八
懐かしい酒の匂いがした。
闇の中に漂っていたのは、金が入ったときだけ母親が飲んでいたジンの匂いだった。
「……か………さん?」
左隣に滑り込んでくる気配に、今夜はずいぶん早いなと、寝ぼけながらも場所を空ける。
そこで気がついた。
母さんは、もういない。
だったら、これは、誰?
「うわあああっ」
悲鳴を上げ、飛び起きた。エアコンのタイマーは切れてしばらく経っているらしい。恐怖と冷気に身震いしつつ、後ずさる。パジャマの背中にベッドの頭板が当たった。
「誰?」
「うるさいな。もう遅いんだから早く寝ろよ」
クリスの誰何に、聞き覚えのある声が返ってくる。
「ブランディワイン……さん?」
「……うん?」
部屋の暗さに目が慣れて、目を閉じたまま生返事をするユージンの顔が左下に見えた。酒臭さの元凶はこれだ。
「なんでここに?」
「だってこれは俺のベッドだから」
「でも、今夜はオレがここで寝るんです。他のところで寝てください」
「ケチくさいこと言うなよ。どうせスペースに余裕はあるんだから」
面倒くさそうに寝返りをうち、ユージンはクリスに背を向けた。
「イヤです。出て行ってください」
「そんな冷たいこと言わないでさあ」
きっぱり拒絶するクリスを無視して、ユージンはそのままシーツの中に頭まで潜り込む。彼のような大人の男をベッドから蹴り出したり引きずり出したりするのは、クリスには不可能だ。
途方にくれて窓を見ると、向こうに明かりがついている部屋があるのに気がついた。
「トーマスさんを呼んできましょうか?」
「呼んでくれば? 俺は全然構わないよ。その間に寝ちゃうし。そしたら絶対起きないからね」
シーツの中からくぐもった開き直りの返答があった。どうあってもここから動く気はないらしい。脅しのつもりのひと言も全く効かない。
「じゃあ、どこに寝ればいいんですかオレは!」
「一緒に寝りゃいいじゃない」
こともなげに言う。ふわあと盛大なあくびが夜具の下からくぐもって聞こえた。
「冗談じゃない!」
大声を出すと、暗い中でユージンが半身を起こしこちらを向いた。その肩が動いて、殴られるのかとクリスは身をすくめた。
するとなぜか引き寄せられ、頭を彼の胸のあたりに強く押しつけられる。視界を封じられ、わけのわからないうちに抱きかかえられ、ベッドに引きずり込まれた。
「身体が冷えてるじゃないか。風邪ひくから、早く寝なさい」
頭のすぐ上で聞こえる声がシーツの中で籠もっていた。
冷たくなっていた背中にも腕が回されて、ベッドの中で抱き固められているとしかいえない状況だった。温かくなってきた身体とは逆に、クリスの頭は危機感と怒りで冷たくなっていく。
「何すんだよ、離せ! 性的虐待で訴えるてやる!」
叫ぶクリスの声もシーツの中で籠もっている。必死に身をよじって逃げようとすると、
「性的? 虐待? そういう趣味はないから安心しろって」
冗談と勘違いしているのか、ユージンは酒臭い息で笑いながらあっさり力を抜いた。
すぐにベッドから飛び出したクリスは、椅子に掛けておいたジャンパーのポケットの中から端末を取りだした。ユージンは片肘をついてその様子を眺めている。闇の中で起動したモニターが明るく光った。
「警察に通報されたいの? 本気だからね。出て行けよ」
「ごめんごめん。わかったよ。猫部屋で猫と一緒に寝るから」
ユージンは肩をすくめてベッドから出てきた。出かけたときと同じ、黒いハイネックのセーターと同色のズボンのままだ。そのままドアに向かって数歩進んだところで、彼は何かを思い出したように足を止めて振り返った。
「ところでクリス、幽霊って信じる?」




