九
翌朝、衣擦れの音に目を覚ますと、ユージンが開いたクローゼットの前で身支度をしていた。窓の外はまだ暗い。
「どこかに行くの?」
声をかけると、彼は着替えの手を止めた。
「ちょっとパン屋に行って来る。寝てろよ。まだ六時前だから」
「こんな早くに?」
「ライ麦パンが六時に焼き上がるんだ。あそこのは七時には売り切れるから、早く行かなきゃ」
「オレも一緒に行く。連れてって」
クリスは起きあがった。少しだるいが、眠気はもうなくなっていた。
「早く着替えて、顔洗って来い」
「わかった」
ベッドから飛び出して、昨夜一人で眠るはずだった部屋で着替える。洗面まで済ませて戻ると、ユージンは黒いハーフコートを着込んでいた。
「じゃあ、行くか」
「うん」
朝早くの道は、暗くて冷たくてひとけがなかった。十五分ほど歩くと、バターと砂糖と小麦のいい匂いが朝の冷たい空気の中に漂ってきた。
こぢんまりとした構えの店に入るなり、ユージンは焼きたてと書かれた棚に突進した。大きくて固そうな茶色のライ麦パンを二つ、トレーに載せて頬を緩ませる。
クリスが眺めていると、店には客が入れかわり訪れていた。早朝に関わらず、なかなかの盛況ぶりだ。
「何か食べたいものはある?」
「何でもいいよ」
大きなパンを二つも確保しておいてまだ食べるつもりかと少し呆れていると、ごまや芥子の実がたくさんついた小さめの丸いパンとベーグルをいくつかトレーに追加して、ユージンは精算した。
「こんなに沢山、今日食べるつもり?」
少し明るくなってきた帰り道で並んで歩きながら尋ねると、いいやとユージンは首を横に振る。
「ライ麦パンは一日くらい置いたほうが美味い。だから、この二つは明日の分だ。楽しみにしてろよ、クリス」
クリスは笑顔でうなずく。
他愛のない話――主にトーマスに関する――をしながら、二人で帰った。
街がどんどん明るくなっていく。何かいいことがありそうな気分になるのは、薄汚れた街でも地下都市の制御された人工の朝でも同じだ。
家まであと少しというところで、ユージンの足が止まった。
「どうしたの?」
彼の視線の先には、黒い車が一台止まっていた。さっき、後ろから彼らを追い越してきた車だ。中から出てきたのは、朝にそぐわない、サングラスに黒服の男三人。
「くそ。やられた」
ユージンが悪態をつく。
「本人確認を」
近づいてきた男の一人が、ユージンが不承不承コートのポケットから出した端末を使って、身元を確認をする。
「ご同行願えますか?」
一番偉そうに見える一人が、自分の端末をユージンに見せる。
「……わかった」
ユージンが観念したようにうなずいて、パンの袋をクリスに預けた。意外な重さがクリスを動けなくする。
「ちょっと仕事入ったから、トーマス君に言って、ご飯食べさせてもらいなさい」
「ねえ、どこに行くの?」
それには答えず、ユージンは男たちに挟まれるように車に乗り込む。
「安心しろ、クリス。仕事だよ。一四時までには帰ってくるから」
「今日、帰れると思ってるのか? しばらくかかるぞ」
ユージンの科白を聞いて、男たちが失笑する。ドアが閉まり、車は走り出した。
クリスは一人残された。
どうしよう。
警察だ。
オレが昨日、転送したあのファイルのせいだ。
「早くトーマスさんに知らせなきゃ」
慌てて二階に駆け上る。右側の手前のドアを必死で叩いていると
「クリス、どうしたの?」
一つ向こうのドアから、トーマスが顔を見せた。ガウンの下はまだパジャマで、なぜか眼鏡を掛けている。
「眼鏡?」
「ああ、まだ顔洗ってないから、コンタクト着けられなくて。で、どうしたの? 何かあったの?」
「ユージンが連れて行かれちゃったの、警察に!」
「え?」
慌てたトーマスは一度部屋に戻って、自分の端末を取ってきて、チェックする。




