(3−1)フィリアスの気になる女史①
カンティフラス王国の王宮魔術師団で第1師団長を務めるハーフォード・カワードは、たぶんこれまでの人生の中で一番面白い事態に遭遇していた。
第2師団長フィリアス・テナントの執務室から、今朝、とってもかわいい女の子が出てきたのだ。
その時、出勤したばかりだったハーフォードは、一般文官の制服を着た女の子と、それを見送るフィリアスにばったり廊下で遭遇し、女の子は顔を真っ赤にしてぺこりと会釈し、走って逃げた。首のあたりでひとつにまとめた茶色の髪が、リスのしっぽのようにはずんで大変愛らしかった。
1等以上の上位魔術師は、その人数が大変少なく、待遇面でいろいろなことが優遇されている。例えば、同僚の恋人と連れ立って移動魔法で出勤したり、自分の研究室に連れ込んでお泊まりしたり、とか。そういういわゆる非常識な行動すらも大目に見られている。というか見て見ぬふりをされているのだが、これまでフィリアスにはそんな浮いた話は一つもなかった。
そもそも人間に興味なかったあの魔術バカが、同伴出勤!
これを事件と言わずして、なんと言おう。
ハーフォードはすぐさま問い詰めたい気持ちをこらえ、まず部下の研究報告書を読み、開発途中の魔導具サンプルをチェックし、決済書類にサインし、愛する妻に今朝見た驚きの光景をこっそり伝令鳥で伝え、とにかく片っ端からやるべきことを片付けまくり、その異様なスピードで業務補佐官を戦かせた。
まもなく午前中も終わろうかという頃合に、彼は心を落ち着け、すました顔でフィリアスの執務室をノックした。魔術師団長の執務室は同じフロアにまとまっていて、フィリアスの執務室はハーフォードの隣りだ。
2回ノックしても返事はなく、ドアノブを回すと鍵は開いている。
もしやと思い、中に入ると予想のとおり、正面に置かれた重厚な構えのデスクの向こう、黒い革張りのデスクチェアに背を預けたフィリアスは、ゆったりと規則正しい呼吸を立てて眠っていた。
チッと舌打ちを漏らしながら歩み寄り、眠る肩を遠慮なくつかんで揺さぶる。
「おい、起きろ、フィリアス。こんなところで不用意に寝るんじゃねぇよ」
フィリアスは、子どもの頃から寝起きが悪かった。同じ師匠の元で暮らしたハーフォードは、この10歳年下の弟分の成長をずっと見てきたのだ。お互いに体ばかり大きく育ったが、ハーフォードにとっては、師匠に引き取られてきた頃の5歳のフィリアスも、第2師団長閣下となった今の25歳の彼も、正直たいして変わらない。手のかかる弟だ。
(いや、あの頃の方が、まだ多少扱いやすくて可愛いモンだったかな)
再び肩を揺らして、フィリアスが軽くうめきながら身じろぎをしたのを確認し、ため息をついた。執務机の一番上の引き出しを勝手に開けて、大きな黒いヘアクリップを取り出す。
重苦しくフィリアスの顔の半分を隠す前髪をつかみ上げて、ばちん、とヘアクリップで額の上に留めた。
ゆっくりと、フィリアスが目を開ける。
鮮やかな青い瞳が、感情をうかがえない眼差しで、ただハーフォードを見た。獣の目だ、といつもハーフォードは思う。人を恐れない、そして人から恐れられる、全てを射抜くまなざしだ。
「起きろ」
形の良い白皙のおでこをぺちんと平手で一つ叩いてやると、うっとうしそうなフィリアスの手がそれを払った。完全に覚醒したようだ。
そして、ハーフォードにお構いなく、デスクの上に視線を落とし、置かれていたノートを熱心にめくり出した。
「へぇ、こりゃ見事な魔法陣だ」
つられて覗き込んだハーフォードは、思わず感嘆の声を漏らし、目についた箇所を指差す。
「これなんか、芸術的なまでにバランスが取れた描き方だな。お前が描いたのか。内容はずいぶん平和だが、悪くない」
左側に水魔法、右側に光魔法の初級陣が書かれている。それを同時に発動すると、室内いっぱいに虹が現れる、というイベントに喜ばれる宴会芸みたいな魔法だ。ただし、同じタイミングで二つの魔法陣を発動させるのは地味に魔力操作が難しく、2等以上の技量を持つ魔術師でないと使えない技だった。
フィリアスは、両手をノートにかざして、つぶやいた。
「《複写》」
青い光が湧き上がる。
「《展開》」
爆発する光の渦。
とっさに目を保護する魔術を使いつつ、腕で顔を隠したハーフォードは、やがてガチャリと窓が開けられる音と、吹き込んでくる春の軽やかな風を感じた。
窓辺に立ったフィリアスが、ハーフォードを見てから、人差し指で、ちょいちょい、と外を指した。珍しく、フィリアスが得意そうだ、とハーフォードは思う。
窓の外、晴れ渡った王都の空には、特大の虹がかかっていた。
3章スタートです!




