三
月の開発の歴史は意外に新しい。
恒星間航行法が確立し、惑星開発が進んで、いくつかの太陽系国家が誕生した。それを機に成立した国際宇宙連盟(UUN)が運営資金捻出のために開発、各国に外交府として転売したのが月の地下都市群である。
地球や火星のようにオープンエアーの惑星の都市では侵入が容易なため、どうしても警備・管理は難しい。事実、要人の誘拐や暗殺も多い。
しかし月は月の門を唯一の関門として、武器や麻薬、犯罪者の流入を防ぎ、世界で一番安全な街を具現化していた。いきおい金で買える安全を求める人間も多くなり、都市は富み栄えることになる。
その月に住む、かつてクリッパーだった男なら――。
きっと幸せに暮らしているに違いない。……何も知らずに。
母親が死んでしばらくして、わけもなくいらだちを覚えることがあった。思い当たる原因や起因も特になく、単純に環境が変わって緊張しているせいだろうとクリスは考えていた。
もやもや浮かんでは消えていくだけだった心の中のそれが今、台風の目に向かって吸い寄せられる雨雲のように、互いにまとわりついてまとまっていくようだった。
――どうしてオレだけが。
そのいらだちは、ついに核を持った。腹の底で冷気が沸騰したような気がした。
クリッパーだった男なら、それなりの財産もあるはずだ。
正式な親子鑑定を受け、親子と認められたなら、養育費の請求ができる。教育は国が保証してくれるといっても限界はある。特にクリスのように知能の高い人材を、国は手放さないだろう。生まれ育ったあの街と地続きのどこかで、死ぬまで見えない鎖につながれて生きていくだけ。でも、養育費があれば、他の国のもっと良い大学に行けるなら、人生の可能性も広がる。父親が死亡したときにはいくらかの遺産も受け取れるかもしれない。
しかし、クリスが一番やりたいのはそんなことではなかった。
父親が幸せなら、それをぶち壊してやりたい。
今まで何も知らずにいた、その無責任さのツケを払わせてやりたい。
もし、妻や恋人がいたら、突然現れた別の女の子どもに対していい感情を持てるはずがない。子どもがいたらもっと面白そうだ。
――きっとごたごたが起きる。いや、起こしてみせる。
それが八つ当たりだったとしても、オレにはその権利があるはずだ。だってオレはずっとほったらかしにされていたんだから。
何ができるかわからないけど、行ってみたら何か嫌がらせの一つくらいはできるはずだ。
「それで、君はどうしたいのかな?」
待つことに慣れているらしい初老の男性担当者は、淡々と同じ口調で繰り返した。
「お父さんに会ってみたいです。それから、できたらちゃんとした親子鑑定を受けたい」
「そうか。じゃ、手続きを進めてみるよ。先方が面会を承諾するかどうかはわからないけど、少なくとも君にはその権利がある」
そのとおりだ、とクリスは思った。自分には復讐する権利がある。
お願いしますとはっきりした声で答えると、担当者は微笑んで書類の作成にとりかかり始めた。
セキュリティ・チェックを終え、ラグランジェ国際宇宙港から月へ向かうシャトルへの搭乗が開始されるまでの間、クリスは空中に大きく映し出された地球の立体映像を眺めていた。
画像を見たことはあってもライブ映像を見るのは初めてだ。黒い空間にぽっかりと浮かぶ白と青のビー玉の下には「地球にいらっしゃいませ」という文句が旅行会社のロゴとともにきらめいている。
「おまたせ」
戻ってきたセイラは持っていたカップをクリスに差し出した。礼を言って受け取ると、温かい湯気とココアの甘い香りが漂った。
「きれいでしょう、あれ。私もここにくるといつもぼーっと眺めちゃう」
隣の席に腰を下ろしたセイラもカップを持っている。しばらくの間、二人は無言で映像を眺めていた。手前側の地球は昼間で、太陽に明るく照らされている。
「最初に、言っておきたいことがあるの」
ためらうような声が聞こえた。
「あなたの第一希望は父親との同居ということになってるわね」
ようやく冷めてきたココアに口をつけ、クリスは頷いた。
本当はそんなことを望んでいるわけではないし、受け入れられるとも思っていない。嫌がらせのための要求だ。
「残念だけどクリス、あなたみたいなケースでは父親が子どもを引き取ることはほとんどないの。認知と養育費の支払いはしてくれることが多いけど」
「養育費なんかいらない。オレはただ、『お父さん』に会ってみたいだけなんです、映像なんかじゃなくて」
言いなれないせいで、お父さんという言葉の発音が微妙におかしくなった。
こう言っておけばセイラは自分に同情し、親身になって動いてくれるだろう。
「あなたのお父様ではないかと考えられる男性は面会は承諾してるけど、中には面会はおろか親子鑑定も拒否する男性もいるわ。拒否しても強制執行で鑑定はできるし、正式鑑定で親子と認められれば認知させられる。そうなったら養育費も亡くなったときの遺産請求もできるけど、結局嫌な思いをすることも多いの。そして傷つくのはいつも子どもなのよ」
「大丈夫です」
そんなことは予想済みだ。最初から期待しなければ傷つくこともない。今までもそうだったのだから。
それならいいけどというセイラの小さな声は、着いてからの行動予定を脳内シミュレートするクリスの耳には届いていなかった。