環
一人でいると心臓の鼓動を強く感じてしまう。
普段生活しているときは気にならないのに、一度気になってしまうとずっと気になって仕方がない。そして一度意識してしまうと、なぜだか鼓動が早まってしまうから余計に悪循環だ。そして、それに途方もなく怖さを感じてしまう。
動物が一生に打てる鼓動の回数は大体決まっているらしい。つまり、今この瞬間にも命を燃やしている。
そのことを考えると、ぎゅっと締め付けられる感覚に襲われる。自分自身でペースが落とせればいいのにそれもかなわない。人間は大層偉そうなことを言っていたり、まるでこの世の支配者のように振る舞うことも多いのに、実際は自分一人の身すらコントロールすることがままならない。
けれどそんなことはどうでもいいのだ。問題は、そう、心臓の鼓動が気になって参ってしまうことだ。毎日毎日同じことを繰り返していて、それでも能天気に寝ていられるのだから、きっと自分が感じているよりずっと大丈夫なのだろう。その能天気さも嫌になる。
もちろん人が死ぬのは宿命付けられていることだし、それを変えようといしたって土台無理な話なのだろう。当然、頭では理解している。しかし、理解していても納得しているかどうかは別問題だ。
人はどうして死ななければならないのか。あるいは、どうして生きるのか。人間が今の今まで何度も何度も繰り返し考え続けてきたことだ。ただ、どうして死ななければいけないのか、というよりも、生きるという方により焦点があたっていることの方が多いと思う。いつか死ななければいけないのだから、後悔しないように生きるだとか、神さまなんて大層なものを引っ張りだしてきたりだとか、死後の世界のために現世を善く生きるだとか。
全部が全部、どうでもいいことだ。死と比べてしまえば。そもそも、生きるという言葉自体、死がなければ存在しない概念だったのではないだろうか。死さえなければ、ただ存在だけがそこにあった。消滅しない無敵の存在。いや、そもそも消滅しないというのは無なのかもしれない。
なにごとも、そうなにごとも、あるものと相対してでしか存在しない。それに抗おうと絶対的ななにがしかの概念を導入しようとしても、どこかで無理がでてしまう。
大体世界というものは勝手である。望んでもいないのにこの世に無理やり存在させられて、終わればそれっきり。次はない。死んでしまえば、地球が崩壊しようが太陽が爆発しようが宇宙が収束しようがまるっきり関係のないことなのだ。そのくせ、死を否応なしに認識させられる。
要するに、この世の出来事なんてものは全てどうでもいいことで、圧倒的な虚無の前ではこの世のなにもかもが虚しい。どれだけ心地いい言葉で世界を叙述しようが、私という存在がなくなった瞬間に全く意味がなくなってしまう。
にも関わらず、なり続ける音を不快に感じる。言葉で言い繕ったって、物分りのいい人間を演じてみたって、それをどうしようもなく嫌に感じてしまう。
ところで血液というのは循環しているそうだ。そうだ、というには当たり前の事実かもしれないが。
時折外にでてみたりしても、結局元に戻って、キレイな風を装ってぐるぐる回り続ける。我が肉体のことながら、少しだけ愛着が湧きそうな気がしなくもない。