九
母親が男を連れ込むこともあったから、行為そのものは見たことがないにしても、情事の気配には慣れているつもりでいた。
しかし、リビングに戻ってきたトーマスの顔をクリスはまともに見ることができなかった。
「もう少ししたらユージンが食事を作る予定だけど、それまで保ちそう?」
「大丈夫です」
「お客さんも来るけど、いい?」
「問題ありません」
ふとトーマスの襟元を見ると、ジャケットは同じだがシャツは変わっていた。さっきの光景を思い出し、思わず顔が赤くなる。
「……クリス、大丈夫? 熱とかある?」
「ありませんっ」
だから近くに来ないでってば!
心配そうにトーマスが寄ってくるのを、ずりずりとソファーの端に移動しながら避ける。
「それならいいんだけど……」
トーマスは戸惑うように少し微笑んでもう一つのソファーに座った。側の小さなテーブルに積まれている紙の本の中から一冊取って読み始める。
窓の外は完全に日が暮れて、庭が黒く見える。敷地の外に街路灯がぽつんとともっている。
その遠くで空に向かって何本も伸びる光の柱は、地下都市を支えるための大きな塔で、そのまま一つの小さな街にもなっているそうだ。
そんなことをタクシーの車中で話してくれたセイラのことを、クリスは思い出した。
何か連絡が来ているかもしれないと、端末をポケットから出して見てみるとはたして彼女からのメッセージが届いていた。
「ふうん……メシの内容を報告しろってか。そんなことするんだ」
右耳のあたりで声がした。驚いて見ると、いつの間に部屋に入ってきたのか、ユージンがソファの後ろからクリスの手元を覗き込んでいる。慌てて端末をポケットにしまう。
「隠す必要ないのに」
クリスの頭をくしゃっとかき混ぜて、ユージンは奥のキッチンに向かう。服が替わっていて、黒いハイネックのセーターと同色のズボンを身につけている。黒ずくめのその背中に「プライバシーの尊重は大事ですよ」というトーマスの言葉が当たって落ちる。
確かに隠すような内容ではない。それなのに隠してしまいたくなるのは、自分に後ろ暗いところがあると言っているようなものではないだろうか。
不安になって様子をうかがうと、ユージンはカウンターの奥、冷蔵庫や保管庫の前あたりで唸っている。
「ろくなものがないな」
「ええ。買い出しをさぼった人がいたので」
「……まあいいか。あるものでなんとか」
「くれぐれも『食べられるもの』にしてくださいね」
ページから目もあげずにトーマスが突っ込む。
そのやりとりに、クリスは微妙な違和感があった。恋人同士にしてはドライすぎるような気がしたのだ。やりとりの内容も声のトーンにも、男女の間によくある湿り気のようなものがない。しかし、身近に男性同士のカップルはいなかったのでわからないだけで、こういうものなのかもしれないと思い直した。
そのうちに何やらいい匂いがしてきた。オリーブオイルとニンニクの匂い。ナイフで刻む音が続く。時々止まって、鍋に何かが放り込まれる。炒めた玉ねぎの甘い匂いも漂ってきて、クリスの腹は小さくくうと鳴った。
「そういえばクリス、嫌いな食べものはある?」
一段落ついたのか、キッチンから出てきたユージンに聞かれて、クリスは首を横に振った。
「そりゃ素晴らしい。嫌いなものが多いやつより三十倍は楽しい人生が送れるね」
持っていたタンブラーを空けて、ユージンは満足そうにうなずいた。カウンターの上にはいつの間にか、中身の減った白ワインの瓶が乗っている。
「そろそろテーブルの用意してよ。トーマス君、それくらいはいいだろ?」
「それくらいなら」
読んでいた本にしおりを挟み、トーマスは立ち上がった。サイドボードの引き出しから布をひっぱりだして、テーブルにふわりと被せる。
そのとき、開きっぱなしになっていたドアをノックする音に、皆が気づいた。
玄関の呼び鈴は鳴らなかったので、直接入ってきたのだろう。ということは、玄関のキーロック解除を許されているほど親しい人間ということになる。
「こんばんは、諸君」
背の高い来客は片手を挙げて挨拶した。ユージンとトーマスもそれぞれ、やあとかこんばんはとか挨拶を返しているので、クリスも黙って会釈する。
「これ、トーマス君にお土産。食後のデザート」
菓子店名の入った高級そうな紙袋をテーブルに置いた。
それから客は手袋を取り、コートを脱いで、ドア近くのハンガーに自分で掛けた。
そのままクリスの横を通りすぎて奥に行き、カウンターの上に用意されていたワイングラスを取る。カウンターの奥から突き出されたユージンのタンブラーと軽く合わせると、立ったまま一気に空ける。すかさずユージンが白ワインでグラスを満たす。
「返事した通り食事は外でなくても構わないけど、どうみても君の関係者っぽいあの子はどなたかな?」
「やっぱりそう見える? クリス、紹介するからちょっと来て」
客の露骨な視線に、見せ物にされているような居心地の悪さを感じながらも、仕方なく立ち上がる。トーマスの方をちらりと見ると、クロスを整えていた彼は、大丈夫というように小さくうなずいた。
「クリス、これが俺の友だちのパーさん。パーさん、これが俺の子どもかもしれないクリス。ほら、握手、握手」
また奥のキッチンに引っ込んでいたユージンが、寸胴の中に乾麺をぼりぼりと折り入れながら、雑な紹介をする。




