一
目覚めたとき、クリスは自分が何か肌触りのよいものに頬をぴったりつけているのに気が付いた。ぬいぐるみにしがみつく幼児のように、腕を回してかかえ込んでいる。温かくて気持ちがよいので、それを抱えたまま寝返りを打とうとしたが、意外と重いのか、かなわない。
瞼を開くと、目の前のそれは黒かった。
――なんだ、これは。
ぼやけた意識のまま何気なく足元に目をやると、大小二つの見覚えのない家具がある。小さいほうの上には見覚えのあるクリスのバッグが載っている。
左がまぶしいのは窓があるからだろう。
では右の方は、と頭を上げたときに、完全に目が覚めた。
人がいる。
そして自分の抱えているものは、その人間から伸びている黒い服の腕だった。
「何これ?」
慌てて起きあがって、放り投げるように腕を離す。
ベッドの上に座り込んだクリスからは、眠りこけるその腕の持ち主の顔が見えた。
「ユージン……」
同時に昨夜のことも思い出した。既に「さん」付けする気は失せている。
「通報しとけばよかったかも」
朝の光の中だからこそ悔し紛れにこんなことも言えるものの、夜だったら一人でいられなかったのは自分でもわかっている。
おまけに、彼の腕を抱え込んで目が覚めた。眠るときには確かに背を向けていたのに、どこをどう寝ぼけてそんなことをしたのか自分でもわからない。
今になって考えれば、昨夜の幽霊が出るという話も本当のことなのか怪しい。確かに外観は少々荒れて気味が悪いが、家の中はきれいだし、現に人だって住んでるのだ。
まんまと騙されたような気がして、じんわりとした屈辱を感じる。
しかし、わからないのはこの男の思惑だ。
この、自分のベッドに寝たいだけなら、あんな話などせずにクリスを部屋から追い出せば済むだけだ。大人の力をもってすれば簡単なことだろうし、そもそもクリスをこの家に泊めなければよかったのだ。
一体何を考えているのだろうと、改めて寝顔を覗きこんでみる。
男性にしては線の細い整った顔立ちは、眠りの神の手によってますます性別不明に見えた。
もちろん、何を考えてるのかなどわからない。ただ、なんとなく幸せそうな寝顔だった。
こちらの気持ちなど知らぬげなその寝顔に苛つく。やはり今から警察かセイラに連絡しようかと思ったが、完全にタイミングは逸してしまっている。昨夜のあの時点で連絡しなければ意味はない。
クリスはため息をつくと、枕元に落ちていた自分の青い端末を拾った。着替えるためにバッグを持って部屋を出た。
階段を下りるとすぐに、かすかに、パンの焼ける香ばしい匂いが漂っていることに気づいた。
一階の風呂場で身支度を終えて、廊下のすぐ奥のダイニングキッチンに入ると、大きな方のソファーで服を着替えたトーマスがお茶を飲んでいた。明るいグレーのジャケットの襟元から、淡いレモンイエローのシャツが覗いている。壁のモニターはニュースを流していた。時計は七時半を指している。
「おはよう、クリス」
「おはよう、トーマスさん」
「朝ご飯、食べるでしょう? そこに座ってて」
トーマスはすぐに立ち上がった。食卓に座るようクリスに示して、キッチンに向かった。テーブルにはクロスではなく、二枚の布のプレースマットが敷かれていた。昨夜、ユージンとクリスが座っていた席だ。
「トーストとシリアル、どっちがいい? どっちも欲しいならどっちも用意するけど」
昨日と同じ席に座ると、カウンターの奥からトーマスが声を掛けた。
「あ、ええと、シリアルで」
母親と一緒に生活していたときは、いつも朝はシリアルだった。学校帰りにそこらの店で買ってくる、何の変哲もないコーンフレークに牛乳をかけ、あればオレンジやりんごが一個ということが多かった。




