(2−5)マギーと朝からこれですか
昨日は飲み過ぎた。
起きたそばから、二日酔いの頭痛がひどい。ガンガンと遠慮なく鳴り響く鐘のような頭を抱えながら、自分の部屋のドアを開けると、リビングで閣下がクルミを割っていた。黒いローブを着ていて、今日は魔術師仕様だ。
「へ、あ、おはようございます?」
「ああ」
まさか朝からいるとは思わないし、まさか返事が返ってくるとも思わないし。
まさか尽くしの朝にめんどくさくなった私は、黙ったままテーブルに置いてあったピッチャーからコップに水を注いで、閣下の向かいの椅子に座った。
ピッチャーには、ミントの葉がたくさん入れてあって、小さな生きの良い気泡がガラスの内側にたくさんついている。さすがテンス兄さん、妹が二日酔いになることを見越して、朝から裏庭のミントを摘んでくれたらしい。
ごくごくと喉を鳴らして、水を一気飲みしながら考える。
昨日はあれからどうしたっけ。そうだ、トイレから戻ったら、なぜかハリー先輩がフィリアス閣下の肩をバシンバシン叩きながら笑っていて、「そうかー、フィルさんは25歳かー、俺の二つ上かー、趣味は魚釣りかー、好きな食べ物はキッシュかー!よろしくー!今度釣りに連れてってくれー!」とか、いきなり愛称呼びをしつつ、バンバン個人情報を引き出しまくっていて、閣下の逆鱗にうっかり触れたくないコールを恐怖のどん底に突き落としていた。
そして、さっきのシャーリーの助言にすっかり怖くなっていた私は、逆に閣下がいる今ここが一番安全なのではないか、と思い至り、ハリー先輩に釣られるように妙にテンションが上がってしまって、エールを思いっきり飲みまくったのだ。あれから4杯くらい?
それからみんなに家まで送ってもらって、みんなの中には閣下もいて、楽しくなって大声で道すがら歌っていたら、「はーい、黙ろうね」ってテンス兄さんに家の前でお迎えされて。はい、そこから先の記憶がありません。
目の前の閣下は、黙々と、クルミを割っている。
うちのクルミ割り器は、いつだったか友だちから誕生日プレゼントでもらったものだ。どっしりした台座の上に、リスが座った形をしている。リスのお尻の下がいい具合にくぼんでいて、そこにクルミをセットする。しっぽの部分が取っ手になっていて、横に長く飛び出している。そのしっぽを握って下に力を加えると、リスのお尻と台座がクルミを挟み、がっこん、と殻が割れるのだ。
そこそこ力のいる作業なので、クルミをたくさん割る時は、いつもだったら兄と私が交代で使う。
だが今は、閣下ひとりで軽々と、クルミを割り続けている。もしかして、何か力を補助する術でも使っているのかもしれない。というか、そもそも魔法で実だけ取り出せるのでは?
皿の上に、半分に割られたクルミが山と積まれている。私はもう1枚の皿と金属のピックを戸棚から取り出すと、閣下の隣に座った。殻の中に嵌め込まれるようにぴったりおさまっている実を、一つずつピックを使って引っぱり出し始める。
がっこん、という音を止めて、しばらく私の奮闘を眺めていたらしい閣下は、やがて右手を空中に軽く踊らせた。
とたんにパラパラっと音を立てて、剥かれたクルミの実が皿の上に落ちてきて、小さな山を作った。殻のほうは、実がなくなり、すっかり空になっている。
「剥くのには魔法を使っちゃうんですね?」
どうやら、くるみ割り器を使うのが楽しかっただけで、殻から実を取り出す方には自力でやろうというこだわりはないらしい。
思わず笑ってしまった私は、同時に、自分の二日酔いがすっかり消えているのに気がついた。閣下が快復魔法を掛けてくれたのだと思う。軽い魔術を二つ同時並行で展開することなど、彼にとっては文字通り朝飯前なのだろう。
剥きたてのクルミの実を一つ、閣下の手のひらに載せた。
「ありがとうございます。助かりました。兄さんに、とびきり美味しいパンケーキを焼いてもらってきますね」
階下に降りると、キッチンでは兄がフライパンを三つ並べて、パンケーキを一気に大量調理しているところだった。大皿には、すでに9枚のクルミ入りパンケーキが積み上がっている。
「兄さん、おはよう。これ、追加のクルミ」
「おはよう。そこに置いといて」
穏やかな笑顔で、兄は次々とパンケーキをひっくり返す。
「兄さん、朝起きたら、閣下がいたんだけど」
流し台で顔を洗いながら聞いてみる。
「うん、僕が起きた時にはもう食卓にいたねぇ」
「昨日、閣下、帰ったよね?」
「うん、うちには泊まってないね」
「玄関の鍵、かけたよね」
「うん、玄関も裏の勝手口も、僕がかけたね」
「どこから入ってきたんだろうね」
「どこからだろうねぇ」
兄妹そろって、一瞬遠い目をしてから、それ以上深く考えるのをやめた。
「そういえば、今日からしばらくお弁当を持って行きたいんだけど」
「昨日焼いたサーモンのキッシュが残ってるから、好きなだけ持っていくといいよ。あと、カブのピクルスもある。アップルパイも焼いたから、おやつにどうぞ。アンナにも帰りにひとつ渡して」
「やったあ!」
いそいそとお弁当の準備をする。少し考えて、包みを三つ作って、トートバッグに入れた。
それからの閣下は、パンケーキを食べに食べた。さらに、ベーコンに目玉焼き、レタスとルッコラのサラダも食べ、玉ねぎとにんじんと豆のスープも飲み。私たち兄妹が1枚ずつゆっくり食べている間に、一気に5枚のパンケーキが閣下のお腹の中に消えていった。
残りのパンケーキは、5枚。アプリコットジャムの瓶とスプーンと一緒に、お土産用に包んだ。トートバッグを自室からもう一つ持ち出してきて、先ほどのお弁当の包み一つと、パンケーキの包みを一緒に入れる。そして閣下に差し出した。
「はい、お弁当セットです。うちの兄さんのキッシュ、すっごく美味しいのでお昼にどうぞ」
ずっしりと重いバッグを前に、閣下は一瞬とまどったように手をさまよわせ、そろりと受け取る。
それから、
「……ありがとう」
おお、今日の閣下はよくしゃべる! もしや好物のキッシュをもらって、かなり喜んでいたりするんだろうか。前髪に隠れた顔も、口ぶりからも、感情が測れないけれど。
もしかしたら今までになく意思疎通がはかれるのではないか、と希望を抱いた私は、通勤用のリュックを背負い、自分とアンナさん用のお弁当が入ったトートバックを肩からかけ、見るからに出勤する準備万端の状態で、明るく話しかけてみた。
「うちから王宮まで、歩いて20分くらいなんです。私はそろそろ出ようかなと思うんですけど、閣下はどうしますか?」
魔術師には基本的に、決まった出勤時間はなかったはずだ。午前中の好きな時間に出てきて、午後は遅くまで研究室にこもっている印象がある。だから、魔術師との会議は、たいてい夕方ごろに設定されている。
閣下は、無言で首を傾げた。おや、これは、返事がないパターンだろうか。調子乗りすぎたかな、私。
ゆっくりと、閣下の手が、私のひじをつかんだ。足元の床から、ぼうっと青い光が湧き上がってくる。あれ、と私は気づいてしまった。
今、立っているのって、おととい、閣下の名前のカリグラフィーが床に染み込んで消えていったあたりだ。
見上げると、閣下の口元が少しだけ、機嫌良さそうにゆるんで見えた。
これって、もしかしなくても、うちのリビングの床に、移動魔術の出入り口が作られているんじゃないだろうか。
おとといの魔力に満ちた閣下の名前を、出入り口の指標にして……?
普通だったら、移動口を設定する時には、その場に専用の魔法陣を描くものだ。それを、自分の名前の文字を代用して、移動拠点を設定できちゃうって……もう、でたらめすぎる!
そしてそして、要はうちにいつでも自由に出入りできるようになっちゃってるってことですよね?閣下……なんてこったい!!
私の後ろにいた兄が、3歩くらい後ろに下がって、青い光から逃げる。
「えっと、たぶん、いってらっしゃい?」
困ったような笑顔で言いながら手を振る兄に、いってきます、という暇はなかった。
問答無用で、移動魔術が発動したからだ。
これで2章は終わりです。
明日からは、3章を投稿させていただきます。
よろしくお願いいたします!!




