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2、おかしな朝

 目が覚めた時、既に朝は過ぎていた。



「(寝坊を、してしまったのだわ)」



 今までだったらあり得ないことであった。幼い頃から早起きは日課であったし、使用人たちが動き出した後に寝ていればそれこそ文字通り叩き起こされた。あの夢の中へ行かないように、遅くまで起きて気絶するように眠ってもいつも同じ時間に起きていたのに。



「(リタは、リタも起こしてくれなかったのね。…呆れられてしまったのかしら)」



 窓の外の日は高く、もうすぐ昼になるのだとフィオナに教えてくれた。それでも後悔はしていない。怒られても食事を抜かれてもいい、そのくらいには幸せな夢を見た。



「起きられましたか」

「あら」

「顔色は良いようですね、肌荒れはさすがに一日では治りませんが」

「…そんなに?」

「若いからと手を抜いていると、すぐに酷いことになりますからね」

「結婚までに治るかしら」

「お化粧で隠すしかございませんね」

「そんなに!?」



 リタは怒っていないようだった。不思議ではあったが、けれどそれも当然のように感じてしまう。だって今日は別段に何か予定がある訳ではない。貴族でも平民でも休みには朝寝坊くらいは皆しているという。以前のフィオナであれば、考えることすら恐ろしかったが、今は違う。リタが来てから、自身は随分我儘になってしまったとフィオナは少し笑った。


 杖を突いているのにも関わらず、リタの食事の用意をする手際は鮮やかで素早い。その間に、新しく雇ったのだろうか見たことのない若いメイドが、フィオナの身支度を手伝った。



「まあリタ様、そのようなことを仰って。大丈夫ですわ、フィオナ様。…少し、魔法薬を使いましょう。すぐに良くなりますわ」

「ありがとう、ええと…」

「マーサと申します」

「マーサ、魔法薬にばかり頼っては本来の力が落ちます」

「何を仰います、ここぞという時に使わずして何のための薬ですか!」



 フィオナは目を丸くして使用人たちの言い合いを眺めた。リタにこんな物言いをする人など、この館にはいるはずもなかったのに、このマーサというメイドは面と向かって言い返している。



「ああ、こほん。申し訳ございません、フィオナ様。マーサは昔からの知り合いでして」

「わたくし、仕事のいろはをリタ様から教わりましたの。ですがリタ様ったら少し考えがお古いでしょう? やはり流行などを押さえるにはわたくしのようにフィオナ様と年が近い者の方がよろしいかと!」

「マーサ」

「え! あ、も、申し訳ございません。ご主人様に対して気安い口を…」



 窘められて年相応に狼狽えるマーサは今までフィオナの周りにはいなかった人だった。もしかすると、リタが気を利かせて新たに雇ってくれたのかもしれない。



「いいわ、その方が嬉しい」

「フィオナ様」

「然るべき所できちんとしてくれたら、それでいいわ。わたくしは学校にも行っていないから、年の近い人と話すのは嬉しいの」



 一応、侯爵家の娘として恥ずかしくないように教育は詰めこまれたけれど、フィオナは貴族子女たちが通うような学校には行っていない。継母であるローザがフィオナを外に出すことを嫌がったのだ。


 フィオナ自身もとりたててどうしても学校に通いたいとは思わなかった。何せ、妹エミリアが通っていたのだ。学校がどういう所かは知らなかったが、家の中にいるよりもずっと多くの人から噂話の餌食にされたり、何かの標的にされたりするだろうことは何となく想像がついた。



「ですよね!」

「マーサ!」

「うふふ」



 ああでも、もし学校に通っていたらこんな風な友人もできていたのかもしれない。ありもしない可能性をフィオナは笑い飛ばした。


 今日はすごく良い日だった。来ない迎えをいつまでも待っていられる日だった。


 朝昼兼用の食事を済ませて、さてでは今日は何をしようかと考えた時、フィオナは異変に気付いた。



「今日は、とても静かね」

「ええ、本日はわたくしたち以外にこの館には人はおりませんから」

「え?」

「現在、このお屋敷にはフィオナ様とリタ様とわたくししかおりません」

「皆様は本日、王宮に」

「…使用人たちも?」

「ええ」

「ええと、わたくしたちは良かったの?」

「王宮からお呼び出しがございましたのは、我ら三名以外のエフロレスンス侯爵家ゆかりの方々でございましたので」

「そう、なの…?」



 とても異様なことだった。王宮に継母と妹だけが行くことだってあったが、それでも使用人の全員までも呼ばれるなんておかしい。しかもフィオナとリタとマーサだけは呼ばれなかったなんて。広い館は静まり返っていて、フィオナは。



「わたくし、やりたいことがあるの!」



 と、叫んだ。


―――


 フィオナは大きな帽子を被り、分厚い本を抱えて山道を歩いていた。



「フィオナさまあ、もう帰りましょうよう」

「駄目よ、マーサ! 月の涙を咲かせたという月ノ雫を見つけるまでは帰れないわ!」

「フィオナ様、いずれ誰かに採らせますので…」

「駄目よ! リタが言ったのじゃない、肌荒れが酷いって!」

「だかっ、だからと言って…」



 フィオナは生まれて初めて、ズボンというものを履いて歩いていた。使用人が履くものだったので存外にごわごわとしていたが、思った以上に動きやすいそれに感動すら覚えた。屋敷の外にはそうそう出たこともなかったが、何だ、そう恐れることなどなかったと拍子抜けをするくらいに颯爽と。その後ろを二人の使用人が必死に追いかけている。


 フィオナがやりたかったことは、何も山登りではない。魔法薬に必要な材料集めだ。フィオナには魔力の欠片もなかったが、魔法薬を作るだけならば魔力は必要ない場合が多い。魔力を秘めた材料を適切に処理し、混ぜ合わせることができればそれは魔法薬だといえた。

毎日やることもなく、黙々と勉強を続けていたフィオナは、何度か魔法薬を作ったことがある。材料を与えられなかったから、本当に数度しか作ったことはなかったが、それはとても楽しい作業だった。それを唐突に思い出したのだ。


 屋敷には誰もいないのだと、三人しかいないのだと知ったフィオナが始めに思ったのは「魔法薬の材料を集めに行けるのでは?」だった。


 おかしなことだと自身でも分かっている。もしかしたら、とても良くないことが起こるのかもしれない。でも、だとするのならば二人が我儘を聞いてくれる内に言ってしまおうと思ったのだ。



「リタは待っていたら良かったのよ、足も悪いのに無理をしてはいけないわ」

「お嬢様を一人で外に出す使用人がどこにおります!」

「マーサがいたわ」

「マーサはまだ半人前です!」



 フィオナが屋敷の裏の山に登りたいと言った時、勿論リタは反対した。男手もいない上に怪我でもしたらどうするのだ、大体そんなことは令嬢のすることではないと叱りつけた。それでもどうしても行きたい、絶対に行きたいのだとフィオナは懇願した。


 本当に子どもの我儘と同じであった。昔に妹が使用人たちを困らせていた時のような我儘だった。それを羨ましく疎ましく見ていた自分が同じようなことをして、使用人を困らせる日が来るなんて。しかし一度噴き出た願望はしまうことができなかった。何度も何度も頼み込むと、リタはため息と共に仕方がないと許してくれた。



「でも、月ノ雫? ですか? 本当にあるんですか…?」

「あるわ。今の季節に咲く花だし、おばあ様が好きだったからおじい様が裏の山に植えたと言っていたもの」



 昔、祖父母が生きていた頃、まだ妹も生まれていなくて、けれど確実に疎まれていることを理解した頃。幸いにも祖母に似ていたフィオナは、祖父母からはそこまで邪険には扱われなかった。彼らも複雑な思いだったのだろうと今になって分かる。けれど、それを押し込めて植えた花の話をしてくれるくらいには、彼らはフィオナを孫として扱っていた。



「魔法薬は既製品がございますよお…」

「もう、ちょっと歩いたくらいで何です」

「逆にお伺いしますが、山道を普通に歩くお嬢様って何なんですか…!」

「ふふ、何なんでしょうね」



 子どもの頃から使用人の真似事をさせられていたフィオナは、きっとその辺の同世代の人々よりは体力があった。本物のメイドであるマーサより体力があるのには驚いたが、もしかすると初めての山道に興奮しているだけかもしれなかった。



「あ、見て、二人とも。ありましたよ、月ノ雫」



 細い川の脇に生えている苔の中に目的のものはあった。木陰であったけれど、葉の間から陽が差してきらきらと輝いている。花びらの部分が雫のようになっていて、薄く銀色の光を放つその姿は勉強をした通りであった。



「良かったあ…」

「も、もう、帰りましょう。もういいでしょう…!」



 フィオナは持ってきた分厚い本を捲り、絵とそこに咲いている花を見比べた。確かに月ノ雫であることを確認して、プチプチと必要な分だけ採取する。夢の中では何度も花を摘んだけれど、そういえば現実の世界で摘んだのは初めてだったかもしれない。


 本当はもっと先に行ってもみたかったが、リタとマーサが限界そうだったので仕方なく下山した。下山といっても本当にほんの少し坂道を登っただけであったが、特にリタは足が悪かったのに山を登らせてしまったので、多少の罪悪感もありフィオナは素直に言うことを聞いた。



「えっと、もしかして、今からすぐに魔法薬を作るんですか?」



 屋敷に帰ると、フィオナは自分の部屋ですぐに魔法薬を作る準備を始めた。材料は貰えなかったが、魔法薬を作る為の小さな鍋や攪拌用の棒などは自分で管理しなさいと渡されていたので、簡単な作業ならすぐにできる。



「鮮度が命って書いてあるの。自分で用意するからいいのよ、二人とも休んで」

「そういう、訳には、参りません」

「リタはとにかく休んで、貴女に何かあったら王妃様に怒られてしまうわ」

「そういう、訳には…!」



 未だ肩で息をするリタをマーサが椅子に押し込んだ。



「そうですよ、リタ様。今日は朝から準備で大変だったんですから、休んでいて下さい。フィオナ様のお世話はわたくしが!」

「朝から?」

「フィオナ様は、お気になさらないで結構です」



 リタはそうぴしゃりと言ったが、立ち上がる元気はないようで座ったままだ。けれど、朝から何の準備をしていたのだろう。まあ、もう、知る必要のないことかもしれない。フィオナは魔法薬を作るべく、採ってきた月ノ雫をちぎりながら鍋に入れた。



「と、とにかく、何か冷たい飲み物をご用意しますね!」



 マーサはそう言うと、足音も立てずに出て行った。リタはまだ半人前と言っていたが、所作の一つ一つは綺麗だ。



「その魔法薬は作ったことがおありなのですか?」

「え? いいえ、初めてです。魔法薬を作ること自体久しぶりですし、ふふ、失敗しちゃうかも」



 魔法薬を作る専門の鍋には、魔法がかけられているから材料を入れるとその魔力を抽出してくれるのだ。月ノ雫には夜の魔力が秘められている。ただ花びらをちぎっただけの小さな鍋を専用の攪拌棒でかき回すと、すぐに花びらは溶け薄く銀色に光る空気が残った。



「よろしいのです、失敗は成功の母でございます。いくらでも失敗なさいませ」

「まあ…。でも、婚家で許して貰えるかしら」



 婚家どころか、今日だってきちんと終えることができるのだろうか。考えないようにしてはいたけれど、フィオナは口に出さずにそう思った。だっておかしい。この屋敷に三人しかいないのも、使用人も含めて全ての人間が王宮に呼ばれたのも。


 おかしいが、別にいいのではないか、ともフィオナは思っている。知らない人の所にお嫁に行くことを不安がるのも、来ない迎えを待つのも、今日で全てが終わったっていい。それくらいに昨夜の夢は幸福だった。



「ご心配には及びません」

「あら、リタはわたくしがどんなお家に嫁ぐのか知っているの?」

「ええ、勿論でございます。わたくしとマーサもご一緒致しますので」

「え!?」

「その手順で合っていますか?」

「あ、お水とお砂糖を入れないと!」



 分厚い本には、十分に銀色の空気が混ざったら水と砂糖を入れる、と書いてあった。何だか美味しそうである。



「レモン水を入れるのも良いですよ」

「レモネード作ってきましたけど、これを入れてみます?」

「面白そう!」



 いつの間にか帰って来たマーサがレモネードを差し出すので、試しにとゆっくり入れてみた。



「わあ…」



 パチパチと魔力反応が小さく起きる。火花のような光が弾けるが、火ではないので熱くはない。どうやら成功したようで、小さな鍋の中には月ノ雫と同じ色の液体が現れた。これは魔法薬であるが、要するに化粧水である。夜の魔力は傷や病に効くので、肌荒れにも良いのだ。もっと沢山の材料があれば怪我の治療薬なども作れるが、月ノ雫の花びらだけではこれが精一杯であったしフィオナに今必要なのは化粧水だった。



「成功したみたい」

「良かったですね、フィオナ様!」

「あまり沢山を塗ってはいけませんよ、肌本来の力がですね」

「うふふ、分かっています」

「あれ、でも、どうしてリタ様はレモン水が良いとご存知だったんですか?」

「…常識です」

「…作ったことあるんですか」

「常識の範囲です」

「作ったことあるんですよね」

「マーサ、喉が渇いてしまったのだけれど」

「あ、すぐに用意しますね!」



 リタがこほん、とわざとらしく咳払いをしたので、それ以上は聞かないであげようとフィオナは笑った。そしてやはり考えるのは止めてしまおうと決意した。どちらにせよ、継母や妹たちが帰るまで何が起こっているのかは分からない。


 リタもマーサもこれ以上は話す気がないようであるし、何も知らないふりをして彼女らに任せてみるものいいだろう。それが破滅であったとて、今、フィオナは確かに楽しかった。子どもの頃から年の近い人と話をする機会も無く、使用人たちにはよくて無視をされていた彼女であったから、こんなにも無邪気に気兼ねなく話ができるのが嬉しくて仕方がなかった。


 マーサがいれてくれたレモネードを皆で飲みながら、本来、使用人が主人と同じテーブルにつくなどとブツブツ言っているリタを宥めすかしてこの時間を楽しんだ。


 作ってみた魔法薬は、思った以上の成果を上げた。



「どうですか」

「治りましたね、肌荒れ」

「あまり良いものではないのですよ、魔法薬というものは」

「とりあえず、治ったからいいじゃありませんか!」



 薄く塗っただけであったのに肌のざらつきはなくなり、つるんとした触り心地の頬が手に入った。今まで美容にはそう時間を割いていなかったが、これほどまでに成果が出ると楽しいものである。リタはやはりブツブツと文句を言っていたが、フィオナはあまり気にせずに鏡を眺めた。



「わたくしの旦那様になる方は、わたくしのことを気に入ってくださるかしら」

「何を仰るのですか、そんなの当たり前じゃないですか!」

「当たり前って、マーサ。わたくしは結婚する方のお名前も知らないのよ?」

「え? あ、え」

「マーサ?」

「マーサ、フィオナ様のお召し替えの準備を」

「あ、あ! そうでしたそうでした! 只今、準備致します!」



 辛うじて物音を立てずにマーサは部屋から飛び出して行った。



「…わたくしは、どんなお洋服に着替えるのでしょう?」

「美しい金の刺繍の入ったドレスでごさいます」

「そのようなドレスは、持っていなかったと思うのだけれど」

「フィオナ様の婚約者の方から贈られた物でございます」

「まあ、知らなかったわ」

「申し訳ございません。報告しそびれておりまして」

「そう、ではお礼のお手紙を書かないと」



 普通、贈られた物があるのであれば贈られた人が一番にその事実を知るものだ。厳密には使用人が受け取って、誰から贈られてきたと教え現物を見せてくれる。そしてその贈り主に返礼やお礼状を送るのだ。それは礼儀であり社交であり、貴族にはかけがえのないやり取りである。そんな初歩であり重要なことをリタが報告し忘れるなんてありえない。フィオナはそれを理解した上で、おおらかにそれを許した。


 フィオナはリタを信用していた。例えば今、リタに後ろから刺されようともそれで良いと納得していた。フィオナには既にリタ以外に信頼できる人などいなかったのだ。夢の中の最愛の友人の他で初めてフィオナだけを見てくれた人だった。亡くなった祖父母たちもフィオナを蔑ろにはしなかったが、彼らが見ていたのはやはりフィオナに流れる自分たちの血筋だけだった。自分を唯一見てくれたリタが、何らかの思惑で自身を排除しようとしているのなら、フィオナはそれでも構わないのだ。最後にもう一度、あの優しい夢を見られたのはリタのおかげだ。今までのことだって嘘でも構わない。嘘であってもリタがフィオナにしてくれたことは事実として残っているのだから。



「お手紙は、いえ、もう来られますので」

「…え?」

「もうすぐ来られますわ」

「どなたが?」

「フィオナ様の婚約者様の方です」

「まあ…」

「フィオナ様、準備ができましたので衣装部屋へどうぞ!」



 これにはさすがのフィオナも驚いだが、次の言葉を発する前にマーサが戻って来たのでそれ以上の追及はできなかった。本来、当主であるフィオナの父か女主人であるローザが不在のこの屋敷に、人を招くなんてそんなことはまかり通らない。その筈であるのだが、フィオナはマーサの勢いに負け押されるがままに衣装部屋に連れて行かれた。



「見てくださいー! もう、すっごい素敵でー!」

「本当に、綺麗ね…? えっと、すごく…」



 白に金の刺繍の入ったドレスは、繊細で細やかな刺繍が胸と腰部分を中心に施されている。背中はほとんどがあいていて、後ろから見た時と前から見た時の印象ががらりと変わるドレスだった。



「こんなドレス、初めて見たわ…」

「私もです! 興奮してきました! さ、着替えましょ着替えましょ!」

「いいのかしら、こんな素敵な。…気後れしてしまうわ」

「フィオナ様の為に用意されたドレスでございます。フィオナ様が気後れなさってどうするのです」

「でも、お礼もしていないのに…」

「お礼など直接なさいませ。さあお早く。マーサ、時間がありませんよ」

「はい、ではフィオナ様!」



 戸惑うフィオナなど構わずに二人の使用人は彼女を着替えさせた。リタは足は悪いから歩く時には杖を使うが、ただ立っているだけであるなら杖は必要ない。何なら若いマーサよりも素早くフィオナの装いを整えた。


 フィオナは夜会に出たことがなかったので、こんな豪奢なドレスを着たことはなかった。継母であるローザが実の娘であるエミリアに何着もドレスを買い与えていたが、夜会に行く必要のないフィオナには特に興味もなかった。ローザが侯爵夫人然とした落ち着いた高価で上品なドレスを身に纏い、流行りのドレスをエミリアが着こなしていても本当に何とも感じなかった。しかしいざ着てみるとどうだろう。恥ずかしいのか嬉しいのか、それとも逆に惨めなのかよく分からない感情がフィオナの胸を占領した。


 フィオナはどんな扱いを受けていようと侯爵家の娘だ。夜会用の煌びやかなドレスは着たことがなくとも、平民が普段着にはしないような洋服を毎日着ている。それで満足していた筈だったのだ。それが、こんな。フィオナは言いようのない、罪悪感のようなものを喉のすぐ下に感じてしまった。



「お綺麗ですわ、フィオナ様!」

「ええ、お見立て通り。あの方もさぞ喜ばれるでしょう」

「…あの方?」

「いやです、フィオナ様のご婚約者の方に決まってるじゃないですか。あ、首飾りと耳飾りはこちらを、靴はこっちです」

「え、ええ…」

「あら、いらしたかしら。マーサ、フィオナ様のご準備が整えられたら客間にお連れなさい」

「畏まりました!」

「リタ、どこへ行くんです?」

「お客様のお迎えに」

「お客様…?」



 フィオナが戸惑いながら身支度をされていると、リタが杖を突きながら部屋から出て行った。衣装部屋は三階の奥にあって、一階にある玄関の音など聞こえる訳がない。時計もないので時間を見計らって出て行くこともできないないのに、何をもって来客だと言うのだろう。そう困惑するフィオナとは反対にマーサは元気だった。



「だから、フィオナ様のご婚約者の方ですよ! さあ! お化粧と御髪も整えなくっちゃ!」



 フィオナをぐいぐいと化粧台の前に座らせて、色とりどりの化粧品を並べる。この手の物をまじまじと見るのもフィオナには初めてのことだ。リタが来る前も使用人が見苦しくないように整えるくらいはしてくれていたが、今思えば白粉を少量顔に乗せただけであった。リタが来てからは身支度に化粧が加わったが、リタの手際が良すぎて彼女が使っている道具もそう見たことはなかった。



「え。…え!? で、でも、お父様もお義母様も誰もいないのに」

「? フィオナ様がいらっしゃればそれで十分ですわ」

「…ああ、そう。そうですね」

「そうですよ。あ、フィオナ様はどのお色がお好きですか? おすすめはこっちの薄紅色ですが、こっちの橙も発色がよくて」

「マーサに任せます。…綺麗にしてくれる?」

「勿論ですとも! お任せください!」



 自分だけがいればいいと、いう言葉の意味はもう深く考えないようにしてフィオナは目を閉じた。マーサがはしゃぎながら、この色はどうでこういうやり方が流行で、と嬉しそうに化粧をするのをただじっと黙って聞いた。



「できました。お綺麗ですよ、フィオナ様」

「少しその、華やか過ぎないかしら」



 自信作だと言いたげにマーサが胸を張る。確かに鏡の中のフィオナはとても美しかった。しかしこのような華やかな化粧を施されたことがなかったフィオナは、嬉しさよりも先に戸惑いを感じてしまう。リタがしてくれる化粧は落ち着いた色合いが多く、流行にも疎かったフィオナにはこの華やかさが落ち着かなかった。



「まさか、とっっってもお似合いです! …あ、えと、お気に召しませんでしたか?」

「そんなことはないのよ。でも、初めてお客様にお会いするのだし、もう少し落ち着いた色の方が」

「リタ様のお化粧も確かに素敵ですけど! フィオナ様くらいのお年の方にはこのくらい鮮やかな方がお似合いです!」

「そ、そう?」

「そう! です!」



 マーサが力強くそう言うので、何だかフィオナもそんな気がしてきた。自身がこんなに人の意見に左右される気質であったことを初めて知ったフィオナは、少しだけ苦笑した。



「マーサ、フィオナ様のお支度はまだ済まないのですか」

「い、今! 今、終わりました!」

「早くなさい、お待ちかねですよ。フィオナ様、ご準備はよろしいですか」

「ええ」



 痺れを切らしたらしいリタが二人を呼びに来た。そのリタがあんまりにも優しい目をしていたので、フィオナは訳もなく泣いてしまいそうになった。侯爵家の厄介者である自身に待っているのは死か、それともここよりも居心地の悪い婚家だろうかと、そればかり考えていたフィオナには不思議な感覚だった。


 夢での約束を守れないことは胸に重くのしかかっていたけれど、もし、死なないで済むのならいつかまたあの美しい夢の中で会うこともあるだろう。その時に謝ればいい、許してくれずとも生きてさえいれば謝ることはできる。死を告げられたなら命乞いなどするつもりもなかったが、夢の中の友人にもう一度会う為だけにどんなに惨めでもやるだけはやってみようと決意しフィオナは腰を上げた。



「あああ、すごい、落ち着いてくださいね、フィオナ様。大丈夫ですよ、大丈夫ですから、深呼吸をして」

「マーサ、まず貴女が落ち着くべきだと思うの」

「全くです、騒がしい」

「だってえ、うううう、ぞわっぞわしますううう」

「マーサ」

「大丈夫? 控え室で休んでいた方がいいのではないかしら」

「いいいいえ! まさか! あ、開けますね…!」



 客間の扉の前でマーサが小さく騒ぎ出すので、フィオナはどんどん落ち着いていった。自身より緊張している人が傍にいると逆に落ち着いてくる、ということを本で読んだことがあったがこういうことかとフィオナは頷いた。マーサはリタに窘められながら深呼吸を繰り返しやっと扉を押し開けた。



「どうぞ、フィオナ様」

「ありがとう」



 客間は侯爵家の屋敷に相応しく大きな造りで、一度に二十名以上が余裕を持って入ることができる。祖父母が生きていた頃には何度か彼らに連れられてフィオナもこの客間に入ったことがあったが、二人が亡くなってから入るのは初めてかもしれなかった。


 中には何人もの人が、いや、普通の人でないことが一瞬で分かるような体の大きな人が複数立っている。異様だ、あまりにも異様だ。当主不在の侯爵家に護衛と思われる軍人を複数引き連れてやってきたというフィオナの“婚約者殿”はこの中の誰なのだろう。本能的に感じてしまった恐怖を決して表に出さぬように、フィオナは目元と口元に力を入れた。



「お待たせいたしました。エフロレスンス侯爵長子、フィオナと申します」

「ああ、フィオナ。ほら、そう待たせなかっただろう?」

「…え」

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