二
「量は適当でいい?」
「はい」
ざっとシリアルが盛られる音がして、カウンターの上にスプーンの入ったボウルが、続いて牛乳のプラスチックボトルが置かれた。
「取りに来てね」
カウンターでシリアルに牛乳をかけていると、「これもね」とトーマスがジュースのコップをカウンターに載せた。あたりには絞ったばかりらしいオレンジの新鮮な匂いがしている。
「卵はどうする? 何個? ゆでる? 目玉焼き? スクランブル? それともオムレツ? ベーコンとソーセージならつけてあげられよ。昨日のミネストローネも温まってるけど」
矢継ぎ早に聞かれて、クリスはボウルとグラスを持ったまま戸惑う。
「ええと、ゆで卵。一個、だけでいいです」
「固ゆで? 半熟?」
「半熟」
「了解」
カシャンと小さな音がして、鍋が料理用ヒーターにかけられた。
「ねえ、トーマスさん」
「何?」
食卓でシリアルをかき混ぜるクリスの呼びかけに、キッチンから出て来たトーマスはソファーに向かいかけた足を止めた。
「今日の朝ご飯は特別?」
「普段と変わりないよ」
トーマスはソファーのテーブルの上にあったティーセットを持ってくる。そして、冷めてしまった自分の紅茶を入れ直し、クリスの向かいの席についた。
「あっちに座っててもいいのに」
「どうして?」
「食事ぐらい一人でできるよ」
学校での昼食以外は一人きりのことが多かった。母親は、朝起きてくることはなかったし、夕方帰宅する頃にはもう家にいなかった。休日の昼は一緒に食事することもあったが、大抵お互い無言で、ソープオペラの音声だけが流れる食卓だった。
「君もユージンももっと遅いかと思って今朝は先に食べちゃったけど、お茶でつきあうくらいはいいでしょう?」
クリスは頷いた。
「明日からは一緒に食べようね」
ごく自然に言われて、また胸の痛みを感じる。
これがクリスの日常になることはないのだ。今日の午後か、遅くとも明日には、この家を出て行くのだから。それも多少なりとも憎まれて。
トーマスはまとわりつくペットをあしらうようにではなく、ちゃんとクリスの目を見て話しかけてくれた。クリスが育った町には、こんな大人はいなかった。子どもに話しかけてくるのは、妙な下心や目的のあるやつばかり。
例えば、キャンディをくれる男がいた。家には最新のゲームやおもちゃがあって、遊ばせてくれるという噂もあった。
九才のとき、ひとりでいるところに声をかけられたクリスは、どことなくその男の下卑た表情が気持ち悪くて、即座に走って逃げた。翌日その話をしたクリスをバカにして「優しいおじさん」のもとに通い続けていたクラスメイトの女の子は、いつの間にかその家のある界隈にさえ近づきたがらなくなった。
学校は生徒による窃盗、暴力、薬物乱用、売春といったトラブルをいつも抱えていた。教師たちはその対応に疲れ切っていて、クリスのように手間のかからない子どもはどうしても扱いがおざなりになる。
寂しさからトラブルを起こす子どもも大勢いた。その誰もがろくでもない結果にしかならないことを知っていたけれど、ろくな結果というものがどんなものなのかを、皆知らなかった。
子どもたちは誰にも相談できないまま、暗い秘密を抱えて荒んだ大人になる。そんなところでクリスは生まれて育った。こことは違う。
親切な大人がいなかったわけではない。ターナソルの福祉関係者もそれなりだったし、セイラにもよくしてくれているが、所詮彼らはそれが仕事なのだ。それを自分に対する好意と勘違いするほど、クリスはおめでたくはない。
けれども、トーマスにはクリスの機嫌をとる必要も好かれる必要もない。そんな理由をいちいち検討するまでもなく、クリスはなぜかトーマスが自分に好意を持っていると素直に確信することができた。それはチョコレートが好きとかかわいい子犬が好きとか、そういう他愛もないものなのかもしれないが、それだけに単純で心地よく感じられた。




