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1、夢だからこそ

 夢を見る。物心ついてからずっと当たり前のように。その夢の中だけでは、大好きな友だちと一緒に心から笑いあうことができた。



「まあ、お姉様。いらっしゃったの? 道理で臭うと思ったわ」

「相変わらず可愛げのない子。エミリアを見習いなさいといつも言っているのに」

「申し訳ございません、お義母様、エミリアさん」



 フィオナはエフロレスンス侯爵家の長女だった。けれど不義の子であった。父、ランドンがまだ結婚前にしかし現在の妻との婚約中に、遊びで作った子どもだった。


 フィオナの母は商売女であったから子どもなんて作る気はなかったのに、父が避妊をわざと怠った結果にできた子どもだった。若気の至りで貴族制度に嫌気が差していた父は、母を妊娠させてしまえば婚約を解消できると思ったらしい。侯爵家の一人っ子だった父が、である。当たり前のようにそんなことにはならなかった。


 そもそも予定外の妊娠をさせられたフィオナの母は父に激怒し、しかし自身の脇が甘かったと仕方がなくフィオナを産んだが出産の最中に死んでしまった。赤子の時点で父と、そして祖母とそっくりだったフィオナは誰がどう見ても父の子に間違いなかった。


 祖父母は生まれた子どもに罪はないと、フィオナを父に引き取らせた。それがいけなかった。


 子爵家の娘だった父の妻ローザは、家格の違いから文句も言えずにエフロレスンス侯爵家に嫁ぐほかなかった。実家の子爵家も侯爵家に媚びへつらうだけで好きなだけ援助が出ると娘を売り払った。しかも馬鹿をやった次期エフロレスンス侯爵に娘を差し出したのは財政難に喘いでいた子爵家だけだったから、家格は釣り合わないがお似合いであると誰も彼もに嗤われた結婚だった。ローザの屈辱や悲哀は想像に難くない。


 初めから二人の間に愛などなかった。ローザが抱いていたのは憎しみだけであったし、ランドンは多少の罪悪感と肩身の狭さを感じていた。それでも子どもは作らなければならない。商売女の子どもであるフィオナを跡継ぎにすることはできなかった。そうやって生まれたのがエミリアだった。


 丁度その頃、一応は孫としてフィオナを扱ってくれていた祖父母が続けて亡くなった。始まりが父ランドンの不義であったから、妻ローザには使用人たちも同情的でフィオナの扱いはどんどん悪くなっていった。


 ランドンは自身の若気の至りを刺激され、延々と詰られることに疲れて家に寄り付かなくなっていった。彼は元々フィオナにもエミリアにも構いはしなかったが、彼がいなくなったことでフィオナへの扱いは更に悪くなった。虐めや虐待ともとれることをされたとて、フィオナを守ってくれる人はいなかった。


 そんな中、フィオナの唯一の救いが夢で会える友人だった。



【フィオナ、今日は何をして遊ぶ?】

【そうねえ、お花で冠を作りましょう】

【前もしたよ、それ】

【何回だってしてもいいのよ】

【じゃあ、冠を作ったら追いかけっこをしよう】

【ええ、いいわ】



 フィオナが卑屈にならずに、精神的に安定して育つことができたのは夢の中で会える友人のおかげだった。レナルドという、どうしてだか背中に真っ黒でコウモリのような羽ととかげのそれを大きくしたようなやっぱり真っ黒の尻尾を持つ、少しばかり変わった友人はいつだってフィオナと遊んでくれた。


 ほとんど毎日、フィオナはレナルドと夢の中で遊んだ。夢の中は季節に関係なく綺麗な花畑で、欲しいものは思うだけで取り出すことができた。叩かれて頬が腫れていた日でも、食事を抜かれてお腹が空いた日でも、罵られて悔しくて泣いて寝た日でも夢の中ではいつでも綺麗な恰好をしていた。


 だからフィオナはレナルドに泣き言を言ったことはない。夢の中では普通の恵まれた子どものように振る舞った。そして遊ぶことに集中した。年相応に遊ぶことを許されたのはこの時だけだったから、フィオナは思い切り遊び我儘を言った。


 レナルドは優しく、フィオナが「お絵描きがしたい」と言っても「おままごとがしたい」と言っても怒らなかった。自分のやりたいことを主張してそれを否定されないことに、フィオナは酷い罪悪感を感じたけれど、許されるのが嬉しくて止めることができなかった。



【レナルド、怒っていない?】

【フィオナはたまにそれを聞くけれど、何か僕が怒るようなことをした?】

【いいえ、怒っていないならいいの。…追いかけっこをする?】

【まだ冠が作れてないよ、僕のはフィオナにあげるからね。もうちょっと待ってて】

【うん…】



 本当はずっと夢の中にいたかった。けれど、朝に遅く起きることをフィオナは許されない。使用人たちより先に起きて、身の回りのことと部屋の掃除を済ませておかねばならないのだ。出来ていなければその日の朝食はない。



【もう起きないと】

【いつも思うんだけれど、フィオナはもう少し朝寝坊をしていいんじゃないかな】

【…立派な淑女になる為には必要なことなのよ、わたくしは侯爵家の娘だから】

【もう十分に立派だよ】

【ありがとう、では、お話の仕方も変えないといけませんわ】

【ふふ、何だい? それ】

【本当は、わたくしだっていつもこうやってお話しておりますのよ。レナルドのことは呼び捨ててしまっているけれど、本当はレナルド様って呼ばないといけないのですわ】

【いつも通りでいいよ】

【怒られちゃうわ】

【誰がフィオナを怒るというんだ。こんなに素晴らしい人なのに】



 レナルドは真剣にそう言ってくれる。本当にそう思ってくれているのだ。フィオナはそれが嬉しくて惨めで、いつも泣いてしまいそうになるのを我慢していた。



【フィオナはもうそんな所まで勉強したの。僕はまだそこまで習ってないよ】

【お勉強はね、嫌いじゃないの】

【…ねえ、フィオナ。分数のかけ算はもう習った?】

【ええ、教えてあげるわ】

【ありがとう、フィオナ! 嫌いなんだけど、明日筆記試験をするって言われて困ってたんだ】

【コツがあるのよ】



 日々が辛くて心の中が荒んでしまっても、レナルドと会えるのならばいつだって何でもないように思えた。きっとレナルドは辛い日々からの逃避の為に、心の中で無意識に作ってしまった都合の良い友人なのだろう。


 それにしては見たこともない姿をしているが、フィオナが昔に絵本の中で見た竜伝説が交じってしまったのかもしれない。レナルドの翼と尻尾は彼が成長すると同じように立派になっていった。



【とっても大きくなったわね。ねえ、重たくない?】

【体の一部だからな、特には。むしろいつもはしまっているから、ここでくらいは伸ばしたいくらいだ】



 ずっとそうやって日々を送っていた二人は、いつの間にかもう子どもではなくなっていた。レナルドは声変わりというものを終え、体も大きくがっしりとしてきた。フィオナは無駄な栄養を与えられないからあまり凹凸のない華奢な体をしていたが、それでももう少女ではなかった。



【しまう?】

【見せたことはなかったか、まあ、こちらが私の本来の姿なのだが】



 レナルドはフィオナが躾けられた言葉を話すのを嫌がったくせに、自分は一人称も変え大人のような話し方をするようなった。大人のような、ではなく、もう大人なのかもしれない。フィオナは自身の夢であるのにと、多少の寂しさを感じた。


 レナルドは立ち上がると、髪をかき上げた。その動作と一緒に彼の背の羽と尻尾が無くなってしまう。



【…無いわ】

【しまったからな】

【無くなってしまったわ、痛くないの? 大丈夫?】

【はは、大丈夫だ。痛くなんてない、普段はこうやって過ごしているんだぞ】

【どうして?】

【邪魔だろう、椅子に引っかかって笑われるのはごめんだ】

【そんなことをする人がいるの?】

【父上とかがな、自分の身幅も分からんのかって】

【そう】



 もしかすると、レナルドも誰かに虐められているのではないかとフィオナは焦ったが、そういうことではないようだ。きっとレナルドは家族に愛されている。きっと、自分がそう願っているのだ。自身を愛してくれる、普通の家族。レナルドが辛い思いをしていないことをただ安堵すれば良かっただけであったのに、フィオナは胸に刺さった嫉妬に苦しんだ。



【フィオナ、どうした?】

【いいえ、驚いてしまって。ねえ、レナルド。その姿も素敵だけれど、わたくしはいつもの姿の方が好きです】

【そ、そうか。ではこの場では、ずっと本来の私でいよう】

【ええ、嬉しいわ】



 何でもない顔をして笑うことには慣れている。その日からフィオナは、眠るのが恐ろしくなった。唯一の友人であるレナルドにあんなことを感じるなんて、なんて酷い裏切りなのだろう。レナルドがいたからこそ、自身は今日この日まで生きてこられたというのに。フィオナは罪の意識に苛まれながら、勉強に熱中した。


 眠らないでいることはできない。しかし気絶をするように眠ってしまえば、あの優しく都合の良い夢の中へ連れて行かれることはなかった。それに気付いてからは、そうやってやり過ごして、罪の意識から逃げた。継母や妹からの詰まらない攻撃もこの時だけは助かった。フィオナは自身を痛めつけたかった。



「フィオナ、お前に婚約の話がきている」



 久しぶりに帰って来た父は、挨拶もそこそこにフィオナに向かってそう言った。それは命令で拒否権などなく、また既に決まったことだった。



「どうしてお姉様なんかに婚約のお話がくるのです。ああ、もしかしてすごく酷い条件なのかしら。お可哀想なお姉様。でもやっと出て行って下さるのね、嬉しいわ」

「そうですね(貴女よりもわたくしの方が嬉しく思っているわ)」

「まあ、呆れた。可愛い妹が貴女の門出を祝っているというのに他に言い様はないのですか、本当に愛想のない子。嫁ぎ先から追い出されたってもう貴女の居場所はこの家にはありませんからね」

「はい、お義母様(変わり映えのないお言葉ですこと)」



 この頃になると、フィオナは二人の言葉くらいでは心を動かすことがなくなっていた。ああ、また言っている、くらいである。使用人たちの中にフィオナをきちんと令嬢として扱ってくれる人が、数ヶ月前にやって来たことも大きかったかもしれない。


 リタという壮年を越したくらいのその女性はとても厳格で、使用人たちにフィオナを雑に扱うことを禁じた。どんな理由があれ、それが例え奥方からの命であっても侯爵家のご令嬢を虐げることなどまかりならないと、あろうことか継母ローザの前で叱りつけた。更にローザとエミリアに対しても、侯爵家の人間として誇りある態度をとるようにと嗜めた。


 リタは元々は王家に仕えていた人であったけれど、足を悪くして杖を突かねばならなくなったが、しかし彼女は王妃のお気に入りであった。彼女の行く末を案じた王妃に向かって、滅多に帰って来ない父が「我が家の使用人の教育係に」と言って連れ帰って来たのだ。


 面と向かってリタに意見できる人は、ローザも含めいなかった。何せ、リタは未だに王妃と懇意にしているのだ。直接にお会いすることはなくとも、二人が手紙のやりとりをしているのは誰もが知っている。ローザたちはフィオナへの態度は改めなかったが、それでもリタに隠れてしかできなくなったし、暴力や食事を抜かれることもなくなった。



「よろしいですか、フィオナ様。どのような背景がおありでも、貴女様がエフロレスンス侯爵家の長子であることには変わりないのです。背を伸ばし下々の者たちに恥じぬようにお過ごしください」

「はい」

「人は、醜悪になろうと思えばいくらでもなれるものです。ですが、好き好んでそのようなものにならずともよろしい」



 リタはよくフィオナを構った。エミリアの方へ行かないでもいいのか、とフィオナが聞くと「あちらには既に多くの使用人がついております」と忌々しそうに言い捨てた。リタは確かに杖を突いていたがそれだけで、後は他の使用人たちと見劣りしない程によく働いた。働きぶりもさすがは王家に仕えただけのことはあり一流で、使用人たちの中にもリタの仕事ぶりを認める者は多かった。



「フィオナ様、本日はもうお休みください」

「そうですね、後少し勉強をしたら」

「お休みくださいと申し上げたのですが」

「…まだ眠たくないのよ。心配しないですぐに休みます」

「そう仰って、フィオナ様が眠ったためしはございません。幼いお子のように子守唄などご所望でしょうか」



 厳しい物言いであったが、フィオナは苦笑を漏らすだけであった。リタがフィオナを心から案じていることが聞いてとれたのだ。血のつながりすらない使用人の方が自身に親切であることが、何だかおかしかった。



「フィオナ様」

「ふふ、ごめんなさい。でも本当に眠たくないのよ…。それにどんな方かは知らないけれど、もうすぐわたくしも結婚をするわ。お勉強なんていくらしても足りないでしょう?」

「御冗談を、貴女様は鏡をご覧にならないのですか。そんな青白く肌の荒れたお顔でお嫁入りされたとして、何をどうするおつもりなのです。婚家にいらぬ疑いをかけられますよ」

「まあ、リタ、酷いわ。…ねえ、そんなに?」



 鼻で笑われながら、フィオナは自身の頬を触った。確かに少し、いや、それなりにざら付いているかもしれない。リタが来てからというもの、食事を抜かれることもなくなったので少しふっくらとしてしまった頬は、それでも睡眠不足で誰が見ても確かに荒れていた。



「ええ、不健康そのものですわ。お化粧でだって隠し切れません。今日こそは眠って頂きます」

「…」

「どうなさいました」

「…夢を見るのよ」



 あの優しい夢を見るのだ。優しくて、泣き出しそうになるあの夢を。あの詰まらない、そしておぞましい嫉妬を感じた後、未だに行けていない褪せることないあの花畑。フィオナには分かるのだ、眠ってしまえばまたあそこに行ってしまうと。急遽決まった結婚がもう間近に迫っているというのに、いつまでも弱かったあの子どもの頃のままで。



「お嫌ですか」

「嫌では、ないわ」



 嫌なはずがない。あの空間だけがフィオナの救いであり支えであった。眠ってしまえば必ず行けるあの夢の空間があったから、フィオナは生きてこられたのだ。本当は、許されるならいつだってあそこに行きたかった。



「でしたらどうぞ、お休みください。何の心配も必要ございません。このリタが眠るまで傍でお守り致しましょう」

「そんな、子どものような」

「先程ああは申しましたが、フィオナ様は幼少の頃そのような体験をなさったことはございますか?」

「…ないわ」

「でしたら人生経験ですわ。さあ、ベッドへ」



 リタは譲る気がないようであった。さっさとフィオナのベッドの横に陣取って、早く寝なさいとシーツを叩く姿が話に聞く母のようだ。嬉しいのか悲しいのか、それとも安心してしまったのかよく分からない感情がフィオナの胸を駆け巡ったが、言われた通りにベッドに横になった。



「(こんな時間に眠るのなんて、本当に久しぶりだわ)」

「さあ、目を瞑って。…きっと良い夢が見られますわ」

「…本当?」

「本当ですよ。おやすみなさいませ、フィオナ様」



 厳しいリタには珍しく優しい声色であった。フィオナは子どものようなことを言ってしまったと恥じたが、リタは笑わなかった。



〖無二の星はここにある、不二となるべき詩を紡ぐ。愛は迎えにゆくもの、いつか皆、ここに戻る〗



 本当の子どもにするようにお腹のあたりを優しく叩きながら、リタは子守唄を歌った。聞いたことのない歌であったが、そもそもフィオナは子守唄を多く知らない。きっと自身が知らないだけで、一般的なそれなのだろうなあ、とぼんやり思って


―――


 思った所で、フィオナは目覚めた。現実の目覚めではない。夢の目覚めだった。



【(不思議な感覚だわ、前はこれが当然のことであったのに)】



 夢だと分かる夢。フィオナとレナルドだけの優しい空間。一面の花畑が広がる――



【え】



 夢の中は季節に関係なく綺麗な花畑で、欲しいものは思うだけで取り出すことができて。そのはずだった。ここは夢の中だ、フィオナの夢の中だ。それなのに。



【何も、ない…?】



 ただただ真っ白な空間には、何もなかった。優しい日差しも鮮やかな花々も可愛らしい小鳥も、何もなかった。上も下も分からない空間は、それでも子どもの頃からずっと来ていた夢の中で間違いはなかった。



【どうして、ああ、でも…】



 これが大人になるということなのだろうか。いつまでも夢の中に救いを求めてはいけないのだと。フィオナは、自身が先に手放したというのに、もう二度とあの優しい場所に行けなくなったことを身勝手に嘆いた。いいのだ、ここはフィオナの夢の中であるのだから。ここでだけは自由にしていいのだ。



【レナルド…っ】



 結婚をするのだ、知らない人に嫁ぐのだ。それは仕方がない、リタが言った通り自身はどうあっても侯爵家の娘であったのだ。いつまでも夢の中の友人に縋っている訳にはいかない。でも、それでも会いたかった。会いたかったのだ。


 どうして自身の夢であるのにこんなに悲しい思いをしなければならないのか。フィオナは幼い子どものように声を出して泣いた。初めてのことだった。フィオナは子どもであることを許されなかったから、泣いたところで誰も彼女を慰めなかったし酷い時は煩いと打たれた。だからフィオナは大声で泣いたことなんてなかったのだ。


 それでもいいのだ。泣いたとて、この場所にフィオナを打つ人はいない。現実の世界でだってリタが来てくれたから、もうそんな人はいない。それでもこの涙は必要なのだ。これは子ども時代への決別の涙だ。悲しくて、辛くて、どうしようもなくても、もうこの夢はフィオナを慰めない。良いことなのだ、大人になったということなのだ。それでも涙は尽きなかった。



【――オナ】



 泣き過ぎて、音に膜がかかったように聞こえる。自身の息ですら靄がかかったようだ。けれどフィオナの耳には、確かに。ああ、そうであったならどれほど良かったか!



【フィオナ!】



 どん、という衝撃と共に、フィオナは何かに覆いかぶさられた。顔を覆っていたフィオナには何が起こったのか分からなかった。分からなかったが、この声は。



【フィオナ、フィオナ! ああ、やっと! 今までどうして、フィオナ…!】

【あ、ああ、レナルド…っ】



 ずっと聞きたくて、ずっと聞きたくなかった声だった。失ったことに気付いてやっと惜しんだ身勝手さを呪った声だった。フィオナは無我夢中でレナルドに抱きついて、またわんわんと泣いた。レナルドも声を出さずに泣いているようであった。二人は抱き合いながら暫くそうして泣いていた。



【フィオナ】



 どのくらいそうしていたか、分からない。夢の中であるのに、現実と同じで泣き過ぎて頭が働かなかった。フィオナにとっては初めての体験であったが、レナルドの腕の中は温かくそれ以外はどうでもいいと思えた。



【何故、私に言わなかった】

【…? 何を…?】



 ふわふわと夢見心地で、夢の中であるのだからおかしなことであったが、地に足がついていないような不思議な感覚だった。レナルドが何かを我慢しているような、怒っているような声色でそう言ったのに、フィオナは焦ることなくそう聞いた。



【何を、だと。…。フィオナ、何故、虐げられていることを黙っていた】

【ああ、ああ…。知ってしまったの、レナルド…】



 フィオナは絶望したような、安堵したような気分になった。知られてしまった。不義の子であると、愛されていない子であると。自身の夢の中であるから、言いさえしなければきっとバレることなんてなかったのに。けれど、もう知られてしまったならしょうがないと諦めもついた。



【知られたくなんてなかったからよ、当然でしょう。貴方には、知られたくなかったの】

【な、わ、私が、信用できなかったと言うのか…!】

【そうじゃないわ、そうじゃないの。…可哀想って思われたくなかったの、慰めて欲しくなかったの。夢の中でくらい、普通の子みたいに遊んでいたかったのよ】

【言ってくれさえすれば! …いや、いや違う。私が悪かったんだ】

【? レナルドが悪かったことなんて一度だってなかったわ】



 いつの間にかフィオナはレナルドの胡坐の間に横向きに座らされていた。さっきまで真っ白で上も下もなかった空間には、これまで通りの花畑が広がっている。本来ならば侯爵家の娘が友人の膝の上に座るなどはしたないが、夢の中では許されるのだ。これはフィオナの夢であるのだから。片手で顔を覆って俯いてしまったレナルドに抱きついてもいいのだ。



【レナルド、ずっと黙っていてごめんなさい。嫌な思いをさせてしまったのね】

【違う、そうじゃない! …っ、…。大きい声を出して、すまない】

【ううん、大丈夫】



 子どもの頃によくしたように、フィオナはレナルドの頬に口付けた。レナルドの機嫌が悪い時は、いつもこうしてやれば良かった。いつも頬を染めて尻尾を揺らして機嫌を直すから、その行為の意味を正確に知るまではよくやっていたことだった。



【っ、フィオナ!】

【え、ごめんなさい。嫌だった?】

【嫌ではない! けど…っ】

【駄目だった?】

【駄目じゃない。…嬉しい】



 子どもの頃と変わらず、レナルドは頬を染めて尻尾を揺らした。そこでやっと、フィオナは違いに気付いた。



【レナルド、貴方の尻尾と羽の色がいつもと違うわ】

【え、ああ、まあ…。私も、その、適齢期であるから】

【適齢期?】

【…婚姻色というんだ。結婚ができる程に体が仕上がれば、尻尾も羽も色が変わる】

【そうなの…。痛くない?】



 真っ黒だったレナルドの尻尾と羽は、根元からじわりと赤黒くなっていた。何だか色味が少し痛々しい。



【痛くは、ないな】

【これって戻るの?】

【…】

【レナルド?】

【完全には戻らないが、フィオナが】

【わたくしが】

【フィオナが傍にいてくれたら、きっと落ち着く】

【じゃあ、それが落ち着くまで傍にいないといけないわね】

【いや、落ち着いた後もいてくれなければ困るのだが。…いや、待て】

【なあに?】



 あれだけ来ることが怖かった夢の中であったが、来てしまえばなんて居心地の良い場所であったか。夢の始まりだけは真っ白でただただ恐ろしかったが、レナルドと話をしているとあれだけ泣いていたことも忘れるくらいには落ち着けた。フィオナは吞気に久しぶりに花冠でも作りたいなあと考えながら、レナルドに話の続きを促した。



【今まで、どうしてここに来なかった】

【それは聞かないお約束でしょ!】

【そんな約束はしてない!】

【…聞いてしまうの?】

【当たり前だ。私がどれだけここで待っていたと思っている、ずっと待っていたんだぞ。一人きりで、ずっと!】



 確かにそうだろう、レナルドはフィオナの夢の中の住人だ。しかし例え夢の中だけの人であっても、辛い時にいつでも寄り添ってくれた優しい友人を身勝手に切り捨てるべきではなかった。フィオナは反省をしながら、今度こそ軽蔑される覚悟を決めた。


 きっと心の内を全て話してしまえば、レナルドもフィオナに愛想を尽かすだろう。けれどそれでいいのだ。幼い自分が作り上げてしまった、都合の良い優しい友人とはもう別れなければいけない。



【あのね、レナルド。いつか、貴方がお父様のお話をしたことがあったでしょう】

【覚えているとも、あれが最後の会話だった。…それが、嫌だったのか? 私が何か君の嫌なことを言ってしまったのか?】

【違うわ、レナルドが悪いことなんてないのよ】

【では】

【あの時ね、わたくし、貴方に嫉妬したの。わたくしには貴方のような優しいお父様もお母様もいなかったから、だから、そんな勝手に酷いことを思ってしまって】

【フィオナ】

【ごめんなさい。レナルド、ごめんなさい。大切な貴方にそんなことを思うなんて、わたくしは駄目な人間なのよ。…それを、認めたくなかったし知られたくなかったの】



 きっと幻滅しただろう。そうに違いない。だってフィオナがそう信じている。フィオナの夢であるのだから、夢の中の住人であるレナルドがそう思わないはずがないのだ。レナルドに侮蔑の目で見られるのが恐ろしくて、フィオナは彼の腕の中から脱出を試みた。



【レ、レナルド】



 レナルドは眉間に皺を寄せて、ぐっと押し黙りながらフィオナを見つめた。腕の力は強く、夢であるのに自由にならない。これが、噂に聞く悪夢というものなのだろうか。これから何か恐ろしいことが始まってしまうのだろうか。フィオナは恐怖と申し訳なさで、ぎゅっと目を閉じた。



【フィオナはいつも、怒らないのかと私に聞いていたな】

【…え?】

【もっと早くに気付けば良かった。そうすれば、フィオナにそんなことを言わせずに済んだはずなのに】



 レナルドは何を言っているのだろう。痛みを堪えているような顔でそう言うレナルドのことが、フィオナは一切分からなかった。自身が卑屈で矮小な人間であると告白をしたはずであったのに、何故かレナルドはフィオナではなくレナルド自身を責めているようだった。


 フィオナが恐れた侮蔑の眼差しも軽蔑による言葉もかけられなかったが、レナルドにそんな顔をして欲しい訳ではない。



【レナルド、ねえ、どうしてレナルドがそんな風に言うの。悪いのはわたくしなのよ。…その、不義の子であるし、それに】

【フィオナが生まれたことにフィオナが責任を負う必要はない!】

【でも、それでもレナルドがそんな風に言う必要もないわ。わたくしは貴方に酷いことを】

【フィオナ】

【う、は、はい…?】

【私は怒っている】

【そ、そうよね、あの、本当に、ごめんなさ】

【フィオナにではない!】

【ええ…】



 レナルドは何か、癇癪を起こしたように叫んだ。二人がもっとずっと幼い頃には何度か見たようなそれであったが、フィオナはどうやってこれを鎮めれば良いのか分からずに困り果てた。もう一度、頬に口付けてみようか。しかし同じ手が通用するかは分からないし、嫌がられたら悲しい。



【フィオナを虐げる全ての者が気に入らない、それをフィオナが黙っていたことにも】



 フィオナはまた泣きそうになった。軽蔑はされなかったようであるが、やはりレナルドは怒っている。嫌われてしまったのだろう。それが何より恐ろしかったのに。何か言わなくてはと、開いた口は音を出せずに閉じてしまった。



【それ以上に、フィオナを守れなかった自分自身が情けなくて、吐き気がする】

【え、でも】



 フィオナはレナルドがいたからこそ、こうして生きていられるのに、レナルドは本当に何を言っているのだろう。嫌われてはいなかったようだったが、フィオナはレナルドが何を言いたいのかやっぱり理解ができなかった。



【今日だ】

【え?】

【今日、必ず迎えに行く】

【迎えに】

【段取りは済んでいるからすぐにでも向かう。待っていてくれ】

【ええ、と、眠っていたらいいの?】

【そうじゃない、起きて待っていてくれ】



 ふと、今が朝であると、いつもの起きる時間であると分かってしまった。夢の中であるのにおかしなことであったが、それは昔から当たり前のように分かることであった。



【レナルド】

【フィオナ、信じて待っていてくれ。必ず行くから】



 じっと見つめられると、本当にそうである気がするので不思議だ。レナルドは自身の夢の中だけで生きる人であるのに。しかし、この優しい夢が好きだ。ずっと好きだった。フィオナはこの夢が本当であればどれだけ幸せかと、それこそ物心がついた頃から考えていた。



【分かったわ、待ってる。ずっと待ってるわ】

【そんなには待たせない】



 ふ、と笑ったレナルドがフィオナの手の甲に口付けた。幸せだった。もうすぐ結婚を控えた貴族令嬢がそんなことを思うなんて、それだけで罪かもしれなかったのに。夢の中でくらい幸せでありたかった。いいのだ、ここはフィオナの夢の中であるのだから。

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