三
夜の八時すぎだというのに、喧しい音楽も酔っぱらいの馬鹿笑いも誰かのすすり泣きも叫び声も聞こえない。もちろん、銃声も緊急車両のサイレンも。
辺りは静まりかえっていた。部屋の中にも音はない。静かな十二月の夜だった。
話をしようと言ったくせに、トーマスはそのままゆっくりとお茶を飲んでいるだけだ。
このまま黙ったままでいるのもいいのかもしれないけど……。
沈黙に耐えかねて、クリスはついに口を開いた。
「そういえば、トーマスさんていくつ?」
とりあえずの無難な質問ならそんなところだろう。
「二十六歳」
トーマスは左手に持ったソーサーにカップを置いて答えた。
年相応のような気もするが、大人の見た目はどうもよくわからない。
「そういえばクリス、君はいくつ?」
トーマスはいたずらっぽく笑って、昼間に聞いたはずのことを尋ねる。
「知ってるくせに」
クリスもつられて笑いながら「十一だよ」と答えた。トーマスは眩しそうに瞬きをして、その後、何故か嬉しそうな顔をする。
「ねえ、クリス。その『トーマスさん』というのは止めてくれない? 呼び捨てで構わないよ」
「あの人は『トーマス君』て呼んでるじゃない」
「あれは……それで定着しちゃってるから……」
苦笑しつつ、トーマスは空になった自分のカップにおかわりを注ぐ。
クリスも自分のカップの存在を思い出して、口をつけた。ほどよい温かさの濃く甘い液体が、自分の中を満たしていく。
「これ、おいしい。トーマスさ、あ……」
途中で気付いて、クリスは黙り込んだ。
「呼び捨ては、できたらってことでいいから。クリス、何?」
「トーマスさん、紅茶が好きなの?」
「好きだよ。君は? どんな飲物が好き?」
聞かれてクリスは少し悩んだ。
「あんまりそんなこと考えたことなかったな。学校では牛乳ばっかり飲んでたし」
「牛乳が好きなの?」
「好きというわけじゃないけど」
「けど?」
「大きくなりたいから」
クリスはクラスの中でも小さいほうで、それがコンプレックスでないといえば嘘になる。
「なるほど」
うなずくトーマスの肩は笑いをこらえようとして震えていた。
「笑いたければ笑えばいいよ」
唇をとがらせるクリスに、トーマスは「そういう意味じゃなくて」と首を横に振った。
「君、食は細いほうでしょ? 食べないで牛乳だけ飲んでても、それじゃ大きくなれないよ」
大人たちに比べれば少なかった食事をクリスは残した。それでも、いつもよりたくさん食べているはずだったのだが。
「そうなの? 液体ならなんとか入るからいけるかと思ったんだけど……栄養学は疎くて」
「お菓子は? 甘いものは別腹って言うよね」
いつの間にかトーマスのタルトはほとんどなくなっている。
「ううん。今夜は止めとく」
「そう。わかった」
あっさり了承して、トーマスはタルトの最後の一口を幸せそうに頬張った。
やっぱりこの人、甘いお菓子が好きなんだ。
思わず笑ってしまいそうになる。
「ねえ、クリス、君のいたターナソルってどんなところ?」
「どんなって……」
満足そうに紅茶を飲み干したトーマスに聞かれて、クリスは口ごもる。
すぐに思い浮かぶのは、住んでいたアパートから見下ろすどぎついネオンやホログラフサインだった。
「海ばっかり、のところかな」
嘘ではない。そのネオンの向こうには惑星の表面の八〇パーセントを覆う広大な海が広がる。資源発掘をする男たちが海の底から二週間おきの休暇でやってくるのが、クリスの母親の働いていた品のない街だった。できればそんな話はしたくはない。少なくとも今は。
「つまんないところだよ。それより、トーマスさんは? ずっと月にいるの?」
暗くなりそうな声を無理矢理引きあげ、逆に話を振ってみる。
「いや。生まれてからずっと地球で、七年前からはここ」
「他の星は? 行ったことある?」
「うーん。一度火星に行ったくらいかな。ユージンなら仕事であちこち行ったことがあるみたいだけど」
クリッパーならそういうこともあるだろう。この場にいない人間の話より、目の前の相手のことを聞く方が楽しそうだ。




