第1話 俺とカメムシ
ドアを開けると1月の冷気が身を震わせる。今日も俺は満員電車に乗ってあの会社に行かなければいけないのかと思うと、その震えもより大きくなったように思える。
俺は小さな頃からそこそこの人生を送ってきた。そこそこの高校、そこそこの大学に入り、新卒でそこそこ大手のメーカーに就職。そこそこ恵まれた人生を送れるはずだった。
しかし気づけば34歳平社員、彼女なし。
いや、別にね?これまで全く恋愛経験がなかったわけじゃないよ?ただ、運がなかったというか、いい人に巡り合わなかったというか……
「はあ、全く誰に言い訳してるんだか……」
家を出た時よりも若干重くなったように感じる足取りで、俺はいつもの駅へと歩き出した。
「お疲れ様吉田くん。今日も1日頑張っているねえ」
概ねの業務が終わった17時頃、珍しく上司が俺に声をかけてきた。コイツが声を来た時の要件なんて決まってる。
「でもねぇ、吉田くん。もう少し頑張ってもらわないとなあ。あのプロジェクト、まだまだ時間がかかりそうなのは吉田くんも知っているだろう?」
「はい」
「違う、違うよ吉田くん。僕は忙しいんだ。君なら僕の求めてる答えが分かるだろう?」
「……今日も残ります」
「ありがとう! それでこそ吉田くんだよ!」
俺がかすれた笑みを浮かべる中、上司は満面の笑みで俺の肩をバシバシと叩いてくる。
どうせコイツはこの後キャバクラでも行く予定があるに決まってる。
「わ! どっから湧いてきやがった!」
俺ががっくりと肩を落としていると上司が奇声を上げた。
「どうしたんです?」
「どうしたもこうしたもないよ! 見ろ! 君のデスク!」
上司の指す先には1匹のカメムシがデスクの側面に張り付いているのが見えた。
「お、俺は虫が苦手なんだ! 早く叩き潰してくれ!」
「えぇ、ちょっと待ってくださいよ。カメムシなんて叩き潰したらどうな――――」
「いいから! はやくしてくれ!!」
上司は俺の言葉も聞かずに手元にあったチラシを丸めただけの物を渡してくる。
まあ、多少あの嫌な匂いは出るかもしれないが、このまま俺のデスクで上司に喚き散らかされるよりは幾分もマシだ。
「はあ、わかりました」
そう言ってチラシを振りかぶった瞬間だった。カメムシのつぶらな瞳と目が合ってしまったのだ。
(……お前も俺と同じで独り辛い目に遭ってるんだなぁ)
何故そんなことを考えてしまったのかはどうにも分からない。しかし、1度そう思ってしまうと潰す気になんてなれない。仕方なく俺はカメムシを刺激しないようにチラシの上に乗せ、トイレの窓から外に逃がすべくオフィスからかけ出すのであった。
オフィスに帰った俺を迎えたのは上司が怒りの言葉を書き殴った置き手紙と、うず高く積みあげられたファイルの山だった。どうやらカメムシを逃がしたことより、自分の指示に従わなかったことに対して怒りを覚えたらしい。
「余計な仕事、増やしちゃったなあ……」
どんなに愚痴っても仕事が減るわけじゃあない。余計に帰りが遅くなったことを自覚しつつ、俺は人の少なくなったオフィスでファイルの山に手を伸ばし始めたのだった。
2本の時計の針はぴったりと重なり、ちょうど日付が変わったことを指し示している。ようやく押し付けられた仕事を片付けた俺は、がらんとしたオフィスを後ろに帰途についていた。
「なんだか今日は妙に疲れたなあ……」
残業がいつもより長引いたせいだろうか、それともあのカメムシの一件のせいだろうか。そもそもなぜ俺はカメムシを助けたのだろうか。あれさえ無ければもっと早く帰れたのに――――
そんなことを考えながら歩いていたのが悪かったのだろう。
ドンッッ!!!
という大きな衝撃のあと、視界はトラックの眩しすぎるヘッドライトの明かりで満たされ、一瞬のうちに暗転した。
脳裏には懐かしい光景が浮かんでくる。
(あれ、俺轢かれたのか……)
田舎に残した母さん。久しく会っていない幼なじみ。
(これはあれだ、走馬灯ってやつだな)
よく一緒に飲み明かした親友。あの大嫌いな上司の顔。
(最後は独りでトラックに轢かれた、か。随分と寂しい終わり方だな……)
やけに思考はクリアなままで。
(ああ、願わくば来世は、もっと普通じゃない人生を――――)
なぜだか最後はあのカメムシのつぶらな瞳を思い出して。
俺の意識はそこで途切れた。
『――――――接続完了』
『転生条件を満たしました。』
『能力獲得条件を満たしました。』
『能力獲得: ――から――を出す能力』
『能力獲得: ――――――』
『能力獲得: ――――――』