第ニ幕 名前
「なるほど」
牛鍋の出汁を味見しながら、一通り事情も飲み込んだ。記憶喪失。ひとくくりで言われるが、過去の記憶が一切ないという重症なものだ。軟禁されていた施設も酷いもので、自由などは、ほぼなにもない。少女の話だと、気がついたら部屋にいたらしい。
それでも、彼女があまり抵抗しなかったのは、記憶がなくて、自分が何者なのか分からなかったからということだった。どう行動していいかも、なにをやりたいのかもわからなかったらしい。
時折、見知らぬ白衣の男たちが来て、部屋から連れて行かれた。頭に無数の配管がつけられた装置を被らされ、何時間も椅子に座らされた。巨大なモニター越しには自分が映し出されて、白衣の男たちからガラス越しに見られていた。
「そりゃ……ひでぇ話だな。っと、肉が煮えた。これは、平賀家代々で伝わる特製牛鍋だから。頬っぺたが落ちるほど美味ぇぞ」
源一郎はグツグツと煮えた鍋を開け、甘辛い匂いが部屋に充満する。それから、炊飯器からご飯をこんもりとよそい、漆塗りのお椀に卵を割って、肉をニ切れ入れた。
「あの……ごめんなさい。それで、その前の記憶は、本当に思い出せなくて……」
「ほら、なにやってんの。冷める前に、食べて食べて。腹が減っちゃ戦はできない」
源一郎は急かし、少女を食卓に座らせる。
「た、食べながら話すの?」
「話しながらが楽しいじゃないの」
「楽しい話してる訳じゃないのだけど!?」
「だからこそだよ。暗い気持ちで話してたら、どんどん暗くなっちまう。美味しいもん食べながらしてれば、いい考えだって浮かんでくらぁ」
源一郎はそう言って、牛肉を豪快に頬張った。そんな様子を眺めながら、少女はフッと笑みを浮かべる。
「いいか。こうやって箸で掴んで食べるんだ……うん、うんめぇー!」
「ふふ……」
「どうだ、やれるか?」
「……やってみる」
少女は頷き、箸で掴もうとするが、無常にも牛肉は箸から逃げていってしまう。何回か挑戦したが、やはり上手く掴めない。
「駄目か。やっぱし、異人が箸を使わないってのは、本当だったんだな。ちょっと待ってな」
源一郎は台所からスプーンを持ってきた。
「俺のじいちゃんが、昔、異人と仲が良かったらしい。で、真似事で作ってみたんだ。まあ、これだとすくうだけだから楽だわな」
「……うめぇ」
「だろ?」
そうこなくっちゃと、源一郎は指をパチンと鳴らす。白飯に牛鍋。盆と正月が一度に来たようなメニューだ。野呂に若干の罪悪感を感じつつも、普段から食べてる量が段違いなので、まあいいかと牛肉にかじりつく。
「うんまぁ……しかし、よく逃げ出せたもんだな」
豪快にご飯をかきこみながら、源一郎がつぶやく。
「突然、爆発が起きて。みんな慌てて逃げてたから多くは聞き取れなかったんだけど、開国派だとか、自由民権派だとかって」
「……志士の襲撃か」
表立ってはいないが、遠方の藩には反政府組織として志士を匿っているとか。そんな勢力も介在しているとなると、いよいよ侍の介入が現実味を帯びてきた。
「っと、そう言えば君の名前をどうしようか? どうせなら、好きな名前つけちゃおうぜ」
「名前……」
「ちなみに、俺の名前は平賀源一郎。機関横町の源さんと言えば、ちょっと名の知れたもんよ。あれ、さっき言ったっけ。まあ、いいや」
「平賀……源一郎君」
「君だなんて……なんか照れらぁな。それで、名前はどうする? なにか好きなものとかあればそれを名前にするとか。どうせ、思い出すまでの仮の名だ」
「……じゃあ、これ」
「ぎゅ、牛肉は不味いだろ」
「なんで?」
「いや、別にいいっちゃいいんだが、あんまり、その、女の子っぽくないし」
「これは?」
「ご、ご飯も駄目だろ」
「なんで?」
「なんでって……うーん。もっと好きな花とか、そんなのないか?」
異人にその辺の機微を求めるのは酷かもしれないが。この少女、和の国の言葉は話せるが、文化的なものはまったく駄目なようだ。
まあ、ある程度言葉ができて、ここで過ごしていれば和の国の作法も身につくだろう……いや、ここ下町はあんまりにも下品だから、参考にしない方がいいかもしれないが。
「じゃあ、源一郎君がつけて」
「んー。そうだなぁ」
黒髪の少年はジッと少女を見つめた。初対面で印象的だったのは、琥珀色の瞳。いや、他にも藍色の髪も、整った輪郭も……
と考えていたところで、長時間見つめ合っていることに気づいた。源一郎は、急に気恥ずかしくなって顔を背けた。
「コ、コハクってのは、どうだ?」
「コハク……」
「ほら、瞳の色が琥珀色だから、コハク……あー、でも漢字がちょっとものものしいかな」
源一郎は紙に漢字を書いてみて、首を傾げる。虎の字が入ってしまうと、女の子の名前にしては物騒に感じてしまう(少女は異人なので、そこまで気にしなくてもいいとは思うのだが)。それに、画数も多いから、名前には向かない。
少年はしばらく頭を悩ませ、やがて思いついたように、紙に筆を走らせる。
「当て字で行くか『心』に『白』と書いて、心白。こう書くんだ。ちょうどいい、君は今、心が真っ白な状態だから」
「……」
「そう悲観するなって。いいか? ものは考えようだ。真っ白ってことはこれから好きなように絵が描けるってことだ。それって、ワクワクしねぇか?」
「……する」
少女は満面の笑顔を浮かべた。
「じゃあ、他にもいくつか考えて……」
「ううん。心白がいい。あなたのつけてくれたこの名前がいいの……ありがとう、源一郎君」
心白は、自身の名前が書かれた紙をジッと見つめて答えた。