四
その日のグリニッジ標準時一四時一八分、カト市の外れの通称・猫屋敷で電話が鳴った。
「はい。カベンディッシュです」
一仕事終えたあとのお茶の手を止めて、トーマスは携帯端末を取り上げた。
「もしもし」
共用回線が自動的に切り替わり、なじみの声が聞こえてきた。家主の、そして自分の同業者の友人だ。
「ああ、パーさんでしたか」
「トーマス君、その呼び方、どうにかならない?」
「失礼しました、グリーンさん」
「そういう他人行儀な言い方もちょっと」
不服そうだったが、端末の小さな画面に表示された声の主の映像はにこやかに静止している。
「ところで、何のご用です?」
「ユージンいる? 今日、飲みに行く約束してたんだ。仕事の調子はどうかな」
「昨日の朝、見たきりですね。仕事場に引きこもり中です」
「どうりで個人回線にもメッセージにもまともな反応がないわけだね。いつ終わるの?」
トーマスと呼ばれた青年は、壁に掛けられたアナログ時計をちらりと見上げた。
「一五時が締め切りなので、あと二〇分くらいでしょうね。今頃はレポートの最終チェックの最中じゃないでしょうか」
「まあいいか。『後で迎えに行く』って伝言しておいて」
「了解」
「一応メッセージも送っておいたけど、仕事が詰まってくると彼は秘書システムに全部丸投げだから、まともに見てるとは思えない」
ため息混じりのぼやきが聞こえた。会話が長くなりそうな予感に、トーマスは電話をスピーカーに切り替えた。お茶は冷めないうちに飲むべきである。
「仕方ないですよ。他に取り柄もないあの人から仕事とったら何が残るんです?」
「そうだね。猫くらいは残るかな」
「猫は資産ですか? 負債ですか?」
「雑種の猫なんて負債に決まってるじゃないか」
シビアな返答だった。家主が聞けば嘆くことだろう。
「だとすると彼には借金しかないことになりますね」
「しっかり働いてもらわないと、その家のローンも払えなくなるよ」
「そうなったとしても、僕には関係ありませんが」
「おや、冷たいことを言うね。一緒に住んでるのに」
「家賃は払ってますし、彼とは仕事のパートナーというだけですから。彼が結婚でもするなら僕はいつでも出て行きますよ」
「そうなんだ」
だったらなぜと揶揄するような言外の響きに、トーマスはついむきになる。
「だって、一人で生きていけませんよ、あんなぐうたらな人。ここだって一週間でゴミ屋敷になります。それに僕がいなかったら八匹の猫たちだってどうなることか」
「……君もすっかり愛猫家として洗脳されてしまったんだね」
どこかしら気の毒そうなパトリックのトーンにトーマスは我に返った。
「はっきり言っておきますが、家賃が安いというのが僕がここにいる唯一の理由です」
「そういうことにしておこうか」
電話の向こうで微かに笑った気配がした。
「そういうわけで、今夜僕たちは出かける予定だけど、君も一緒に行くでしょう?」
「食事だけなら」
「酒は?」
「お忘れですか、僕は飲みません。それにあなた方につきあったら死にます」
「それは残念だよ。じゃあ、またあとで」
伝言よろしくと言い残して、通話は切れた。
トーマスはポットに湯をつぎ足した。
あと一杯お茶を飲み終えたら、散歩に最適の時間になる。
地下都市といっても昼夜の変化もあれば、ゆるやかながら四季もある。酸素補給と景観保全も兼ねて作られている公園や緑地の数も多く、この時期は葉を落とした木々のフォルムが美しい。もう少し時間が遅くなると人が少なくなって寂しすぎるから、今くらいのほうがいい。
帰ってきた頃には腹も減り、食事に出るにはちょうどいい時間になっているだろう。
生きていくためだけなら、そこまで必死に働かなくてもよいはずだ。
独り立ちして二年目のトーマスでさえ、働くのは平均で週四日といったところか。なのに彼の相方のユージン・ブランディワインときたら、たまにまとまったオフをとるものの、毎日のように何か仕事をいれている。本人は仕事が好きなだけだと主張するが、あれは病気レベルである。
もし、結婚して、子どもができたらまともな家庭人としてやっていけるんだろうか?
試しに考えてみたけれど、家庭をおざなりにして仕事に打ち込み、離婚されるという未来予想図しか浮かばなかった。
やっぱりダメだな、あの人は。
トーマスは苦笑した。
かくいう彼自身も女っ気はなく、このままでは確実にやもめ路線まっしぐらだったのだけれども、まだ二〇代ということもあってなんとかなるんじゃないかと漠然と思っていた。
実際になんとかなるまでには十四年の経過を待つことになるが、それは別の話なのでここでは語られない。
とにかく、十二月の午後の猫屋敷は平和だったのだ。
玄関のベルが鳴るまでは。