一
クリスとセイラは、三〇分かけて月の門の警備を抜けた。それから月の地下都市を繋ぐチューブを使い、最寄りのターミナルでタクシーに乗り換えた。
行き先の住所を端末から読み取った無人タクシーは、安全速度で冬枯れた色の街に侵入していく。と同時に、軽かった重力が急に戻った。地下都市内は重力制御下にある。クリスは故郷を出て以来の一Gをなんともいえない息苦しさに感じた。
公園や背の低い建物の連なる街路をしばらく走った後、タクシーは一軒の家の前で止まった。後部座席の前に取り付けられたモニターに映る地図は、それが入力された住所であることを示していた。
――が。
一足先に車から降りたクリスの目の前にあるのは〈お化け屋敷〉としか呼びようのない、大きくて不気味な建物だった。
門扉は開け放たれているというよりはむしろ、逃げた誰かが閉め忘れていったかのようだ。柵は錆の赤さが目立ち、庭の内側から伸びた蔓草が茶色く乾いて絡まっている。
見上げれば、二階建ての白壁にもミイラの毛細血管じみた枯れ蔦が張りつき、窓を外から封印のように塞いでいる箇所さえある。
クリッパーはA級ライセンスを保持する二年間で、一般人の平均生涯賃金を稼ぐといわれているのではなかったか?
「ほんとにここ、人が住んでるの?」
薄気味悪そうに呟いたクリスの肩を、車から降りてきたセイラが軽く叩いて促した。
「今、一四時三八分だから予定には少し早いけど、大丈夫よ。行きましょ」
ポーチのあたりはそれなりに掃除がしてあった。玄関の外灯にもクモの巣はなく、近づく二人を追って威嚇するように動く防犯カメラも生きているようだ。セイラがチャイムを押す。
「どちらさまですか?」
男の声が聞こえてきた。クリスにはよくわからなかったが、少なくとも年寄りではないように思えた。
「私、カト市役所福祉課子ども育成コーディネーターのセイラ・ツルと申します。ユージン・ブランディワインさんがご在宅でしょうか?」
ドア横のスピーカーにセイラが顔を寄せると、
「身分証の認証を行ってください。端末をインターホンに向けていただければ結構です」
さっきの声が指示する。認証の電子音と同時に錠が開く音がして、内側から扉が開いた。
そこに立っていたのは薄茶色の上着に深緑のマフラーを巻いた、想像していたよりも若く見える男だった。
「お父さん!」
先手必勝。父と子の感動の出会いを演出すべく、クリスは駆けよってそのまま男に抱きついた。
「お父さん?」
ツイードの布地が頬に触れた。とたんに慌てた声で引きはがされる。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕は彼じゃありません」
「え?」
肩を両手でつかみ離されたクリスが顔を上げると、生真面目そうなヘイゼルの瞳と目が合った。端正な顔立ちが驚いているように見えた。
しまった。相手を間違ったか。資料の年齢より若すぎる。
クリスは心の中で舌打ちをする。
後ろから近づいてきたセイラが、落ち着かせるようにクリスの肩に手を置いた。
「その人は違ったみたいね」
「……ごめんなさい」
素直に謝って引き下がり、クリスは恥ずかしそうにうつむいてみせた。
「その子はユージン・ブランディワインの子どもですか?」
「その可能性があるということで、今日は調査と鑑定のために伺いました。面会のお約束もいただいてます」
てきぱきとセイラが答えると、青年はマフラーを外しながら二人を中に招き入れた。
外の荒れた雰囲気とは違って、中は意外に掃除が行き届いていた。どうせロボット任せなのだろうが。
玄関を入って正面の奥に大きな両開きの扉と二階へ行く階段が見えた。しかしそこではなく、右に伸びる廊下に入ってすぐの部屋に通された。
応接間らしく、茶色の革張りソファーとテーブルが部屋の中央にある。窓際のサイドボードと壁ぎわの書棚には古い本が並べられていた。歴史関係のものが多いようだ。
名前だけの自己紹介と握手を終えて、二人が勧められたソファーに腰を下ろすと、トーマス・カベンディッシュと名乗った青年も向かいの席に座った。落ち着いてきちんとした部屋の雰囲気はトーマスになじんで見えた。
「僕はユージンが代表を務めるB&C調査事務所の共同経営者です。といっても他に従業員がいるわけではありませんけどね。本人は在宅していますが、あいにくもうしばらく仕事から手が離せません。彼のプライバシーに関わることなら、仕事と違って僕が話をうかがうわけにはいきません。一五時までには仕事場から出てくると思いますので、それまでお待ちいただけますか?」
流れるようにトーマスがそこまで言うと、
「ええ、約束より早く来てしまったこちらが悪いので、そうさせていただけるなら」
いいわよねというようにセイラがこちらを見たので、クリスは頷いた。と、ジャケットのポケットを探っていたトーマスが何かに気づいたような顔をした。
「名刺を置いてきてしまいました。取ってきますので待っててください」
マフラーを持って立ち上がった彼が、部屋の入り口で振り返った。
「ついでに何か飲み物でも持ってきましょう。温かいお茶はいかがですか?」
二人がそれぞれにうなづくとトーマスは微笑んで出て行った。笑顔は意外なほど柔らかかった。