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作者: N

 西日が顔に当たって目が覚めた。どこから入り込んだのか、一匹の蛾が天井でくるくると飛んでいる。電灯に向かうでもなく天井に止まっては飛び、また止まっては飛ぶことを繰り返している。その無意味な繰り返しは、死ぬまでの暇潰しのようで、そのイメージは僕を不快にした。

 夕暮れでも残るしみったれた暑さは、それを有耶無耶にしてくれた。

 枕元に落ちていた携帯の電源を点けると、いくつかのメッセージ。飲みの誘いだった。飲酒の口実を見つけた僕の足は、無意識に体を部屋から押し出していた。理性が遠のき、本能に引きずられていく。橙に沈んだ部屋で蛾が飛び続けているのが、閉まるドアの隙間から見えた。

 友人のマンションに着く頃には、日は既にどこにも見えなくなっていた。だらだらと歩いていたのか遠回りをしていたのか、記憶が定かでない。最近は万事その調子だった。

 今までの記憶や経験に従って動いていくだけ。意思の無い奴隷と同じ。

 実際僕は生まれついての奴隷だった。主体的な選択というものが想像もつかないのだ。寧ろ主体的な選択も社会通念や一般的な道徳感への奴隷的従属に包含されている。そんな次第だった。

 それに反抗するように理性を痺れさせることを覚えてからは、それを繰り返すことが生活になっている。理性に埋もれてしまった動物的な感覚を思い出そうとしていた。しかし理性を殺して自分の中を探ってみたところで、見つかるのは二日酔いに見る悪い夢ばかりだった。

 友人の部屋に入ると、アルコールの臭気に乗って奇妙な熱狂が流れてきた。コンビニで買ってきた安い酒とつまみ。下世話な話と叫びに似た笑い声。ありふれた吐きだめ。僕はそれを嫌いながらも、結局それにすがるしか無かった。

「なんだよ、一人で来たのか。美咲ちゃんも連れてくればよかったのに」

「ああ、いいんだよ。忙しそうだったから」

 嘘をついた。

 あの賢い人は、誘えばきっと文句一つ言わず、笑ってこの醜悪な集まりにも顔を出してくれるだろう。当然彼女である美咲のことは忘れたわけではない。誘わなかったのではなく、誘えなかった。

 狭い部屋で騒ぐ数人の男女に紛れて、気の抜けたような顔で酒を啜っているあの女のせいだった。

 その女は楓という名だった。何の変哲も無い人だと誰もが言うだろう。ただ少し頭と股が緩いだけの普通の人。

 僕は彼女の隣に腰を下ろした。

「眠そうだね」

「さっき起きたんだ」

「ふうん」

 宙ぶらりんの会話。瓶に入った焼酎を流し込む。視線は落ち着かなく壁中を這い回る。

 楓と話す時はいつもそうだ。罪悪感の様なものが付き纏う。だから僕は美咲を連れてこられなかった。まるで浮気でもしている様な気分になるのだ。

 実際僕と楓の間には肉体関係は愚か、恋愛感情すら無い。だからどういった過程でこんな感情を抱くのか、自分自身把握できていなかった。単純にその事実があるだけだった。

「ほら、もっと飲んでよ」

 楓が僕の顔に酒瓶を押し付けてきた。一息に飲んだ。喉が焼け、胃に熱いものが落ちた感覚がした。きっとひどい酔い方をするだろう。

 友人達の笑い声と怒鳴り声が狭い部屋に反響して、僕を押しつぶす様だった。高まっていく周りの雰囲気に反比例して僕の体は底へ沈んでいった。

 天井の蛍光灯の光が頭に潜り込んできて暴れている。それを追い払う為に酒を流し込む。しかし、その光と熱は飲めば飲むほど激しく暴れ回るのだった。

 どれくらい繰り返したのかもう分からなくなっていた。時計の針が頂点で重なって、離れて行ったのが見えた。

 飲み過ぎた一人の男が、ふらふらと僕らの目の前まで歩いてきた。

「おい、お前、楓はやめとけよ。こいつは、誰でもいいんだから。気に入らない。気に入らない。美咲ちゃんの方が何倍マシか、分かんねえよ。ああ、気に入らない。そうやってニヤニヤ笑いやがって。気に入らない。気に入らない」

 そうひとしきり喚いた後、いきなり倒れ込んだかと思うと、ゲロを吐いた。部屋中が悲鳴と混乱に一気に包まれる。その中で楓だけが楽しそうにころころと笑っていた。

 その風景を僕は三人称で眺めていた。電灯の周りをくるくる回りながら部屋全体を眺めていた。男女の悲鳴の真ん中を裂いて、稲妻のように楓の笑い声だけが聴こえる。子供が小さな虫を殺すときにあげる笑い声と同じ声。無邪気で奔放な声だ。

 突然僕の中に一つの考えが浮かんでいた。その考えは泥沼からゆっくりと浮かんできたと思えば、まるで昔からそこにあったかのように僕の頭の中を占領してしまった。更にそれは膨らみ続け、ずるりと喉から這い出た。

「俺、死体を見てみたいよ」

 ぼそりと呟いていた。誰かに助けを求めるような、媚びた哀切の調子を感じて吐き気がした。その声はすぐ側に座っていたただ一人にだけ聞こえたらしい。

「じゃあ見に行こうよ」

 横で楓がこちらを見つめていた。何の混じり気も無い瞳が僕を射すくめてしまった。

「ほら、行こう」

 僕の腕を引いて立ち上がると、彼女は玄関までさっさと行ってしまった。

 後ろではまだ狂騒が繰り広げられている。

「待てよ!お前らだけ逃げるな!」

と怒号が飛んできた。

「私もう飽きちゃった。こんな所、もう二度と来ないから!一生やってればいいよ。馬鹿みたい。本当に退屈!」

 楓はそう怒鳴り返して部屋から飛び出してしまった。

 僕もそれを追いかけてマンションを出た。

 湿気で淀んだ夜空の底で、彼女は絵に描いたような千鳥足で踊りながら、大声で笑っていた。次の瞬間、突然植木に顔を突っ込んで嘔吐した。

 僕が駆け寄ると、彼女は面白くて仕方ないと言う風に、顔を涙とよだれで濡らしながら押し殺すように笑っていた。

「ああ、すっきりした。アイス食べたいな。アイス買いに行こうよ」

 そういってさっきよりはまともな足取りで歩き始めた。

 コンビニで彼女のアイスと自分の煙草を買った。僕がレジで精算している間、彼女は駐車場にしゃがみ込みながら、馬鹿みたいな顔をして夜空を眺めていた。彼女の瞳の中にはいくつか見えない流星が飛んでいたろうと思う。

 目の前にアイスを差し出した時、やっと彼女は僕に気が付いたみたいだった。

「それじゃあ、死体、見に行こうか」

 彼女は意気揚々とアイスを齧りながら僕の前を歩いて行った。

 僕もタバコを咥えて、のろのろとついて行く。

「でも、どこに死体があるっていうんだよ」

「霊安室」

「どこの」

「うん、アイスおいし」

「どこの霊安室のことだよ」

「私のバイト先の病院。裏口から入れるよ」

 彼女が病院でアルバイトをしているとは知らなかった。僕と彼女はそれぐらいの関係だ。

 しばらくうまそうにアイスを食べていた彼女は突然

「もうアイス飽きちゃった。甘すぎ。あげる」

 と言った。いきなり手渡されたそれを、仕方なく食べた。煙草の臭いと混じって信じられないほどまずい。

 こうして楓を眺めていると、美咲のことが妙に頭を掠めた。楓とは正反対と言っていい人だった。落ち着いていて、空気のような人だった。僕は美咲といると安らぎを感じたし、何より自然でいられる。ただその自然さが不意に極限の不自然に結びつくような、そんな気持ちになることがあった。その理由が掴みかけるような時、僕はいつも諦めてしまう。唐突にどうでもよくなってしまうのだ。知らなくてもいいと思えてしまう。それなのに楓といるとその答えが分かってくるような気がして、不快だった。

 きっと美咲と僕は似ているんだろう。突き詰めて言えば同類なのだ。同類同士の交感の空虚さが、僕達の不自然さなのかもしれないと、分かりかけていた。

 食べかけのアイスを地面に捨てた。惨めに潰れたそれは、食べ物には到底見えなかった。

 夜の病院が心許ない灯りの中に浮かび上がっている。消灯時間はとっくに過ぎ、一階のエントランスだけが仄暗く光っていた。

 楓は慣れた足取りで病院の裏手に回り、ドアをあっけなく開けてしまった。

「はやくしてよ」

 僕はまるで自分が言い出したことでは無いとでもいうほど重い足取りで、院内に入った。彼女が軽やかな足取りで、地下へ続く階段を駆け下りていく。緑色の誘導灯だけが浮かび上がる地下への入り口に、僕は何も感じなかった。まるで不感症のように。

 誘導灯の色が滲んで、自分が酔っていることだけを理解した。

 地下通路を真っ直ぐ進んだ突き当たり。そこに霊安室はあった。まるで物置のようなその部屋は、死人の意味を何よりも規定していた。

 暗い部屋の中には一つのモノが硬いベッドに横たえられていた。寒い。事実防腐の為に室温は低かった。ただそれ以上に芯を凍らせるようなものがあった。

 楓がモノの顔に掛けられていた白布を剥がす。

 それは一般的な成人男性の形をしていた。彼女が笑いながらそれの頬をぴしゃぴしゃと何度も叩く。土気色の肌がくたびれたゴムのように振動する。

 僕はそのモノの顔をじっと見つめていた。その顔は生を終えた安らかな顔をしたと思えば、次の瞬間死に苦悶する凄まじい顔に変わった。また何の感情もなくなったかと思えば息を吹き返したかのように生き生きとした。

「見てよ、これ!本当に死んでる!馬鹿だねえ。死んじゃうなんて本当馬鹿!下らない!」

 彼女は興奮していた。それは優越なのだろう。そこに横たわるモノが持ち合わせないもの。

 僕は酷く酔っていた。自分の境界線が滲んで溶けていくのを感じる。自分の形が崩れる。霊安室の冷たい床と繋がる。そのまま僕の感覚はベッドまで伸びていく。モノに触れる。そしてそのモノは僕の顔になっていた。僕はこの死体であり、部屋で飛んでいる蛾なのだと分かった。僕は無意味な狂騒であり、吐瀉物であり、重なっては離れる針、捨てられたアイスクリームなのだと分かった。

 その放流の中で、楓だけが笑っていた。僕達を見下しながら、僕達の頬を音高く叩き続けている。彼女だけが生きているのだと分かった。

 僕の彼女への感情は恋慕でも友情でもなく、生者への憧れだった。

 僕はまず家に帰ったら部屋に飛んでいる蛾を叩き殺してやろうと思った。

 そこからまず始めようと思った。

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