序章1
アレクシア・カーン。
その名を持つ少女は、邪神であったとグローセン王国の人々の記憶に刻まれた。
もともとは世界最強である『戦神の加護』を持つ侯爵令嬢だった。
そのあまりの強さに幼少期は力の制御が出来ず、十七歳の時に隣国との間に勃発したドレスバルト平原の戦いに参戦するまで隔離され育つ。
この戦いで多大な武功を挙げ、グローセンの救国者とし讃えられ凱旋するも、わずか数日後に大罪人として処刑されることになる。
罪名は王太子殺害未遂だった……。
***
(いいお天気ね)
青い空を見上げてアレクシアは思う。
衛兵たちに取り囲まれながら処刑台へと向かう道を歩きながら。
周りは群衆の罵る声が響いている。つい先日まで、それはアレクシアを讃える声だった。
アレクシアの上半身は大熊を捕縛するために使われる鎖が巻きつけられていた。通常の罪人なら手枷だけだったが、戦神の加護を発動したときのための対策らしい。
琥珀色の髪と瞳を持つ華奢な身体をした美しい少女が太い鎖に巻き付けられている姿は痛々しくすらあった。
だが、こんなものは何の意味もない。
(いかにも戦場を知らない人間が考えた対策ね。こんなもの何の縛りにもならないのにね)
少し力を解放すれば砕け散るだろうそれを身体に巻き付けたままひたすらに歩いた。
処刑台のそばまで来ると群衆の罵声はますますひどくなった。
「何が戦神の加護だ。よりによって愛され王太子殿下を殺そうとするなんて。そんなの戦神じゃなくて邪神だろうが」
「そうだ邪神だ!」
「邪神を処刑しろ!」
群衆の熱狂は渦のようになり互いの罵声を餌にしてアレクシアに叩きつける。
(違う! 殺そうとしたわけじゃない)
アレクシアは心の中で否定する。
愛され王太子と呼ばれるほど人々に愛される、この国の王子を殺すなんて考えたこともなかった。だけど、それを口に出したところで何になるだろう。
(殿下は私のせいで意識を失うほどの重体になったんだから)
故意ではなかった。過失だった。だけど、自分の力が王太子を傷つけたのは事実だ。
それならば、犯した罪に対する罰が処刑ならば甘んじて受け入れようと覚悟していた。
(それに……)
罪を認め速やかに刑を受け入れるならば、家族には咎が及ばないようにすると約束されていた。
アレクシアの家族。たった一人の兄。
「罪人に罰を」
「早く処刑しろ!」
「邪神を殺せ!」
群衆の罵声は止まらない。もはや王太子の顔も知らないような人間でも一緒になって囃し立てていた。まるで祭りのように。
その時。
「アレクシアーー!」
自分の名を叫ぶその声にアレクシアは信じられないものを見たように驚愕した。
(お兄様……?)
「アレクシア! 逃げろ! 私のことも侯爵家のことも気にしなくていいから。お前の加護の力ならここから逃げることもたやすいだろう。逃げろ! アレクシア!」
(そんな、どうしてお兄様が)
アレクシアは呆然とその場に立ち尽くし、群衆を掻き分けながら叫ぶ兄の姿を見つめていた。
アルベルト・カーン。
アレクシアの唯一の家族であり兄ーー。
アレクシアと同じ琥珀色の髪と瞳を持つ五つ年上の兄。
凛々しい立ち振る舞いや身につけているものから誰が見ても貴族だとわかる青年の登場に、群衆の罵声が止まる。
幼少期より隔離されて育ったアレクシアにとって兄は普通の家族のように親密に慕う関係とは言えなかった。否、普通の家族のように親密にしてはいけない人だと思っていた。
兄が妹である自分に抱える感情が家族として接するには、あまりに複雑になっていると知っていたからだ。
世界に数人だけ存在すると言われる、世界最強である『戦神の加護』
通常、この加護は自我を抑制出来る年齢になってから発現すると言われている。しかし、アレクシアは自我も確立していないニ歳でその力を発現させてしまった。
朧げながら、その時のことは覚えていた。
自分の中のもどかしく自分でも訳の分からない抑えがたい感情。それは普通の幼な子なら誰しもが当たり前のように抱える癇癪だった。
しかし、戦神の加護を発動した幼な子の癇癪は、周囲の人間を暴威にさらした。最も被害を受けたのはアレクシアの母親であるユーリアだった。
ーー今でも覚えている。
癇癪を起こし泣き叫ぶ自分を抱きしめた母親の優しい腕の温かさを。
「大丈夫よ、アレクシア。大丈夫、いい子ね。アレクシアは本当に可愛いいい子ね」
ボロボロになりながら、普通の母親が我が子にそうするようにアレクシアを抱きしめ背中を撫ぜてくれた。
ユーリアは『防御の加護』の持ち主だった。それゆえにユーリアが命を失うまでには至らなかったが、その時のことが原因で母は歩くことも出来ない身体になってしまった。
そしてアレクシアが六歳の冬に肺炎のため永遠に帰らぬ人になった。
ーー健康だったお母様をあんな風にしてしまったのは私のせいだ。私がお兄様から健康だったお母様を奪ってしまった。
アレクシアはずっと自責の念を抱えていた。
母親にも兄にも一度としてそのことで責められたことはなかったが、アレクシアは自分を責め続けていた。
アルベルトが妹に複雑な感情を抱く理由はもうひとつあるとアレクシアは思っていた。
カーン侯爵家は多くの将軍を輩出した武の名門家であった。
アルベルトとアレクシアの父親も『膂力の加護』を持つ優秀な将軍だった。そして、アレクシアが2歳になる前に戦場で命を落とした。
だが、アルベルトは何の加護も持たずに生まれた。
この世界に加護を持たない人間は溢れるほどにいる。加護を持たなくても幸せに生きる人はいくらでもいる。それが戦場に行くことなど夢にも思わないような平穏な立場の人間ならば。だが、王家に忠誠を誓う将軍の家系に生まれた者がそんな平穏な立場のはずがなかった。
この世界で加護を持たずに軍の上に立つことは、ほぼ不可能だった。
武の名門家に生まれながら何の加護も持たずに生まれた兄と、世界最強の加護を持って生まれた妹。
それが兄にどんな感情をもたらすか、隔離されて育ったアレクシアでも分かることだった。
(それでもお兄様は私の誕生日には毎年プレゼントを抱えて会いに来てくれた)
侯爵家の別邸に、猛獣であるかのように隔離され寂しく暮らすアレクシアに、一年に一度だけ会いに来てくれた。アレクシアの誕生日に、アレクシアが生まれてきたことを祝うために。
それだけで充分だった。それなのにーー。
どうして、この場所でそんなことを叫ぶのか。侯爵家のこともアルベルト自身のことも構わずに、ただ逃げろ、と。