プロローグ 出会い
とある白い部屋に、少女は囚われていた。住むには充分な広さで、家具、トイレ、シャワーなどは完備。食事は朝、昼、夕と3回配膳される。生活するには、なんの不自由もないが、外へ行くことは禁じられている。
いわゆる、軟禁状態というやつだ。
時折、どこかに連れて行かれて、妙な配線が張り巡らされた装置をつけられる。それから硬い椅子に座らされ、ガラス越しから大勢の男たちに観察される。恐らくはなにかの実験で、なにかの数値を取られているのだろう。1ヶ月も同じことをさせられれば、いい加減に察しもつく。
そんな生活が続いていたし。
そんな生活が続くと思っていた。
*
「うっわー、綺麗な星」
少女は、窓から見える夜空につぶやいた。一面に広がる満点の天の川。この施設が山にあるからだろうか、空気が透き通っていて、今にも吸い込まれそうだ。思わず心がウキウキして、伝えたくて、少女は後ろを振り返った。
「……はぁ」
誰もいない。空を見上げる程度の自由はあるが、ここには、話し相手も、話し動物もいない。この思わずため息をついてしまうような、胸の奥に風が吹いてしまうような想いが、なんて言うのかは知っていた。
「退屈だな……」
そんな風につぶやいた時。
「にゃー」
鳴き声が聞こえ、少女はあたりを見渡した。いたのは、真っ黒な猫。大木に登って枝からこちらを見上げている。
「話し動物!」
少女は、ぱあっと明るくなって、身を乗り出す。なぜこんな大木の枝に猫がいるのか。不審に思わなくもなかったが、好奇心と寂しさが遥かに勝った。
チッチッチッ。
舌を鳴らして呼ぶと、枝づたいからこっちに寄ってきた。窓との距離は数メートルほど。どんなに猫が頑張っても、一飛びではこちらに来られない。
少女は、部屋の中を見渡して、置いてあった細長の帽子立てを持ち、窓の外へと突き出した。
「ぐぬぬ……」
か細い腕で必死に支えていると、黒猫が帽子立てを二回ほど飛び、見事に部屋の中へと入った。
「はぁ……はぁ……よし、成功」
少女は、汗だくになりながら黒猫に近づく。警戒心が薄いのか、唸ったりして威嚇したりはしない。ただ、黙ってこちらを見ていた。
「君の名前は?」
「……」
「ないの? じゃ、私とおんなじだ」
寂しげに笑って、少女は猫の頬をなでる。
「……にゃー」
その鳴き声と呼応したように。
ドーン!
激しい爆発音が鳴り響き、少女はビクッと肩を震わせた。どうやら、施設内の遠い場所でなにかが起きているようだ。すぐさま、白衣の男が一人、部屋に乗り込んできた。
「きゃっ」
乱暴に腕を掴まれて、廊下を歩かされる。男はかなり取り乱していた。後ろから、黒猫がついてきているが、そんなものが目に入らないくらいに。やがて、別の男が一人、こちらに駆け寄ってきた。
「神崎博士、志士の襲撃です!」
「……開国派か!? 自由民間派か!?」
「不明です。新撰組に救援要請してますが、間に合うかどうか」
「とにかく、早く避難するぞ。車を回せ」
神崎と呼ばれた白衣の男は、少女の手を掴んで、廊下を急いで歩く。
「あの、なにかあったんですか?」
「……」
答えはない。それも、いつも通りだ。この1ヶ月間、白衣の男たちは少女とは一切の口を聞かない。なんの質問にも答えることはなかった。
やがて、また別の男が駆け寄ってきて、2人で夢中に話をし始めた。
少女はふと、神崎という男の握力が緩んでいることに気づいた。
「……っ」
意を決して、少女は男の手を振り払った。
「ま、待て!」
慌てて叫ぶ男の声を振り切り、廊下の角を曲がった。案の定、その場は混乱の最中だった。少女のことなど目にも入らず、慌てふためき、逃げ惑う白衣の男たち。
とにかく、追ってくる男たちの反対側に走り出した。長い長い廊下だった。この施設は相当な規模のようで、いくつもの分岐があった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
追ってくる男たちは巻いたが、同時にどこへ逃げればいいのかがわからなくなった。
そんな時。
ふと下を見ると、黒猫がいた。
「はぁ……はぁ……どっちに行った方がいいと思う?」
返ってくるわけがないのに。少女は、黒猫に問いかけた。
返ってくるわけがないのに。
なのに。
「……助けて欲しいにゃー?」
!?
「喋っ……た?」
少女は、自分の耳を疑った。あまりに焦って、幻聴が聞こえてしまったか。もう一度目を凝らして見てみると、なぜだか目の前に人がいた。突然、黒猫から変化したと言っていい。黒のスーツ。小さな顔には黒の頭巾を被っている。ボディラインのシルエットから、どうやら女であるようだ。
「あなたを逃してあげる」
さっきまで猫だったはずの女は、悪戯っぽいウインクをして少女の手を握る。
「あなたは……」
「私? しがない、忍よ……ええ、確保しました。このまま逃します」
女は足早に歩く。耳にはイヤホンがついており、誰かとなにかを話しているようだ。
やがて、とある壁の前に突如として止まり、壁に触れた。
隠し扉。
忍と名乗った女はそこを開け、少女を中に入れる。
「ここを抜ければ、機関横町。ここに行って、平賀源外という老人を尋ねなさい。いい? 夜のうちに行くのよ。あなたの髪色と瞳を絶対に見られちゃダメ」
少女の頭を優しくなでて、渡した地図の目的地を指さす。
「あの、でも……」
「ごちゃごちゃ言わない。また、あの部屋に戻りたい?」
「……」
少女は大きく首を振った。
「いい子」
忍と名乗った彼女は、少女にふきながしをかぶせ、長く細い髪をしまう。
「これでよし……じゃあね」
女は軽やかに笑い、扉を閉めた。すると、電灯が自動でついて、細い道が照らされる。
また、独りになってしまった。
分岐がない一本道。どちらかと言うと下りで、どんどんと地の中に入っていくかのような。
15分ほど歩くと、天井から光が射す場所があった。そこで見上げると、鉄の格子が張り巡らされている。少女は隙間に指を入れ、強く力を込める。すると、鉄格子はガコッと容易に外れた。それから腕を強引に押し出して、外へ飛び出す。
出た場所は森の中だった。
頼りは月の光しかない。少女は時折、地図を開き現在地を確認しながら、険しい山道を歩く。
そんな中、小さな湖があった。月灯りで、この森の光景が反射されている。
「……」
ふと、湖の近くまで寄り、映し出される自分を眺めた。
藍色の髪。琥珀色の瞳。白い肌。少女を軟禁していた男たちは、みな黒い髪と瞳。そして、褐色の肌だった。なぜ、自分だけがこんなに彼らと違うのだろうか。
なにより、何度見ても、少女は自分の顔に見覚えがなった。
彼女の心は空っぽだった。
昔の記憶がない。
自身の名も、素性もわからない。
気がつけば、あの白い部屋に囚われていた。
忍と名乗った女が敵か味方かもわからない。だが、このままあの場所にいるには、あまりにも彼女にはなにもなかった。
なんとか、それを埋めたくて。
少女は顔をあげて、再び歩き始めた。
その先に、なにかがあることを信じて。
それから3時間ほど歩いただろうか。少女はとある町に辿り着いた。明かりがないので、よくは見えないが立ち並ぶ家々はボロボロだ。
地図を確認すると、平賀源外の家はこの辺りだった。そして、日が昇ってきて、周囲がにわかに明るくなってきた頃。
「ふぁー……徹夜、キツっ」
一人の少年があくびをしながら出てきた。ボサボサの短髪黒髪。作業着は油で汚れている。ただ、同じ黒なのに、白衣の男たちと違って瞳が輝いて見えた。少しだけその少年を見つめていると、こちらに気づいて近づいてきた。
「らっしゃい。ウチの店……我楽多は6時半からだよ」
「……あの、平賀源外さんて」
「ああ、じっちゃんのお客さん? あいにくだけど、じっちゃんはどっか行ってて……んっ?」
少年は不審な様子で、少女の瞳を覗き込む。
「あ、あのっ……」
「……」
ふぁさ。
突然、少年は少女が被っているふきながしを取る。
「あっ……」
「……」
「……」
・・・
「……い、い、異人!?」
目をまん丸くして、少年は叫んだ。
これが、平賀源一郎との出会いだった。