二
湯を沸かしている間に、トーマスは二階にある自分の書斎に名刺入れを取りに行った。生まれたときから古い家に育ち、紙の本に馴染んでいたこともあり、名刺という古風な習慣を気に入っていた彼だったが、オフラインで仕事相手に会うことは少ない。パーティなどに行くこともほとんどないから、二年前に共同経営者になったときに作った名刺は、なかなか減らないままデスクの引き出しの中に残っていた。
マフラーを置いてキッチンに戻ってくると、やかんからは湯気が吹き出し始めていた。
久々に客用ティーセットを取り出して温める。もらいもののダージリンのティーバッグと沸きたての熱湯をポットに入れて、砂時計をセットする。
その時、狭い穴から空気が勢いよく漏れるような音がして、キッチンの床の一部に四角い切れ目が入った。微かな機械音とともにじりじりと床はせり上がり、やがてぱかりと開いて口をあけた。
「つ、かれ、た……」
穴から這い出てきた男は、そのまま床に突っ伏して伸びた。
「おにーさん、ビール一丁」
右手だけひらひらと振る男の後ろで、盛り上がっていた床はさっきとは逆に徐々に下がっていき、切れ目も跡形もなく消えた。
「ここは飲み屋じゃありません。それからユージン、あなたにお客ですよ」
きっかり一分蒸らした紅茶をカップに注ぎながら、トーマスが冷たく言い放つ。
「あー、知ってる。仕事中でもインターホンくらいはモニタしてるから」
「アポイントあるって言ってましたよ。どうせ秘書システム《コンシェルジュ》の設定お任せモードにして、知らない間に返事出してたんでしょう?」
「そーみたい、だねー」
「ちゃんと設定するように、僕はいつも言ってますよね?」
「……めんどくさいんだよ。お任せモードでも、いつもなんとかなってるじゃないか。誰も死なないし」
これ以上言っても無駄だと悟ったトーマスは、軽くため息をつき話題を変えた。
「僕、あなたに間違われて抱きつかれちゃいました」
「レポート送ってから、改めて録画映像見た。笑わせてもらったよ。あの時の君の顔ときたら」
俯せに伸びたまま、ユージンは無責任そうに喉のあたりで笑い、トーマスは少々むっとした。
七年もの間、ユージンと同居してきたトーマスだったが、一度もそんな話は聞いたことがない。隠すつもりはなかったのだろうが、知らなかったこちらとしては嫌みの一つも言ってやりたくなる。
「あなたに子どもがいたなんて知りませんでしたよ、『お父さん』」
「実は俺も知らなかったんだよね」
あまりにもあっさりしたもの言いだったので、トーマスのほうが驚いた。てっきり子どもの存在くらいは知っているものと思っていたのに。
「でも似てましたよ、あなたに」
「うん。そうなんだよ」
本人は他人事のような口調だが、ユージンとクリスは確かに似ていた。
「どうするんですか」
聞かれてユージンはやっと起きあがる。
「とりあえず話を聞かないとなんとも。でもそれより先に俺」
「ああ、お茶持って行かなきゃ」
ユージンのセリフを遮って、トーマスはトレイを取り上げた。
「ぐずぐずしてないで早く行ってあげてください。それからパーさんが後から来るって言ってました」
振り向きもせず、トーマスは出て行った。開け放されたままのドアが、さっさとついてこいと言外に物語っている。
「おーい、トーマスくーん。俺、先に風呂に入りたいんだけどー。もう五日入ってないから我ながら臭くて」
その訴えに返事はない
「『お父さん』か。めんどくせえな……」
諦めて立ち上がったユージンはぽりぽりと頭を掻いた。