歪な二人 2
目が覚めたら、見慣れた天井が視界に入り、ふと思う。昨日のあの光景は夢だったのではないか、と。しかしベッドの上の惨状を見て、昨日の悪夢が現実であることを認識して、陽向はトイレに駆け込んだ。
昨日の夜、これ以上吐けないのではないかと思うほど吐いた。まどかは泣きながら吐いて謝る陽向を可愛いと言って何度も凌辱した。トイレの床に蹲り、零れる涙を抑えることができず、声を殺して泣く陽向の前に、悪夢の原因は現れた。
「先輩、泣いてるの~?」
まどかは一糸まとわぬ姿のまま陽向の隣に座り込み、その肩に触れる。胸をわざとくっつけるように密着するまどかに陽向は小さな悲鳴を上げた。
「昨日の先輩、可愛かった~何度もごめんなさいって泣いて謝って、子供みたいだったよ」
陽向は目の前の少女にレイプされた。
そのあまりにも恥ずかしい事実を他人に相談することもできず、陽向をまるで自分のものにしたような気分にでもなったのか、まどかは陽向の唇にキスを落とす。
「これで先輩はまどかのだね~先輩、先輩はまどかの運命の人だよ。先輩にとってのまどかもきっと、運命の人になるから」
「……お前、頭おかしいよ。何がしたいの?」
やっと絞り出せた言葉はそれだけだった。
まどかは何も答えず、リビングに戻り服を着替える。トイレから動くこともできない陽向に、再び現れたまどかは携帯を渡した。
「さっきからバイブうっさいよ~」
画面には大学の友人の名前が載っており、震える指で画面をフリックした。
『おいおい~~陽向~お前講義さ、ぼ、ん、な。午後は来いよ!いいな!!』
「宗政……ごめん、午後は行くから」
陽向の返事に満足した宗政と呼ばれた青年は電話を切り、室内には沈黙が流れた。その間に服を着たまどかが陽向の前にしゃがみ込み、陽向の頬を撫でる。その動きがまるで壊れ物を扱うような優しさを含んでおり、先ほどまでとはまるで違う慈愛に満ちた行為に陽向の表情がくしゃりと崩れていく。
泣き出した陽向をまどかはずっと抱きしめていた。そのあまりにもいびつな光景を咎める者はおらず、二人の異様な関係はこうして始まったのだ。
***
「社長出勤じゃねえの~陽向君。なあなあノートとってやった俺に何か言うことある?」
「ありがとうございます宗政様」
「よせやい」
今時誰もしないだろう、鼻の下をひとさし指でこすりふんぞり返っている大学の友人に陽向は小さく笑った。今日の講義は二限目と四限目のみで正直二限目に出なかった陽向からしたら、四限目も出なくてもいいかという気持ちになっていたが、いつにもなく出ろとうるさい宗政のせいで、こうやって大学に来ていた。
後ろの席に座っている友人達も陽向と宗政のやり取りを笑って見ており、それはいつもの大学の光景だった。まどかと二人でいるよりは遥かに居心地のいい空間に陽向は大学に行く選択をして良かったと実感した。
大丈夫、大したことじゃない。ずきずきと痛む心臓をごまかすように服を握り締める。女がレイプされたのと訳が違うんだ。生憎自分は童貞でもない、こんな事大したことはない。むしろ男からしたらラッキーといわれるかもしれない。
まどかはお世辞ではない、誰から見ても可愛らしい少女だった。昨日の限りでは胸もそこそこ大きかった。何より世間の男どもが一番興奮するだろう高校生だ。宗政なんかは羨ましいと騒ぐだろう。
― だから、昨日の出来事は大したことじゃない。
「陽向、お前まさか今日の約束忘れたんかと思ったわ」
「……その事なんだけど、今日はやっぱり行かないって駄目か?」
「駄目に決まってんだろクソ。てめえイケメンの余裕か。もうすぐ夏休みはいるんだよアホたれ。俺らの青春は今日にかかってっかもしれねえんだぞ」
今日の夕方、陽向は宗政に頼まれて合コンに参加する予定だった。相手は宗政のバイト先の女子大生らしく、宗政は今回で彼女を作ると意気込んでいた。四対四の合コンで陽向と宗政と後ろに座っている二人で参加予定だった。と言っても、陽向は何度も断っていたが、宗政に頭を下げられて渋々参加をさせられていたのだ。
その理由としては幹事の女性が写真を見た際に陽向を偉く気に入り、陽向を絶対に連れてきてほしいと頼んだからだ。
宗政からしたら陽向が来ないと幹事が萎えて合コン自体が成り立たなくなる可能性があると言って、陽向の不参加はよほどのことがない限りは認めなかった。
「陽向、客寄せパンダになってくれよ。お前モテんだから、俺らにおすそ分けしてよ~~」
「……何のことだよ」
泣きついてくる宗政を軽くいなし、陽向はため息をついた。
「お前はいてくれるだけでいいからあ~~~」
「分かったよ。だから引っ付くなって」
教授が入ってきて講義が始まり、陽向は宗政を引きはがしノートを開いた。ノートを取りながら今日の夕方を考えると憂鬱だった。
講義を受けている間、携帯が震え画面を確認すると見たくない名前が表示されて顔をしかめる。相手はまどかからで、しばらく無視していたが何度も送ってくる連絡に痺れを切らせて非表示の設定をして画面を閉じる。今はまどかの名前は見たくもなかった。
講義を受けながらも上の空でただ文字を書いて行くだけのノートは陽向の頭の中には全く入ってこない。手を動かしながら陽向はずっと、まどかのことを考えていた。門限があると言っていたし、今日陽向が起きたのは朝の十一時だ。自堕落な大学生の典型的な過ごし方をしている陽向とずっと一緒にいたまどかは学校や家族から何も言われなかったのか、ただでさえ門限が十八時とかいう今のご時世、どこの社長令嬢だと聞きたくなるような時間に設定されているのに、外泊……しかも男の部屋に泊まったとかご両親が知ったら気が気じゃないだろう。
― まあ、俺には関係ないことか。
もう、まどかを家に入れない。二人きりになるつもりもない。
まどかは陽向との距離を間違えた。もう、後戻りはできない。陽向はまどかから距離を置くつもりだった。バイトでの会話は仕方ないが、それ以上関わるつもりもない。これ以上、まどかが陽向の心に居座り続けたら、耐えられる自信が陽向にはなかった。
***
「かんぱーい!」
グラス同士の小気味いい音が響き、陽向はジョッキに注がれたビールに口をつけた。
宗政に連れてこられた合コンはすでに女性陣が集まっており、陽向たちの到着と共に料理も運ばれ、アルコールもすぐに店員が持ってきた。目の前の女性陣は華やかに着飾り、目元も口元もキラキラ輝いていた。指には華奢なリングを着け、その爪まで美しく装飾されている。
なんだか普段着で来てしまった自分が急に恥ずかしくなり、陽向は無言でアルコールを口に含む。
まどかからのメッセージを確認することもなく合コンに来た。あの後もしつこく送り続けてきたんだろうか。ふと、まどかのことを考えた自分に嫌気がさし、一言も話さずアルコールを飲む陽向に前の席に座った女子大生はおずおずと声をかけてきた。
「あの、陽向君、でいいんだよね」
「え、あ、はい」
急に声をかけられ、うまく返事ができずに固まった陽向に、女性は頬を紅潮させて笑った。その笑みは恥ずかしさも含まれているのは勿論、自分をよく見せようとする狡猾さを持っている印象を陽向に与えた。
アルコールを置いて話を聞く体勢をとった陽向に女性は安心したように微笑んだ。その姿を見て、庇護欲が沸かないかと言われたら嘘になる。可愛らしい女性だとは思った。ぐいぐい来るタイプの女性ではないのだろう、話を振らない陽向に必死になって話題を提供しようとしてくれている。
なんだかその姿を見ると申し訳なくなって、初めて陽向は目の前の女性の話に真面目に耳を傾けた。
「休みの日は……バイトばかりしてます。貧乏苦学生なんで」
「あ、そうなんですか?バイトって週に何日いれてるんですか?」
「四日は入れてますね。知り合いの紹介で始めたカフェなんで、あんまりいい賄いとかは出ないんですけど」
「居酒屋とかの方が出るかもしれないですね」
クスリと笑った女性にきっと他意はない。しかし陽向はあまり居酒屋にいい感情を持ってはいなかった。過去に一か月だけ、居酒屋で働いたことがある。ホールスタッフをしていたが、酒が入った人間ほど面倒くさいものはなかった。
陽向は世間一般でいえば、誰から見ても恵まれた容姿に入るだろう。整った顔立ちに無難だが、清潔感のある服装。身長だって低くはないし、大学もそこそこの有名大学だ。アクセサリーとして飾るにはちょうどいい人物だった。
そのせいか酒に酔った女性に絡まれることが多く、男性からは彼女はいないのか、モテるだろう、初めては何歳?などのセクハラに悩まされ、陽向に居酒屋のバイトは長続きしなかった。今のカフェはその居酒屋の店長からの紹介だった。知り合いがカフェを開くから働かないか、客層も居酒屋よりは落ち着いているだろう。そう言われたのだ。
すぐにでも次のバイトをと思っていた陽向は二つ返事で頷いた。その結果、今のバイトはそこそこ長続きしている。
「趣味とかってあります?」
一番無難で一番困る質問をされ、陽向の口は動かなくなった。他愛ない会話で大体聞かれる質問ナンバーワンだと思っている。そして答えにくい質問とも思っている。明確な趣味のない陽向にとって、この質問は自分の価値を値踏みされているような気がしてあまり好きではなかった。
趣味と言っても、向こうが求めている答えはきっとこうだ。アウトドア、旅行、ライブ、スポーツ……そういった答えを求めている。だが、そう答えたところでどこに行くのか、誰を追いかけているのか、等の深い質問をされたら会話が途切れることを知っている陽向はいつもこう答える。
「友人のゲームを見るのが好きです」
「どんなゲームしてるんですか?自分ではしないんですか?」
「はい、俺は下手だしゲーム持ってないんで……家によく転がり込む奴が俺の家にゲーム置いてってるんです。色んなのしてますよ。RPGもアクションも格ゲーも。そいつ、ゲーム中に結構しゃべる奴で、それが面白くて、そいつのゲーム見てるのが好きです」
― ぐあー!こいつつええよ!炎全然効かねえじゃん!!やっぱさっきのとこであの氷の奴倒して素材錬成せんと駄目だったんだよー!!
この間泊まりに来た湊のボヤキを思い出して陽向は小さく笑った。
相手の反応なんて興味はない。これで会話が途切れても陽向は構わなかった。でも目の前の女性は楽しそうに笑っており、その反応が意外で陽向の方が面食らってしまった。
「素敵な友達ですね!楽しそう!」
「え、陽向君ゲームするの?私もしてる!何してる!?」
別の女性も割り込んできて、元々コミュニケーション能力の高くない陽向はすぐさま隣にいる宗政に助けを求める。
その後は宗政に話の主導権を譲り、陽向は相槌を打つだけの作業をさせてもらった。合間合間に連絡先を聞き出そうとする女性を軽くあしらって、ラストオーダーの時間が来るまで、何とか陽向の愛想笑いはボロを出さずに済んだ。
***
「じゃあ、今回はこれで解散!グループ作るから、そこで連絡はとりあってちょ~」
ほろ酔い状態の宗政が大げさなほどに手を振り、それぞれが帰路につく。陽向も絡んでくる女性陣を流して、すぐさま帰路についた。なんだか飲み足りず、途中のコンビニでビールとつまみを購入し、地下鉄を目指して繁華街をのんびりと歩く。
平日とはいえ、夜は活気に満ち溢れており、キャバクラなども近いことから客引きやカップルたちも多く、街はネオンに包まれて賑やかだ。何の気なしに、いつもは地下鉄に乗るのに、今日は歩こうと思ったのだ。歩いて三十分で陽向の最寄りの駅にはつく。たまには歩くのも悪くない ― と、らしくないことを考えたのだ。
ネオンで輝き、人混みと喧騒で包まれている街の中をのんびり歩いていた陽向は、ある人物を見つけて足を止めた。
「まどか?」
そこにはまどかがいた。年配の男性を腕を組んで歩いており、二人はそのまま歓楽街に消えていく。
― ああ、そういうことか。
別にまどかが誰と寝ようが構わない。陽向をレイプしたくらいだ。もともと性欲の強い人間なのだろう。
自分でも驚くほどに心は静まっていて、むしろまどかにとって自分がその他大勢の存在であることが嬉しかった。その他大勢ならば、まどかは陽向に執着はしないだろう。飽きたら消えてくれる。
そう確信できたことが嬉しかった。
なんだか、沈んでいた心が一気に軽くなって、陽向は鼻歌を歌いながら帰路に着いた。
***
「あ、陽向君、おかえり~」
最悪なのは自分の勘違いだったということ。
アパートの前に居座っていたのはまどか本人だった。先ほどの人物は他人の空似だったのだろう。まどかはどのくらいの時間からここにいたのかは知らないが、しゃがみ込んでいる横には飲みかけのジュースと開けられたポッキーが置かれている。少なくとも五分程度とかではないらしい。
無視しようにも扉の前でしゃがみ込まれたら、こちらも部屋に入れない。陽向は途端にうるさく騒いだ心臓に気づかない振りをして、まどかに低い声で言葉を放った。
「どけよ。言っとくけど、お前、入れねえから」
「んーまどか、ここに住みつくしぃ~だって陽向君とまどかは恋人だもんね~」
いつの間にか先輩から名前呼びになっていて、その不快感に陽向の表情が曇る。とりあえず、相手をする価値もない。そう判断し陽向はまどかを乱暴に玄関からはなし、鍵を開けた。当たり前のように入ってくるまどかを突き飛ばして扉を閉めようとした陽向だったが、扉に侵入してきた腕に驚いて思い切りその腕を扉で挟んでしまい、あまりの罪悪感から扉を開けた。
「大丈夫か!?ご、ごめん。こんなことするつもりじゃ……」
扉を開けてまどかの腕を見ると、見事に挟まれた跡が痛々しく残っており、内出血もしていた。顔を青ざめて謝罪する陽向にまどかは無表情で告げる。
「陽向君、なんかさ、甘いにおいするね。誰と会ってたの?女?」
陽向の心配をよそに、まどかは玄関に侵入し、陽向の首元に顔をうずめる。そのまま匂いをかがれ、前回の恐怖がよみがえった陽向はまどかから距離をとった。
「な、んなんだよ!俺が何しようが勝手だろ!?」
「勝手じゃないよ。陽向君はまどかのじゃん。ねえ、そういうの浮気っていうんだよ」
「何訳の分かんねえことを……!あの時のは……ッ!」
昨夜の行為を思い出して、目の前がチカチカして頭を抱えて蹲った陽向にまどかは玄関をしめて鍵をかける。その行為が、まるで監禁されたように感じるのは、陽向の気のせいではないだろう。
まどかは陽向の前でしゃがみこんで、携帯を突き出してくる。
「陽向君、既読してくんないじゃん。昨日の陽向君、可愛くて本当に最高だったのに」
まどかから送られていたメッセージを陽向は全て確認せず無視していた。その中には動画も含まれていたようで、俯いて顔を上げない陽向も動画の音声が聞こえた瞬間、弾かれたように顔を上げた。
『あ、いや、だっ!ゆる、して、!い、あっ……ぐぅ!ごめんなさい!止めて!止めて!!』
携帯の中の陽向はひどい顔だった。涙と嘔吐物でぐしゃぐしゃで、体は力が入っておらず、まどかの言いなりだった。動画の中でレイプされている自分を見て、陽向は相手が少女だと分かっていても、その顔を殴っていた。
床に倒れたまどかに乗り上げて何度も殴る。この光景を他の人間が見たら、陽向はすぐに警察に通報されてしまうのではないか。頭の片隅でそう思っていながらも、もう耐えられなかった。
「消せ、消せよ!!ふざけんな!お前のせいで、俺は、俺は……ッ!!」
「晴翔君」
その瞬間、体が動かなくなった。床に尻もちをついた陽向は震えており、まどかを見る目は恐怖に染まっている。先ほどまでの勢いは完全になくなっていた。
殴られたせいで腫れた頬を気にもせず、まどかは怯える陽向に口づけた。
「可愛い、晴翔君……可愛い」
「なん、で……その、名前……」
「ずっと、晴翔君のこと探してた。やっと見つけたのよ。名前変えるなんてひどいよ……おかげで、こんなに時間がかかっちゃったじゃん」
「誰、だよ。お前……」
陽向の質問に、まどかはそれ以上答えず携帯をポケットに入れる。目の前の少女が恐ろしく、あまりにも得体が知れなくて、陽向は逃げようと玄関の扉を掴む。しかし逃げる場所がないことと、後ろから回された腕に力が抜けていく。
「陽向君、今日、誰といたの?教えて」
有無を言わさない問いと首に回された手に陽向の思考はフリーズする。この少女ならば首を絞めてくることも、そのまま自分を引きずりこんで、再度レイプすることだって有り得そうで、服従しか陽向には道がなかった。
「ご、合コン、で……人数合わせ、だったんだ」
「連絡先とか聞いたの?」
「教えて、ない」
「ふーん。確認させて」
まどかが手を差し出し、陽向は大人しく携帯を渡す。女性の連絡先がないことを確認したまどかは満面の笑みを陽向に向けた。
「本当に人数合わせだね~よかった~!浮気されたらどうしようかと思った~!陽向君って本当に女の子の連絡先ないよね~バイトの人だけじゃない?」
言われてみれば、そうかもしれない。女性から連絡先を聞かれたとき、よほどのことがない限りは断っている陽向の携帯には女性の連絡先はほとんど入っていなかった。
なぜ、そこまで女性を避けて生きてきたのか、陽向には分からない。なぜ女性を嫌悪するのか、考えたこともなかった。
「携帯、返して……」
「うん、いいよ~」
まどかが陽向に携帯を差し出した瞬間、着信音がなり、陽向の手に携帯が戻ってくることはなかった。まどかが画面を確認した瞬間、氷のように視線が冷たくなり、陽向の許可もなく携帯を耳に当てる。
陽向が止めようと手を伸ばした瞬間、電話先から声が聞こえてきて、力を失った。
『陽向ー今日泊めて!今からそっち行くわ~』
電話の相手は湊で、今から家に来ると言う内容だった。慌ててまどかから携帯を奪い、耳に当てる。
「あの、湊、今日はちょっと……」
『え、マジ?ごめん頼むよ!ちょっともう終電ないし、マジで部屋の隅っこでいいから』
「……何分かかる?」
『さんきゅー陽向!四十五分くらいかかるかも~!合鍵使うから寝ててもいいぞ!』
電話が切られ、後ろから不機嫌を隠さないため息が聞こえ、陽向の肩が震える。
「友達、来るから……もう帰れ」
「湊君でしょ?知ってるよ。一回カフェにもお客さんで来たもんね」
湊は一度、陽向が働いているカフェに客として顔を出したことがある。陽向をからかうために来たという湊に陽向は憤慨しつつもサービスしてやったのだ。まどかもそのことを覚えていたようだ。
「まどか、湊君知ってるし、まどかもいてもいいよね」
「駄目に決まってんだろ!?帰れよ!」
「あ~でも今のまどかの顔、結構ひどい?陽向君に殴られたってばれたらどうしよう」
心臓が一瞬止まった。陽向はまどかにひどい暴力を振るったのだ。端から見たら顔の腫れているまどかが百パーセント被害者と思われるだろう。そしてなぜこんなことになった経緯を説明してしまうと、陽向のあの動画の存在がばれてしまう。陽向は完全にまどかの操り人形になってしまったのだ。
「お前、俺に恨みでもあんの?」
声が震え、涙がこぼれた。
まどかは無表情で陽向を見つめており、その問いかけに返事をしない。それが肯定の意味ととらえた陽向は泣き崩れて土下座した。
「ごめん、ごめんなさい。許してください。俺、お前に何か酷いことしたんだよな」
「……陽向君、何も酷いことしてないよ。まどかにとっての王子様だもん」
まどかが陽向の前にしゃがみ込む。涙がたまった瞳で視界は歪み、まどかの顔をはっきり確認できない。しかしまどかの声色は先ほどまでとは違い、愁いを帯びている。
「陽向君ってさ、まどかのこと怖いって思ってるでしょ」
その質問に陽向の涙は引っ込んだ。あまりにも当たり前の質問をしてきたまどかが信じられなかった。逆にこんなことされて恐怖を感じない人間がいるのだろうか。
怖いに決まっている。その言葉すら恐ろしくて出てこないのに。その言葉を放ったら何をされるか分かったものではない。ぐしゃぐしゃの顔で固まる陽向を揶揄することなく、まどかはその頬を両手で包む。
「陽向君、気づいてないよね……陽向君ってまどかのことが怖いんじゃないんだよ。だって、陽向君が本気出せばまどかなんて簡単に負けちゃうよ。さっき陽向君に殴られたとき、まどかは手も足も出なかったじゃん。でもなんで昨日、陽向君がまどかに負けたと思う?陽向君、怯えてた……まどかに誰かを重ねてたよね。恐怖で絶対に逆らえない人がいたんだよね?その人とまどかを重ねてた……ねえ、陽向君って女の人が嫌いなんだよ。まだ、気づかないの?陽向君、あのお友達のことが好きだよね」
その言葉に心臓が止まった気がした。まどかは当たりだ、と言い、屈託なく笑う。
逆に陽向は自分でも考えたことのない気持ちをまどかに突き付けられ気が気ではなかった。あのお友達とは、湊のことだろう。湊と陽向は小学生のころからの友人だった。家が近所でよく遊んだ。今まで思い出そうともしなかった昔の記憶が徐々に甦っていき、それと同時に頭の片隅で警鐘がなる。
― それ以上、思い出すな。せっかく逃げてきたんだ。
そう、訴えている。
でも目の前のまどかがそれを許さない。まどかは自分が、今日来た目的をはっきり告げた。
「私ね……陽向君とどうしてもしたいことがあるんだ。私と陽向君じゃないと駄目なんだ。陽向君はまどかを救ってくれた王子様だから。覚えてる?陽向君、まどかにガラスの靴、くれたよね」
その瞬間、目の前の少女が何者だったのか思い出した陽向は声が出なかった。まどかは自分を探し続けていたのだ。ずっと、ずっと。探し続けたまどかと逃げて思い出さない様に蓋をしていた陽向。その記憶を掘り返され、さらには奥深くにしまっていた湊への想い全てが溢れかえっていく。
そうだ、陽向は家族から逃げてきた。
実家から通えるはずなのに一人暮らしをしているのは、家族から逃げるためだった。あの女も力で陽向に敵わないとなれば何もしてこないはずだ。それなのに、陽向は未だに恐れている。
― 母親を、誰よりも恐れている。
陽向は女性が嫌いだった。母親と同じ性別だったから。普通に話すことはできるが、色を使う女が何よりも嫌いだった。母親を思い出すから。
「陽向君って当時地元ではニュースになったよね。それで苛められて、転校したんだよね?陽向君、知ってるよ私」
まどかの目が細められる。この少女は陽向の消し去りたい過去を知っている。それ以上言わないでくれ。そう言いたいのに陽向の口からは何も出てこない。手で顔を覆い、蹲る。この行動に自分を守ることなんてできるはずもなく、まどかは覆いかぶさるように陽向の背中に腕を回して抱きしめた。
「陽向君って、お母さんにずーっとレイプされてたよね」
ガラガラと陽向の世界が壊れていく。なぜ、陽向があの場所から逃げ出したのか。
母親からの性的虐待から逃げてきたのだ。バイトが大変でも勉強が大変でも、あの母親と一緒に暮らすことがもうできないと陽向自身が決断したのだ。成人になったら母親と縁を切るつもりでいた。もう、あの女とかかわりたくないと、思っていたのだ。
「陽向君、だから女の人が怖いんだよね。お母さんを思い出すから。陽向君は自分を助けてくれた湊君に恋してるんだよね」
陽向の心に少しずつひびが入っていく。パラパラとヒビが入った部分からかけらが落ち、血が巡るようにいろんな想いが噴き出てくる。
― 陽向は湊に恋をしていた。打ち明けるつもりのない恋を。いや、湊がいたから陽向は自殺と言う最悪の逃げ道をとらずに済んだのだ。
そうだ、湊が児童虐待のニュースを何よりも嫌うようになったのは、陽向のせいだった。湊は陽向が母親にレイプされている現場を、その目で目撃していたのだ。
「湊君が、陽向君のお母さんに怪我をさせたんだよね。陽向君のお母さんてガラス細工が確か好きで沢山家にコレクションしてたんだっけ?湊君はガラスの置物で陽向君のお母さんの頭を殴って、それが原因で警察沙汰になってニュースになっちゃったんだよね。ね、晴翔君……陽向君の本当の名前。ニュースになったせいで学校でいじめられて、転校するときに改名したんだよね。私、ぜーんぶ知ってるの」
晴翔は陽向の前の名前だった。小学生のころ、名前を改名して晴翔から陽向になった。陽向の幼いころの名前を、誰も知らないはずの名前を、目の前の少女は知っている。
まどかは陽向に最悪の記憶を思い出させた。陽向が逃げることでしか保つことができなかった秘密を。まどかが陽向の頬を再度手で覆い顔を上げる。視線がぶつかり合うとまどかは笑った。その笑みがあまりにも狂気にまみれてて陽向の喉がヒクリと反応する。
「陽向君がまどかのこと思い出してくれて嬉しい。陽向君、愛してる。まどか、陽向君と幸せになりたいの。だから、陽向君……」
ゆっくりとした動作で陽向とまどかの唇が重なった。震えて抵抗できない陽向の口内にまどかの舌が入り込んで卑猥な水温が室内に響き渡った。満足したまどかが唇をはなして嬉しそうに笑う。その笑顔と対照的に陽向の表情には恐怖とショックしか浮かんでいない。
「湊君は諦めて、まどかのものになって」
それだけ告げて立ち上がり、玄関の取っ手に手をかけたまどかが振り返る。
陽向は座り込んで、立ち上がることすらできないのに。
「あ、今日さ、湊君見たよ。女の人と一緒にいたけど、デートかな」
心が悲鳴をあげている。隠していた本当の気持ちと、逃げることでしか保てなかった過去への恐怖を掘り返されて。
まどかが部屋を出ていき、一人になった部屋で陽向は蹲って泣いた。