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3、破滅の足音

 時を巻き戻し、早朝。王都にある屋敷の中でも三本の指に入る程の豪邸を構えるエフロレスンス侯爵家は酷い混乱に陥っていた。



「どういうことだ! お前たちは何をしたんだ!」

「久しぶりに帰って来たかと思えばこんな時間に何の騒ぎです、無作法な!」

「無作法だと…? 今この私にそれを言ったのか! 高々子爵家の娘がこの屋敷で生活できているのは誰のおかげだと思っている!」

「馬鹿を言わないで! 一年の内に数回しか家に寄り付かない誰かさんが、この屋敷を維持できているのはアタシのおかげでしょう!」

「お二人とも落ち着いて、一体何があったというのです!」



 まだ陽も昇りきっていない時分に帰って来たこの屋敷の本来の主人は、妻と娘そして全ての使用人を広間に集めた。早朝から勤務する者は元々起きていたが、それ以外の者はまだ寝ていた時間帯であったから全員が集まるのには時間がかかってしまった。主人であるランドンはそれにも腹を立てていたが、このままでは話が進まないと一枚の書状を妻と娘に突きつけた。



「これは、王令…?」

「お、お母様、なんて書いてあるの?」



 書状には始めに大きく“王令”と書かれてあった。王令とは字のごとく王の命令であり、この書状には国王が直接に指示をしたことが書かれてあるという証明でもあった。当たり前のことであるが、それに背くことはあってはならない。王令はとても重く、だからこそ早々に出されることはない。代によっては一度も出されなかったこともあった。



「エフロレスンス家の者は全て、朝五時までに王城へ参上すること」

「王城に? 朝五時って後三十分とちょっとしかないじゃない…。朝ごはんも食べられないのね」

「この期に及んで朝食の心配か。我が娘はどこぞの甘やかされたご令嬢と同じように成長したようだな」

「今になって教育に文句でも!? 家にも寄り付かず娘の相手もしたことのないような人が! 大丈夫よ、エミリア。馬車の中で何か食べましょうね」

「馬鹿を言え! 王令をもっとよく見ないか! ええい、使用人たちはすぐに移動を始めろ、全員だ! 早く行け!」



 おろおろとする使用人たちと激昂する夫に苛つきながら、ローザはもう一度王令を見た。そこには『エフロレスンス家の者は全て、朝五時までに王城へ参上すること』の他にも『馬車を使ってはならない』『使用人も一人残らず参上させること』『一分でも遅れることがあればその場で取り潰しを決行する』などと書かれあった。そこまで読んでやっとローザも事の大きさを僅かに理解し顔色を失った。



「な、ここから王城へは歩けば四十分はかかるわ。無茶よ!」

「お前たちがさっさと出てこないからだろうが! この非常時に呑気に化粧などしおって!」

「ね、ねえ! とりあえず出た方がいいんじゃないかしら! 王様も一生懸命に歩けばきっと少しくらい許してくれるわ!」

「…」



 ランドンは異形のモノでも見るような視線を実の娘に送った。この国の国王は、国内では賢王と名高い良き王であったが、戦争時における容赦のなさは国外では評判で一度断じた者を許すような慈悲など持たない。人の心を持っていないと貴族間ではもっぱらの噂だ。遠くの大国から王妃を貰い受けて、やっと周辺の人間にも人らしい表情を向けるようになったがその恐ろしさは変わらない。


 それを、エフロレスンス侯爵家の次期当主である娘が知らないというのだ。無知や浅慮どころではない。この国の貴族としては致命的過ぎた。これは祖父母亡き後、ランドンが貴族としての教育を娘にしてこなかった結果であるが、エミリアの母ローザとて貴族の娘だ。それにエミリアは貴族の学校にも通っていた筈だった。何故、こんな初歩的なことも知らずに生きているのだとランドンは娘に恐怖を覚えた。


 簡単な話だった。エミリアは頭は悪くはなかったが、良くもなかった。そもそも勉強というものが嫌いだった。自分はそんなことをしなくていいと本気で信じていた。他のご令嬢たちのように婚約者探しをしたり機嫌をとったりしなければならないような詰まらないことをせずとも、エミリアは爵位を賜ることが決まっていたから競争心もなかった。本来ならそこで爵位を賜った後の苦労を最小限にできるように知性を身につけねばならなかったが、誰もエミリアにそれを教えなかった。


 母ローザは貴族の娘であったが、子爵家と侯爵家ではその立ち位置も仕事の量も質も違うことをよく分かっていなかった。その上、実家の子爵家は財政難で貧乏だった為に思考が平民のそれと似通っている所があった。つまりローザも国王の恐ろしさをあまり知らない。本来、それらの常識は侯爵家の人間が教えるべきだった。しかし祖父母は早くに儚くなり、父ランドンは屋敷に帰らない。初めの内にほんの少しだけいた、苦言を呈する使用人はローザの怒りを買って屋敷から追い出されたのだ。だからエミリアはこうなったのだ。



「あら、あの子はどこ? リタもいないわ!」

「…」

「なんて子なの! アタシたちよりも用意が遅いなんて!」



 ローザは顔を真っ赤にして怒ったが、その頬をランドンが打った。ランドンの理性が中途半端に働いたおかげでローザが倒れ込むことはなかったが、何が起きたか分からずによろめいた。エミリアは初めて見る両親の争いに驚いて、幼子のように扉まで走って逃げてしまった。



「な、何を…!」

「走れ」

「は?」

「いいから走れ。何としても五時までに王城に着かねばならん。走らないと言うならここで自害しろ。命ある侯爵家の者だけは王城へ来たのだと許しを乞う為に! 自害できぬのなら私が一人ずつ殺していってやろう! もし逃げてみろ、生まれてきたのを後悔する程の呪いをかけてやる!」

「何ですって! 大体あの子は!」



 ばちんとまた頬を打たれ、ローザは今度こそ倒れ込んだ。使用人たちは主人の怒気にやっと異常性を感じ取って王城へ走り出す。怯えるエミリアに手を貸す者は一人もいなかった。



「殺されたいのならそのまま這いつくばっていろ!」

「や! 止めて! 走るわ! 走りますから!」

「お、お母様…!」

「エミリア! 走るのよ! 走って!」



 全員が走るのを見送って、王令を手に握りながらランドンは唇を噛みしめた。ローザは見落としていたが王令には最後に『フィオナ・エフロレスンスとリタを連れて来てはならない』とも書かれてあったのだ。『もしそれを破り、フィオナの眠りを妨げればその場で斬首する』とも。


 何故だ、何故こんなことになった。自分は確かに間違いを犯した。しかしそれは若かった時の話だ。フィオナの母には少しは悪いと思っているが、その代わりにフィオナを育ててやっている。両親がどうしても貴族の娘と結婚しろと命令したからローザとも結婚した。何の取柄もなさそうな気ばかりが強く品のない娘だったが、仕方がなく娶ってやった。そのローザが嫌がるから、エミリアが生まれた後は屋敷にも寄り付かず自由にさせてやった。湯水のように使ったとて、金を渋ったこともない。領地も豊かで災害もなく税に困ったこともなかった。王宮での仕事だって程々によくやっている。自分はこんなにも良い侯爵であるのに。多少の生きづらさを感じてはいたが、これまでこんなに上手くやって来ていたのに!



「ランドン様」

「っ! リ、リタか…!」

「ええ、お早くなさいませんと、本当に五時に間に合いません。どうぞお早く」

「お前からどうか王妃にかけあってくれないか、こ、これは何かの間違いだ!」

「ひとまずは“王令”の通りに。間に合わなかったらそれで全てが終わってしまいます」

「そ、それもそうだ。屋敷を頼んだぞ」

「いってらっしゃいませ」



 ランドンが走り去るのをリタは冷ややかな目で見送った。



「真の愚か者とは、自身の愚かさを知らぬ者のことをいうのです。マーサ、よく覚えておくように」

「ああいう人たちのことですね。いくら私が忘れん坊でも、このことはきっと忘れられません」

「よろしい。さあ、屋敷を掃除してお嬢様のご朝食を用意しなければ」

「…このお屋敷を二人で、ですか?」

「何か問題でも?」

「ありませぇん…」

「言葉を不用意に伸ばさない。知性が欠けて見えますよ」

「う、はい…」



 リタの影に隠れていたマーサはため息を吐きながら、既に頭に入っている屋敷の図面を思考の中に引っ張りだしてどこから取り掛かろうと悩んだ。しかしこの屋敷に我らが皇子殿下がお越しになるのである。どこもかしこもピカピカに磨かねばとありもしない羽に力を込めた。


―――


 リタとマーサが屋敷の清掃をしている頃、エフロレスンス侯爵家の者は全て、何とか五時までに王城にたどり着くことができた。息を切らしながらも執事長が使用人の全員を数えたから確実であった。しかし、彼らが通されたのは室内ではなく屋外の広場だった。王城でのお茶会がある時にはこの場に机が並べられ、色とりどりのお菓子や飲み物が並ぶのであるがその影もない。陽が昇りきっておらず薄暗いからか、がらんとしてとても寂しい場所のように感じる。



「はあはあ、お母様、あたくし胸が苦しい」

「黙りなさい! 全く自分のことばかり言って!」

「だってこんなに走ったことなんてないもの! お母様だってはしたないって言ったじゃない!」

「時と場合を考えなさい! 年老いた母を労わることもできないの!」



 騒ぐ妻子を他所にランドンはこの扱いに恐怖していた。ランドンは確かに若い頃にやんちゃを行い、一時期社交界からも鼻つまみ者として扱われたことがあったがそれでも侯爵家の人間であった。早朝に呼び出されて、何の準備もされていない庭に連れて行かれるなど彼の人生の中ではある筈もないことだった。



「エフロレスンス侯爵、どちらにいらっしゃいますか」

「ここだ! ここにいる!」

「ランドン・エフロレスンス侯爵で間違いございませんか」

「ああ、相違ない」

「王からのご命令です。正午までこの場に留まるように」



 老齢の身なりの良い男がランドンにまた王令を手渡した。そこには確かに男が言った通りのことが書かれてあった。ランドンは手を震わせながらその王令を隅々まで読み込んだ。



「何だと、どういうことだ。陛下は何をお考えで」

「まだ休まれている貴い方もいらっしゃいますから、静かになさってください。ご不浄の場合のみ、あちらを使われることを許可します」

「な」

「では、私めはこれで」

「待て、貴様! 私を誰だと…!」



 ランドンはいきなりに現れた老人を知らなかった。侯爵であり王宮でも働くランドンが知らないということは、少なくとも上位の貴族ではない。その態度にまず怒りを覚えて掴みかかったが、いや待て、こいつに小金を握らせればあるいは―――。



「お放しなさい、エフロレスンス侯爵。私は国王夫妻専属の執事です。一度目は寛大な王妃の温情にて許しますが、二度目はありませんよ」

「な、な…!」



 老人の眼光に怯えてランドンは手を放した。老人は何事もなかったように、踵を返し王城に入っていく。それを見ていた妻子がまた、わあわあと騒いだがランドンはそれどころではなかった。


 国王夫妻専属の執事。王城で一度でも働いたことがある人間なら聞いたことのある重要な人物で、実質国王夫妻の衣食住は全て彼が一手に担っている。勿論彼には複数の部下がおり、彼自身が王城を歩き回ることはそうない。その為か彼がどんな人物か知っている者は、国王夫妻と彼直属の部下以外はほとんどいなかった。先々代の公爵家の庶子だったとか三代前の国王の御落胤だとか噂は多かったが、噂どまりであった。


 そんなに国王に近い者がわざわざ王命を届けに来たのだ。ランドンは膝から崩れ落ちた。王命とは確かに重要な書類であるが、国王夫妻専属の執事が持ってくるものでもない。先に渡された方の王命は、近衛兵が持ってきたのだ。今回のそれも近衛兵なり、国王と直接に関りを持たない者に届けさせることだって可能だったのだ。それをせず、わざわざ自らに近しい執事を使いに出した所を見るに、エフロレスンス侯爵家が国王の怒りを買ったことは火を見るよりも明らかだった。


 正午までの間、エフロレスンス侯爵家の使用人も含めた全ての者がこの何もない広場から出られなかった。いくつかの出入口には物々しい軍人たちが複数おり、彼らと交渉をしようとした使用人は張り倒された。空腹に文句を言う妻子に対してランドンは無視をつき通した。この状況下でも呑気にそんなことを言うような異常者の相手よりも、どうすればこの状況を打破できるのか考えねばならなかった。


 皆が皆、疲れて広場にへたり込んでしまった頃にまた先程の老人が悠々と歩いてきた。時計がないからランドンたちには正確には分からなかったが、太陽の位置からして正午になったのだろう。老人は先程とは違い、後ろに軍人を二人連れて来ている。



「では使用人の中で歴の少ない者から並んでついて来てください」



 またローザとエミリアが何かを叫んでいたが、老人は何の反応もせずに使用人たちを連れて行った。一人、また一人と使用人たちがいなくなっていき、その誰もが広場に戻らなかった。そしてとうとう広場にはランドンとローザ、エミリアの三人だけが残された。



「ねえ、お母様。あたくしたちどうなっちゃうの?」

「分からないわよ! 分からないけれど、そうだわ。アタシたちに咎なんてないわ、そうでしょうエミリア」

「え、ええ、そうね」

「こんな罪人のような扱いを受けたとしても、罪がないアタシたちを裁くことなんてできっこないわ。背筋を伸ばして気高くありなさい、エミリア」

「そう、そうね。分かったわ、お母様」

「良い子ね、エミリア」



 冤罪の被害者を気取って母娘が手を取り合うのを、ランドンはもう見ていられなかった。ここまでとは知らなかったと、ランドンが頭を抱えた所にまた老人がやって来た。今度は近衛兵を連れている。



「では、エフロレスンス侯爵及び夫人、そしてそのご令嬢。国王陛下がお呼びです、こちらへ」



 妻子が国王夫妻専属の執事である老人を睨みつけたが、ランドンはもう注意をする気力すらなかった。深夜に叩き起こされ本宅の者たちを残らず叩き起こし、正午を過ぎてからもがらんとした広場に数時間も放置されながらも国王の怒りからの打開策を考え続けたランドンは、一気に数年の年を取ったようにくたびれていた。


 謁見の間に王と王妃、法務大臣と外務大臣、その他にも有力者が複数と近衛兵が待っていた。ランドンが見慣れない顔も多く並んでいたが、衣服の意匠から王妃の生国の者たちであることが察せられた。そしてランドンはもう一つ、理解した。これは断罪である。何の罪かは分からなかったが、今から何らかの罪を裁かれるのだ。



「エフロレスンス卿、よく来た。この状況が一つも分かっていないような顔だが、妾が直々に説明致そう」



 おっとりとした口調で王妃が話し出した。優しそうな声色であるのに、怒りが透けて感じ取れる。ローザとエミリアもこれはさすがに理解できたようで、汗をかきながら黙って王妃の話を聞いた。

読んで、頂きありがとうございました!

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