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"憧れの人"

作者: 燃えない薪

推しの絵師さんにSkebを納品してもらった衝動のままに書きました。後悔はしていない

 九州某県。S市中央駅から徒歩十五分ばかり郊外に向けて歩いていくと、秋になると美しく紅葉が色づく小さな山がある。平成に入ってからようやく整備された舗装道路の真ん中に散らばる葉っぱを乱雑に踏ん付けながら行くと、時折靴底にべったりと鹿や猪の落とし物が張り付いていて、ひどく気分を挫かれるような場所である。尤も、S市はその面積の約九割までがこう言った山林で占められており、昔から続く木材の生産が主要な産業になっている為に、野生動物関連の不運は仕方のないことだとある程度割り切ってしまうしかない─地元の住民からすれば、動物の糞を踏めないような靴で山道を歩くことが悪いのである。


 涼しさと暑さが交互にやってくる、酷く気が滅入るような初夏のある日のことであった。私はこの紅葉山の中腹に続く山道を、似合わぬ重たい鞄を片手に下げて、よろよろと登っていた。生まれ育った地元とはいえ、長いこと東京の暮らしに慣れた私にとって、この山道は中々に辛い。無論坂道は東京にも腐るほどあるのだが、これ程に傾斜がきつく、長く道のりが続く様なところはそうそう無い。九州のからっとした夏の暑さの中でも、ぼたぼたと玉のような汗が落ちてアスファルトに染みを作っていた。


「あっついな、もう……」


 口から自然とそんな言葉がまろび出る。駄菓子屋の爺さんと話したら、「いかずとうきょうべんしゃべりおってから」と揶揄われた調子だ。仕方ないではないか、決して方言を恥ずかしく思っている訳ではないが、出来る限り標準語に従おうと務めていると、どうあってもこんな調子になってしまう。これもまた、職場で溶け込むための術というものだった。それはさておき。


 私は道半ばで一旦足を止め、運動靴の紐を結び直した。擦り切れててかてかになっているズボンの裾には、乱雑に踏ん付けた落ち葉の破片やら、ひっつき虫やらが執念くしがみついているので、指で軽く払っておく。


 何の気無しに上を見てみると、これから私が目指すところの大きな四脚門が、さあ早いところ登ってくるがいい、なんと言ってこちらを見下ろしていた。二十年前から変わらぬ景色である。昔のことを思い出して、私は思わず苦笑いを浮かべた。都会の子はゲームなるものをしているそうだよ、と風の噂に聞いて、もしかしたらあのお屋敷にはあるかも知れないと、みんなで道を駆け上った。あの頃は体が軽くって、息切れはするがどこまでも走っていくことができたっけ。いけない、いけない。夜に一人で晩酌しながら浸る様なくだらないセンチメンタルを被りを振って追い出し、私はまた前を向く。後もう少しでようやく門に辿り着く、思い出に浸るのはその後で良かろう。



 門に辿り着いた私は、傍に開けられた通用口側のインターホンのボタンを押し、解錠を願い出た。相手方は私が名前を名乗ると、用件を了解してくれたらしく、すぐに内鍵を開けて中へ招き入れてくれた。足を踏み入れると、外とは雰囲気が一気に変わる。


 正門正面に目に入るのは、まず何と言っても古めかしい造りの洋館である。鎌倉にある旧華頂宮邸を彷彿とさせる様な半木骨造の建物で、聞くところによれば明治の末年に建てられて以来、ずっとこの場所にあるのだという。ところが、風光明媚な場所にあるにも関わらず、広々とした庭に植えられた大木のせいであろうか、家屋敷が纏う雰囲気はどうにも陰鬱である。差し込む太陽の光も届かぬ、ある種深海に佇んでいるかの様な趣で、この館の主人の気質をそのままに反映している様に思えた。


 洋館の向こう側には、長い渡り廊下で繋がれた和館の甍が、池のほとりに植えられた桃の木と共にこちらを遠目に覗いている。意外にも、和館の方が歴史が新しく、こちらが立てられたのは昭和の初めの頃だという。数寄屋造りのよく纏まった形をしており、ある種富豪趣味とも言える洋館のそれとは真逆の姿であった。


「こちらです、どうぞ」


 私を案内してくれたのは、もう六十も幾らか過ぎていようと思われる端然とした老紳士であった。前に聞いた本人の話によると、もう半世紀にもわたってこの邸宅に仕え、先先代の主─即ち、今の主人の祖父の代から働いているのだという。元はこの敷地の中に住み込んでいたのだが、四、五年前になって市内に戻って来た息子夫婦の家に引っ越し、今では通いの形で来ているのだと教えてくれた。


「このお屋敷も随分と寂しくなりましてな。昔は私でさえ覚え切れぬ程に女中や召使を置いていたものですが、今では専属は私の他、数えるばかりになってしまいました」


 それでも庭師と運転手、料理人と住み込みの門番を一人ずつ専属で雇って居られると言うのだから、やはり大したものなのだろう。専属ではない日にち通いの使用人まで含めれば、今でもまだ十人ほどがこの屋敷で働いていると言う話だった。


「さあ、どうぞ。服の埃などお取りしましょう」


 洋館の玄関先には、歴代当主の趣味なのだろうか、おどろおどろしい異国の仮面だとか、神の形を模した像であるとかが飾られていて、来客を面食らわせる。と言っても、私は何度かこの屋敷を訪ねており、猟奇的な趣味や蒐集物には今更驚きもしない。寧ろ、何某か金儲けの種になるのではないか、という卑しい根性を抱くくらいには大好物である。


「主人は二階の客間におります。お茶とお菓子をお持ちしますので、ごゆっくりお寛ぎを」


「いつもながら、痛み入ります」


 老紳士─執事と呼んだ方が良いのだろうか─がにっこりと笑みを浮かべて台所に向かうと、私は一人で二階へ向かう階段に登り、額縁に入れて引っ掛けられた超現実主義シュールリアリスム絵画の数々を横目で見ながら、その客間の方へと向かった。二階にも複数部屋があって、中には扉から積み上げられた資料や骨董品の類がはみ出している様なところもあるが、差し当たり足を当てない様に気をつけて、一番奥の突き当たりを目指す。実際に尋ねるのは随分と久しぶりだが、若い頃に染みついた先験的な記憶というものだろう、驚く程軽やかに私の足は動いて、突き当たりの扉をノックさせた。


「こんにちは、初音。来たよ」


「……どうぞ」


 静かだが、深みのある女性の声が応じた。鈴の転がる様な声音の中に、底知れぬ奥行きがある。透き通った南の島の海を、上から覗く様な果てしなさを感じさせるそれに、思わず私の背筋が張り詰める。


「入るよ」


 きい、と高い声をあげた木製の扉を開けると、堆く積み上げられた本の間に細長い通路が、客間の中へ向かって続いていた。通り抜けると、優しく日が差し込むテラスの様な作りになった場所に、彼女が居た。車椅子に背をもたれさせて、綾子と尚武革の美しい装丁の本を一ページずつ捲っている。銀縁の丸眼鏡の向こう側では、名付け難い色の双眸が奇妙な光を放っていた。


「いらっしゃい、やっぱり久しぶりに顔を見ると、変わっているのね、あなたは」


「そういう君は全然変わりがない。八年前にいきなり、ふらりと消えてしまった時のままだ。歳を取らない体質だったなんて知らなかったな」


「肉体の年齢と精神の年齢は必ずしも、相関しない。あなたを見ているとよく分かるわ」


「それはつまり、俺が見てくれよりもおじさん臭いってことかい?」


 九鬼初音はにっこりと頬を緩め、艶やかに微笑んだ。半分ばかり人でないものが取り憑いている様な、超然とした美しさであった。


 九鬼初音。この謎めいた友人のことについて、私は未だ、何一つ確たることを掴めている気がしない。年齢二十六歳、後二ヶ月後には二十七歳。生まれはこのS市だが、高校から東京に進学。そのまま東京の大学に進学するかと思えば、ふと思い立って国外へ飛び立ち、約九年に渡って米・英・仏・独など数カ国に跨る長期留学を決行。この度無事学位を取得し、郷里へ戻る。父親はこの館の前の主人で、九州指折りの資産家・大地主だった─とここまでが、彼女が履歴書に書く様な表面的な知識である。しかし、いざ実際に顔を合わせ、話してみると、どうにもそれ以上の大きなものを内面に抱え込んでいる様に思われてならない。


 後ろへ長く伸びた黒髪は艶やかで、高級陶磁器ボーンチャイナの様な白みを帯びた肌は不気味なまでに滑らか。眼鏡越しに見える顔貌かんばせは彫像の様に整っていて、車椅子に沈んだ華奢な体躯には奇妙な活力がみなぎっている。


「(足が動かないはずなのに、こともなげにスッと立ち上がって部屋の中をうろうろ歩き回りそうなこの雰囲気は何なんだ、全く)」


 昔、彼女と同姓のとある哲学者が言っていた。


「この体には昔から、あらゆる冒険と猟奇とを好む血が流れているのかも知れぬ」


 同じ『鬼』の名を冠する者として、初音にもまた、世に溢れる冒険と猟奇、恐怖と謎を追い求める血が流れているのだろうか。肚の底が読めない微笑みに冷や汗を背中でかきながら、俺は彼女の正面に座った。


「それにしても、本当に心配していたんだよ。車椅子の君が留学なんて」


「危険だからって?」


「そうだよ、全く。君から定期的に届く報告の手紙を読んで、俺がどれだけ安堵したことか。あれ、君は前にはカリフォルニアに居たのじゃなかったかい、何で今日の消印はパリなのかな、なんて思っていたよ」


「チェコから送ったこともあったわね、私が撮った写真も添えて」


「プラハかと思ったらまさかターボルの写真を送ってくるとはね。スメタナの風景は楽しかったかい?」


「ええ、とても。フス戦争の発火点となった信仰の街ターボル。尊敬するヤン・ジシュカの像と写真を撮れて至極満足よ」


 やがて、老紳士が二人分の紅茶と菓子を持って部屋に現れた。アッサムの馥郁たる香りと焼きたてのクッキーの匂いが鼻をくすぐる。


「君は毎日こうやって、日がな一日本を読んで、優雅にアフターヌーンティーを楽しんでいるのかい?」


「大学の仕事を一つ貰ったから。夏が終わったら、高等遊民ともお別れね」


 聞いてみると、帰国直前にさる国立大学から就任の打診があり、准教授の待遇で迎えられることが決まっているそうだ。講師をすっ飛ばしていきなり准教授とは、と私は驚いたが、彼女の方はのんびりとした口調で、


「いっそ客員の方が良かった気がするわ。だって、非常勤で悠々働けるもの」


「……君は労働という行為を何だと思っているんだい?」


「君みたいな人間でも、社会の歯車として立場を占めて、貢献しているのだという不可欠の自己肯定感を提供してくれるもの」


「ぶん殴るべきかな?」


「冗談よ。ヘシオドス以来労働は人間の社会に欠かすことができないものだと言うことはよく知っているわ。ある日突然ムゥサーから才能を与えられて、韻以外踏めない様な男が葡萄踏みを勿体らしく賛美するのは、皮肉なものだと思うけれど」


 フランスかイギリスで変な文化にかぶれたのだろうか、初音の言葉は妙に諧謔的で、斜に構えたところがあった。だが、よくよく考えてみると、高校生の頃から彼女にはどこか捩じくれたところがあって、人の好意さえ真正面から受け止めてくれる様な性格ではなかった。ということは、元々鋭角的であった性格が、欧米での経験を経てさらに磨かれ、余計なことにより成長した諧謔の能力も備わってしまった、と言うべきなのだろう。


「まあ何にせよ、無事に戻って来てくれたことは嬉しいよ。留学お疲れ様」


「ありがとう。君のその言葉で、十年近い苦労も報われた様な気がする」


「苦労というか、君は多分気ままにやっていただけなんじゃないかい?」


「あら、どうして分かったの?」


「パリの社交会の写真を同封して来たくせしてよく言うよ、全く」


 私が笑うと、初音も笑う。宛ら怪奇小説の世界から飛び出て来たような陰鬱さを纏っているのに、時として潑剌とした笑顔を見せることがある。きっとこの落差が、結局のところ私が彼女との仲を切れない理由なのだろう。


「それで、今日の用件はこれだけかしら。ああいえ、別に何の用件も無くても構わないけれど。少なくとも、君ならいつでも歓迎するから」


「ありがたいね。ただ、君が暗に催促する通り、もう一つ別の用事があるんだ」


 私は後生大事に持って来た鞄を開き、中身を取り出して彼女の方に差し出した。革装丁でずっしりと重く、埃で煤けた様になった天金の本。流麗だが読みづらいラテン語の書体で記されたタイトルが目に入るや、彼女の双眸がぱっと見開かれ、


「『加勒底亜カルデア五芒星招妖術』のラテン語版!無事に手に入れられたのね」


 正直なところ、何だその奇怪な本は、と数時間単位で問い詰めてやりたかったが、それをすると逆に初音の方に火がつき、逆にとんでもない長時間にわたってこの恐ろしい魔術の内容について講釈をされかねない。それ故、私はこの方面にはもはや何も言わぬことにして、別の方向から攻撃を試みる。


「いきなり電話をかけて来て、古本を買ってこっちまで帰って来いだなんて。宅急便でよかったんじゃないの?」


「分かってないわね。他ならぬ君が持って来てくれるのが大切なのよ。君なら絶対に、本を損なったりしない様にして、大切に運んでくれるって信じていたから」


「まったく、俺は君のクーリエじゃないぞ。次は東京で本を買って、ニューヨークにいる君のところへ届けろなんて言いやしないだろうね」


「おまけにアメリカ観光チケットをプレゼントすると言っても?」


「お断りだ。俺は君よりもずっと行動範囲が狭いからね」 

「二本の脚で歩けるのに?」


「それはいいっこなし」


 また憎まれ口を叩く。九鬼初音め。全く、どうしようもない女だ。傍若無人で、変わり者で、ねじくれた性格で、馬鹿でかい車椅子に乗って、坂道をわざわざ私に押させて、無駄に博覧強記で、衒学趣味ペダンティックで。そして─


「でも、ありがとう。ずっと─大切にするわ」


 まるで、無垢な少女の様に、ほろりと笑みを零すのだ。 

「そうしてやってくれ」


 愛おしげに本を抱えて、透き通った笑みをこちらに向ける初音の顔を、私は直視できなかった。



 それから少しの間─多分、少しの間だったと思う─私はラテン語の怪しげな書物を読み耽る初音の姿を観察していた。時折するりと落ちかかる髪を掻き上げたり、ページを捲ったりする他は殆ど微動だにせず、本を読み込むことだけに注力している。丸眼鏡の向こうの瞳が忙しなく動き、文字列を追いかけていた。


「(それにしたって、よくもまあ、悠々と辞書も無しにラテン語を読めるな)」


 老紳士が気を利かせてくれたのだろう、まだ温かい大柄なポットから紅茶のおかわりを注ぎ、私は椅子に深く座り直した。今にして思えば、初音の奇妙なさがは、小学生の時にはもう始まっていたのだろう。


 入学式の日のこと。私がよそ行きの小さなスーツを着込んで、保育園時分からの友達と一緒に、もうすっかり緑の葉っぱに衣替えをした桜の下を駆け回っていた時。一人だけ、歩いていない女の子を見つけた。その子は今よりもずっと小さな車椅子に乗って、どこか諦めた様な、色のない瞳をしていた。


「(だけど、その時から目が離せなくなった)」


 単に珍しいものに興味を惹かれたとか、そんな生易しいものではなかった。一瞬で目を奪われた。彼女の手が私の首を無理矢理に掴んで、自分の方に向けさせたのだと、今でも思っている。半ば無意識のうちに、幼い頃の私は彼女の前に立ち塞がっていた。そして、


「よお、俺─。お前、名前は?」


「……初音。九鬼初音」


「じゃ、多分俺の隣の席だな。ほら、あそこにクラス張り出されてるからさ、一緒に見に行こうぜ」


 気取ろうとするあまり、随分と命知らずなことをしたものだ。彼女にいきなり手を出して握手を求めたばかりか、足りない力で車椅子を押して行こうとするなんて。


 だが、そのおかげで私は最良の友を得られた。本当に、心の底から幸運に感謝すべきと─


「一寸いいかしら」


「なっ、何だい」


 慌てて回想を中断し、視線を現在の初音に戻すと、彼女はとっくに本を閉じてテーブルに置いて、酷く不機嫌そうな視線でこちらを睨め付けていた。


「あまり雑念を振りまいて、読書の邪魔をしないで頂けるかしら」


「邪魔になった?」


「君の雑念は煩すぎるの。私の頭の中にはっきり聞こえてくるくらいにはやかましいわ」


「そんな、何も言ってやしないじゃないか」


「あなたの顔で仏様が二十も三十も蓮の花を捻っていらっしゃるわ。何を考えていたか当ててみましょうか?どうせ、昔の私を思い浮かべて、あの女の子が大きくなったな、なんて下らないことを考えていたんでしょ」


「……大体正解」


「その程度のことで私の読書の邪魔をするなんて、本当にいい度胸ね」


 初音は口角を大きく上げて笑った。元来笑うと言う動作は、獣が狩りの時に牙を露出させる動作に起源がある、などと言う都市伝説を昔小耳に挟んだことがあるが、やっぱりあれは本当だったのだと本能が叫んだ。


「(不味い)」


 このまま機嫌を決定的に損ねると、私は彼女に殺される。車椅子の、一人では歩くことさえもできない女性に、なす術もなく殺される。暖かな陽光をかき消して余りある程の剣呑な気配に唾を飲み込み、覚悟を決めた私は口を開いた。


「じゃ、じゃぁ。少し休憩しよっか。実はね、一つ面白い謎々を用意してあるんだ」


「謎々?」


 肌を切り裂く様な気配が多少和らぐ。心持ち前に出ていた初音の身体が背もたれに戻るのに乗じて、私は更に踏み込んだ。


「君、謎々は好きだろう?少し捻った使い方をしないと、流石の君だって鈍っちまうんじゃないか?」


「……」


 彼女は冷め切った紅茶を一気に喉に流し込むと、


「いいわ、言ってみて」


 よし、ひとまず生命は長らえた。私はつい最近読んだ昔の本の中から、謎として骨折り甲斐のある事例を選び出す。


「それじゃあ問題だ。これは昔の中国のお話でね……」


 問題。昔々江南のとある村に夫婦が住んでいた。ところがある日、その夫婦の家で火災があり、夫が焼け死んでしまった。崩れた家の中を探すと、苦しんだ様子の夫の遺体が見つかったので、妻は酷く悲しんだ。ところが夫方の遺族がこれを怪しんで、妻を夫殺しの廉で訴え出た。


「すると、裁判を担当した判事は死体を見るや、すぐに『これは火事で焼け死んだのではない。火事の前にはもう死んでいたものを、焼死に見せかけられたのだ』と見抜いた。これを聞いた妻は恐れ慄いて自白し、刑に服した……さてここで問題。この判事はなぜ、夫が火事で死んだのではなく、妻によって予め殺されていたことを見抜けたのか?」


 問題を聞くと、初音は顎に手をやって目を瞑り、しばし考え込んだ。これでうまいこと煙に巻くことが出来れば、と期待してみたが、元より彼女の巧緻極まる頭脳の前ではそれも虚しい望みであった。


「『口の中に煤がなかったから』でしょう」


「……どうしてそう思う?」


「気道熱傷。それ以上何か必要な情報が?」


 火事の中で文字通り煙に巻かれた時、人間は不足した酸素を補おうと本能的に深く呼吸を行う。ところがその際、周囲の煙や暑い煤などを吸い込んでしまい、気道に傷がつく。火事における死因の多くはこうした煙を吸うことに関連しており、煙を吸ってしまっている以上は、どこかしらに熱傷が残る筈である。


「要は、口の中に煤が残っていなかった為に、その判事は火事が起きた時点で夫はすでに呼吸をしていなかった……死んでいたのだと、そう判断した。それだけの話」


「……参りました、百点満点の大正解」


 私は全面降伏を選択し、彼女に頭を下げた。こうなったからには、もはや車椅子の大魔王の慈悲を乞うより他にない。長いことは慣れていたとはいえ、二人のおよそ二十年の付き合いに免じて、許してくれはしないだろうか。


「やれやれ。本当に君は、私のことがよく分かってないのね」


「と、いいますと……」


「ひとつ、私は君の考えていることなんて、昔から全部お見通しで、今更隠すなんて無理だってこと」


 べしん、と下げた頭を掌でぶっ叩かれる。な、何をするんだと思わず顔を上げると、今度は額に指があてがわれて、


「ふたつ、例え私を完全に怒らせたとしても、君なら謝れば許してあげること」


「あでっ!」


 頭蓋骨が凹むのではないか、と言うほどの強烈さで弾かれる。余りの痛みに額を抑え、テーブルに突っ伏す間抜けな私を見て、彼女はもう一度軽やかに笑い、


「……やはり、君と一緒に過ごすのは楽しいわ。これからも、一緒にやっていきましょうね」


「う、うぅ……き、君が許してくれるなら、喜んで」


「結構。それじゃ、まず最初のお仕事として、もう少し食べがいのある事件を、私のところへ持っていらっしゃいな」


「なんで!?」


「役割分担よ。君は足で稼ぐ、私は考える。一体何の為に、君は記者なんて嫌われるばかりの仕事に就いたのかしら。こういう時、私の役に立つ為でしょう?」


 なんて物言いだこの女。九年間の留学の間に学んだのは、どうやら学識と諧謔の能力だけではないらしい。自分の才幹や財産、地位名声の全てを鼻にかけて、私を見下している。鬼才が鬼才に相応しき地位を得たのだという傲然たる自負によって、私をねじ伏せようとしている。何と口惜しいことか、きっとこの女は、これから先も私が自分の側を離れずに、奴隷の如く尽くしてくれることを毫末も疑っていないのだろう。口惜しい、悔しい。そして、何よりも心に突き刺さるのは、


「そうだね。確かに、その通りだよ初音。俺が記者になったのは─他ならぬ君に、面白いネタを提供し続ける為だ」


「留学中に送ってくれたメッセージのおかげで、毎日退屈しないで済んだわ。だから、これからも宜しくね?その代わり、私も決して、君を退屈させはしないから」


「……そうだね。やっぱり俺は、君には逆らえないみたいだ」


 さっきの言葉には、多少の訂正が必要だろう。九鬼初音。傍若無人で、変わり者で、ねじくれた性格で、馬鹿でかい車椅子に乗って、坂道をわざわざ私に押させて、無駄に博覧強記で、衒学趣味。時折少女の様に無垢な笑顔を見せる可憐な女。ところがその正体は─とんでもなく友達思いの、どうしようもなく謎とスリルが大好きな、私の『憧れの人』だったのだ。

キャラクター


・九鬼初音…山奥の洋館に住んでるお金持ちの女の人。変人。あと車椅子


・語り手…初音に脳みそ焼かれた被害者

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