び名をあえて持ち出して、フィリアスに尋ねた。彼の真意を問うつもりで。
フィリアスは、ハーフォードを、まっすぐに見た。
「俺の手元に置く」




